%e3%81%8a%e8%8f%93%e5%ad%90%e3%81%aa%e6%ae%ba%e6%84%8f_02_coverパティシエを目指していた彩子は、ある罪を犯した怖れから逃げ隠れして暮らしている。行き着いた先は、人気が陰りをみせた歌手・カオルの付き人の仕事。だが不運はつきまとい、ついに運命の大事件へと…。詩人・小原眞紀子の原案が甘やかな哀愁とともに語られる、待望の金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第3弾!

原作・小原眞紀子 作・露津まりい

 

 

 

 

 

1 棚の奥に忘れられた古い粉(後編)

 

 

 時計は深夜二時を回っていた。

 カオル宅の居室で、彩子は擦りむけたカーペットに坐り、夕刊の最後の面を眺めていた。

 昼間は、本当に思いがけなかった。あんなところでまさか、根木の名を聞くとは。

 ここへ住み込みを始め、間もなくのことだった。あの近くで身元不明死体が見つかったという記事を見つけた。

 その後の続報はないが、あれが根木だったろうか。いや、何かの間違いだ、どこかで生きているに違いない。自首などしたら、むしろ自分の居所をあいつに教えることになる。人混みの中で、姿を見かけた気がするときもあった。

 いずれにせよ、些細なきっかけで知り合い、短かい交わりだったのだ。なのにこの三年、息を潜めるようにして、ずっと新聞もチェックしてきた。生きていようと死んでいようと、もう許されていいはずだ、と彩子は思っていた。

 時計を見ると、三時近かった。

 まだ寝るわけにはいかなかった。仕事が残っている。もっとも、本人が入院中の留守宅では、深夜にいきなり下から呼びつけられることだけはない。

 彩子は部屋の隅の古ぼけた箪笥の上からノートパソコンを下ろした。

 と、カーテンレールに吊した鳥籠の風呂敷を持ち上げ、中を覗き込んだ。身体の中に頭を突っ込んでいた小鳥は黄色い羽をぴくりと震わせ、灰色の瞼で覆われた目を薄く開いた。それから身震いすると、羽の内側を嘴でつつきはじめた。

 この板張りの六畳には嵌め殺しの窓が一つあるだけだったが、それでもカナリアには幸運だった。隣の納戸には窓はない。そこに仕舞ったスキー用品を移すのが面倒という理由だけで、こちらをあてがわれたのだから。もっとも、この部屋も彩子の居場所というわけでもなく、ほとんどの私物は、ここにあった荷物と一緒に前のアパートにある。

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 ここで本当に自身の持ち物と言えるのは、この小鳥だけだった。

 低い丸座卓にノートパソコンを置くと、彩子はブログを開いた。

 九月一三日(木)と日付を入れる。

 「穏やかな一日。曇り空だけど湿気がない。今年はとりわけ早い秋の気配を感じる。」

 もっとカオルらしい文体にしなくては。東大卒タレント芳田美由子の結婚と、かつて一世を風靡したターコイズの再結成を話題に、いかにもカオルの言いそうな皮肉を飛ばそう。

 と、彩子は思い出し、箪笥の引き出しからメモを引っ張り出した。

 「なんて美しい季節なの、って、あたしの歌にあったっけ。これからいい季節だけど、カオルはすっごく疲れちゃった。ファンの皆様ともサヨナラね。わがままはすべてを終わりにするそうだから、カオルはヒガンに向かいます」

 それが今回の「遺書」だった。

 一週間前の深夜、この居室でこんなふうにブログを書いていた彩子は階下の気配を感じ、カオルに呼びつけられる心の準備をしていた。

 が、インターホンの内線は鳴らなかった。気のせいと思ったが落ち着かず、暗い廊下を窺い、下に降りていった。

 寝室の入口で、彩子は後ずさりした。

 足もとまでめくられたカバーに鮮血が染み込み、どす黒く固まりかけた血溜まりに、カオルが白目を剥いていた。だらりと腕を垂らして口は半開き、上半身がベッドからずり落ちている。

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 廊下からリビングへ走り、受話器を掴んだ。慌てて一一〇番しそうになり、一、一、九と押し直した。

