%e7%a5%9e%e9%81%95%e3%81%88_07_cover01「天の岩戸が開いた」。マンションの隣り、または上階の人々が権力と偉大さの幻想と重なり合い、暗黒の陰謀が重層化する。ご近所から世間へ、そして巨悪の足元へと、無意義の波はひたひたと押し寄せ、現実を歪めてゆく…。詩人にしてストーリーテラー、気鋭の批評家でもある小原眞紀子が、現代の日常にひそむ古代的心理を抉る傑作純文学小説。

by 小原眞紀子

 

 

 

 

 「どうせ、そんなことだろうと思ってた」

 列車の中で、漬け物寿司とばってらを摘みながら来林の長は怒っている。「あの番台が、本当のことなんか書くわけない。やっぱり何か後ろ暗い関係があるのよ。でなきゃ、そもそも逃げるもんですか」

 まあまあ、とわたしはなだめた。

 「お水取りの日に奈良に着くなんて。長の行いがいいからよ」

 次男の住所は奈良だった。番台の子供たちは日本のあちこちに散らばって暮らしている。と、いうことになっている。

 東大寺二月堂は人でごったがえしていた。

 夜になると境内は冷える。松明とそれに続く練行衆が回廊に昇り、外縁の舞台で火を振り回す。本堂から火がほとばしり出て、夜空を焦がして燃え上がり、炎のはぜる音に人々がどよめく。取り囲んだ人々は少しずつ移動して、大火事になったような本堂を見ていた。

 お水取りじゃ、と誰かが叫ぶ。

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 練行衆は本堂下から香水を汲み上げ、石段を駆け上がる。堂内に水が撒かれると火はさらに激しく吹いて、走り回る練行衆の影が輝く。外陣も内陣も滝めいた火で覆われる。そんなとき、前に立っている親爺がたいてい屁を放つ。飛び散った燃えがらを持っていると一年息災。人々が腰をかがめて拾い集めるので、火の始末は終わる。

 「これで、奈良にも春がおとずれますう」

 仲居はずいぶん歳とっていた。

 「ねえ、もとおさ。ここは」

 木造三階建ての宿は畳敷きに絨毯が敷かれている。部屋の隅の行燈、半月型に切り取られた障子は明治時代の雰囲気だ。緞帳や衝立で飾られ、赤と桃の錦だの紫に金の縫い取りのある布団が重ねられたツインベッドに横になると、何やらオランダお菊ばりの女郎気分になる。

 お高いんじゃないの、と来林の長は囁く。

 大丈夫よ、とわたしは囁き返す。

 「そうでます、ここが奈良の最高老舗」と、耳ざとく聞きつけた仲居が胸を張る。

 「このお部屋、ひとつとってもわかりまんやろ。ちっと格がある、いうたかて、あんな貧乏くさいとこは、なあ」

 と、窓から遠く真正面に建つ奈良ホテルを睨みつける。

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 「女学校の古い講堂と同じぞえ。こちらには、お偉い方もお忍びで来られることが多いですけに」

 運ばれてきた料理の数々に、来林の長は息を呑む。雛の月の品々は菱餅をかたどった三色の寿司、金色の大きな葉いっぱいに載せられたとりどりの小さなゼリー寄せ、はまぐりの雲丹焼き、細くつくった鰈の黄身あえ、菜の花のかげん酢、きれいな楕円のからすみ葱、海老の飛龍頭、短冊人参と蕨。

 座敷に坐り込んだ仲居は、テレビのニュースを眺め、あれま、雅子さんのお元気そうに、と言う。

 電気のスイッチは張り出し窓の蔭にあるが、どこを押してもところどころ暗くなるだけで全部消すことはできない。

 「ここは鄙ねえ」

 薄明かりの寝台で、ふいに来林の長は納得したように言い放つ。

 「お忍びで、だって」

 京の宿では、ここにはどんな方が、と長の方から尋ねた。

 「さあ。ご家族づれや。赤ちゃんを連れて見える方も」

 仲居はあたかも存在しないようだった。廊下ですっころびそうになり、くすくす笑って周囲を見回し、また一瞬で存在を消す、というのを長も目にしたと言った。

 