 「落ち着いて。住所を言ってください」

 電話を切ると、彩子は目を閉じ、床に坐り込んだ。すぐに救急隊が来るだろう。が、とても息があるとは思えなかった。

 そのときふと、気持ちの隅に、些細な棘が刺さっている気がした。

 目を開け、壁を伝ってようやく立ち上がった。何をしようとしているのか、自分でもよくわからず、再び寝室の前にいた。

 黒塗りのサイドテーブルのライトが点いていた。

 塊のような怖れ。が、それと裏腹に足が前に出た。

 ベッドから顔を背け、サイドテーブルに近づいた。

 置いてあった紙切れを掴んだ。床の血溜まりを避けて寝室を飛び出した。廊下と玄関の明かりを点けると、掌の中の「遺書」を読んだ。

 やれやれ、とパソコン画面を見ながら、彩子は息を吐いた。

 あの血溜まりがチョコレートだったとは。

 ホームページに戻ると、月に吠える狼のような逆光に映えた影が、腕を広げるカオルの横顔へと変化する。何かを希求する、攻撃的な表情。彩子は苦い笑みを漏らした。

 救急隊とほぼ同時に、三輪田が駆けつけた。彼らが寝室に入ると、彩子は大理石の三和土に蹴散らされたスニーカーを履き、マンションの外廊下に出た。

 空が白みかけていた。冷気が頬に触れ、頭の芯が痺れた。とにかく現場から離れたくて、中庭に出ようとしたとき、「どうかなさったの」と声をかけられた。

 薄青のネグリジェに厚手のレインコートを羽織った中年の女だった。

 「経理を担当している者が倒れてしまって」と、とっさに思いもよらない嘘が出た。「カオルさん宅に、たまたま泊まり込んでいて」

 「あら、たいへんねえ」

 女は落胆した表情で背をすくめ、そそくさと行ってしまった。痩せぎすで短い髪を染めた後ろ姿には、寝ていた気配もない。代官山町の高級マンションにはどんな住民がいるやら、見当もつかなかった。

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 彩子は外廊下から、円柱の並ぶ中庭を呆然と眺めていた。まだ九月というのに植木はわずかに紅葉しかかり、落ち葉はきれいに掃除されていた。

 首から下げた携帯が鳴った。三輪田だ、と声がして彩子の胸の底は冷たくなった。紅葉した枝が死者の手招きにみえた。

 「今、処置を済ませて救急車に乗り込んだ。とりあえず宮野先生のところに入院だな」

 彩子は言葉がなかった。

 「そうでもしないと、本人も格好とれないだろ」

 「生きてるんですか」と、問う声はなかばどもっていた。

 「もちろん。でなきゃ警察呼ぶよ」

 「あの出血で、白目を剥いてたのに、」

 「小道具の血糊だよ」と、三輪田は低く呟く。「それとチョコレート。足りなかったんだな、血糊が。手首もいちおう切ってるがね」

 白目を剥いてたとな、そりゃ傑作だ、と笑うと、「救急車はサイレンを鳴らさずに来させろ」と唸るように叱った。

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 彩子は救急車を呼ぶのが精一杯だったが、三輪田の方には、カオル本人から直前に電話があったと言う。

 狂言自殺の癖のことは聞いてはいた。最初の睡眠薬の飲み過ぎはデビュー間もなくで、二度目には睡眠薬を一瓶空けたと事務所に電話があり、三度目は首吊り。廊下の鴨居に掛けたロープが切れ、本人が倒れているかと思いきや、椅子とロープをそばに置いて寝たふりをしていたらしい。

 カオルの寝室で、彩子はティッシュに覆われた屑籠を覗き、空のケチャップのチューブとハーシーチョコレートの包み紙を見つけた。

 朝の十時に家政婦が来る前に、すべてを片づけなくてはならなかった。板張りの床には赤黒く掠れた線が幾重にも拡がっていた。シーツの血は黒ずみ、固く乾きかけていた。白く残っているところはほとんどなく、本物なら確かに、身体の血液全部を吸い取ったに近い。

 ビニール手袋をはめ、バケツに水を汲んで雑巾で拭きながら、付き人を辞め、ここを出ようと初めてはっきり決心がついた。

 そう、潮時だ。

 ファン向けサービスの「今日のメール占い」のアイコンを、彩子はクリックした。

 独立心旺盛で剛胆、それでいて繊細な皮肉屋のイメージ。

 コアな女性ファンを持つカオルは、そばにいれば単に気まぐれで子供っぽいだけの三十女だった。

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 いいかげんな「今日のメール占い」を書き込み、彩子は考える。

 周囲のスタッフがカオルの前に大きなレンズを置き、カリスマらしく拡大して見せているようなものだ。もっとも彩子自身、この三年間はその蔭に隠れ、やってきたのかもしれない。

 あの「遺書」は間違いなく、そんな彩子への当てこすりだった。

 だからこそ自分はあれを見つけ、動転してしまったのだ。

 わがままはすべてを終わりにするそうだから、と遺書に書かれていたのは、その前の晩、カオルにしてやった「天使の本のブック占い」の言葉だった。

 付き人を辞めることを思い始めていた彩子の気配を、カオルは敏感に感じ取ったに違いない。ならば出て行けということか、それとも引き留めたいのか、はっきりした意図はわからない。ただ、怒っているということしか。

 廊下の鏡に映っていた憎悪の眼差しが蘇った。カオルの怒りの理由は、いつもさだかでない。

 だが、いまや大事なのは彼女のではなく、自分の意図だった。安月給だったが、住み込みのおかげで貯金もできた。親類がいる神戸に行き、セキュリティのよいマンションを借りよう。そして、今度こそ。

 振り向いた瞬間、自分の顔があった。

 箪笥から突き出した棚の上に丸鏡が置かれている。瞼は腫れぼったく、肩まで届かない髪は以前のストロベリーブラウンに染める暇もないが、小柄で色白、念入りに化粧すれば結構、見られるはずだった。

 パティシエになろう。

 彩子は再び決心した。少なくとも、そう努力することが自分の本来の姿だ。一時の気の迷いが脱線を導いたが、それもここまでだ。

 神戸の有名な菓子店で、アルバイトを見つける。そしてあのときの挫折を乗り越え、さらに上級の製菓学校を修了するのだ。

(第02回 了)

 

 

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* 『お菓子な殺意』は毎月02日に更新されます。

 

 

 

 

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メアリアンとマックイン 水の領分

 

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