 

 「もう帰りましょう」と、長は言い出した。

 東大寺脇の小道から入ったところにあるはずの、次男の住所もやはり出鱈目だった。

 「時間とお金の大変な無駄遣いよ。番台のことは、もう警察にでも」

 東大寺の博物館を見て行こうと、わたしは主張した。仕事柄、ここを素通りするわけにはいかない。

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 「古の呪術の痕跡を見たくないの」

 「見たいわよ。でも人のお金で物見遊山なんて」

 だって守の言いつけよ、とわたしは言った。「物見遊山ですって」

 「いいえ、でも」

 「長を磨く旅でもあるのよ」と、わたしは言う。「おたおたしないで。まさか守が、このくらいの出費を厭うとでも」

 絶大な信望と名誉を得た守だ。政治家は昔から山一つも二つも売り、身代を潰しているものなのだ。

 そうね、と長はしぶしぶ頷く。

 偉大さの影を追うためなら、どんな労も惜しまない。それは来林の長の、今の心情そのもののはずだった。

 

 

 柏手の音が天に抜けてゆく。

 伊勢の宮は清しく、身も心も洗われる。

 真っ青な空に気持ちが高ぶった来林の長は鳥居をくぐり、美鈴川にずんずん入り込んでいく。ジーンズが濡れ、セーターまでがびしょぬれだ。わたしは止めなかった、いや止められなかった。

 禊。

 長には必要なことに違いない。

 河原はしんと静まっていた。ときおり過ぎる者も一人として奇異なものを見る目で見ない。神道の熱心な信者なのだろう、一組の男女が祝詞を唱え、川の向う岸から三拝していた。

 頭から濡れ鼠の長を、わたしはタクシーに押し込み、二見の旅館に連れていった。

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 夫婦岩に臨む宿の部屋は質素なものだった。食事も冷たく、お世辞にも豪勢とは言えない。

 「ちょっと。ここは、いったい」

 長は不満げに言う。

 美鈴川の水をくぐった来林の長は、もはや違っていた。威厳と権威らしきものが備わりかけている。

 わたしはそっと唇に指を当てた。仲居がやってくる足音がする。

 仲居は黙々と食器を下げ、できれば早く食え、と言わんばかりの態度だ。

 食事が済むと、来林の長は憮然として部屋を出ていった。この仲居と同じ空間にいると身が汚れる、とでもいう様子だった。

 部屋に布団が延べられてから一時間もして長は戻ってきた。白いビニール袋を下げていた。

 「番頭に掴まって、売店に拉致された」

 買うまで放さない、ときっぱり宣言されたと言う。かと言って高価なものを売りつけようというのでもない。五百円玉を渡した瞬間、ものすごく嬉しそうに解放してくれた、と言う。

 「乾燥わかめでしょ」と、わたしは受け流した。伊勢参りの受け皿であった鳥羽の土地柄だ。

 「京都と奈良は、もとおさが知っていた宿でしょ」と、長は考えている。「ここは」

 「守の指示よ」

 物見遊山は嫌なんでしょ、とわたしは言った。「桃山式の天皇部屋がある」

 貧相だが旧い宿だ。別館に皇族用の個室と大広間がある。

 長は布団の上に坐り込み、それがどうしたという目で見た。

 「奈良で、ニュースを見たでしょ」

 部屋に居座った仲居が見ていたテレビに、秋田の旅館の火事のことが映っていた。

 座敷童で有名な宿が全焼した。旧い木造で火の回りが早かったが、奇跡的に一人の死傷者も出なかった。

 テレビで流れていたのは、一週間前に起こった火災の後日談だった。火事直前に客が撮った記念写真の隅っこに、座敷童が写っていたという。

 「再建まで仮住まいしてるのよ」

 何が、と口に出すことなく、長は黙って目を見開いた。

 「座敷童が。ここの天皇部屋に」

 

 闇の中、身動きする気配で目が覚めたが、わたしは布団の中でじっとしていた。

 長はそっと襖を開け、音もなく出ていった。

 風邪を引かなければいいが、とわたしは考える。

 浴衣姿に丹前、セーターも持って出たろうか。紀伊半島の三月とはいえ、夜はまだ冷える。

 再び微かな物音がしたときは、窓の外は白んでいた。わたしはそれに気づいたが、もはや何も思うことなく、また眠りの中に落ち込んでいった。

 

 海が目の前だというのに、鰯の丸干しに納豆、卵といった朝食だ。目を真っ赤にした来林の長は、無言で口に運ぶ。

 長の身体には清々しい光が満ち、溢れ出ている。箸で摘んだ海苔の一枚もやんごとなく、質素で神々しい御食の徴がきざしている。

 「見たの」

 わたしは囁いた。

 来林の長は頷いた。

 携帯のほの灯りを頼りに、忍び込んだ陽賓館の大広間で、長は何時間も坐り込んでいたと言う。

 セーターを持ってこず、寒さに堪えられなくなった長は皇族用の個室へ移った。

 それは、そこにいた。

 部屋には畳の上に椅子が置かれ、その脇に行燈、御簾が飾られていた。

 その行燈の陰に蹲っていた。

 ものの十分間、長はそれと見つめ合った。

 それから、それはつと立ち上がると、御簾の陰に入り込んだ。しばらく遊んでいたようだったが、窓がほんのり白んだ光とともに、すうっと駆け抜けるように部屋を出ていった。

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 わたしは長の顔を見つめた。

 中曽根元首相をはじめ、かつて若い頃の歴代首相、財界の超大物が将来を占い、見に出かけたという座敷童だ。そこまではっきり長いこと見た者なら国を治め、必ず天下を取るだろう。

 わたしのその言葉に、長は再び、ゆっくりと頷いた。

 「大長、」とわたしは呟いた。

 来林の長は、いまや大長と呼ばれるべきだ。

 わたしが三拝すると、大長の身体からはさらなる光が溢れ、後光のごとく尊顔を取り巻き、奥深く澄んだ香までも響いてくる。

 大長は、御自身で荷物を肩に掛けられた。

 背をまっすぐ伸ばし、両手を胸の前に組み、童の仮宿を後にされた。

 タクシーを呼び、駅に向かった。

 運転手はだが、勝手に土産物屋に横付けする。

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 真珠展示会場、と称したそこを言われるままに一巡りし、何も買わずに出ると、やっぱりミキモトさんじゃなきゃ、あかんのんと女主人が捨てぜりふを吐く。

 土産物屋の女将がそのように申すので、大長はミキモトに立ち寄られた。大きな真珠のイヤリングを自らの財布で買われ、その場で身に付けられる。

 輝くご尊顔に、御食つ国の豊饒を象るさらなる光が加わった。

 

 やまとは くにのまほろば

          たななづく

                   やまとしうるわし

 

 うろ覚えでもあり、場に相応しいかは定かでないが、大きな感動を示すべく、わたしは駅前で詠った。

 「これから、どこへ」

 賢島へ渡り、志摩観光ホテルへ、とわたしは奏上する。

 「守の指示か」

 いいえ、とお答えする。ただ、前から一度、行ってみたいと思っていた。

 

 「名前のわりには美味なもの」

 大長は、伊勢海老のアメリケーヌソースを愛でられた。鮑のステーキは、ごく上等の蒲鉾みたいだ。

 窓越しに賢島の海に沈む夕陽を見ながら、わたしは大長とともにフランス料理を堪能する。

 日が落ちる寸前、微かに残る光を夜の闇が覆う瞬間、大長は水平線をじっと見つめた。

 「そしてこれから、どこへ」

 ほとんど化粧されていない大長の頬、震える睫を眺め、わたしはその心中を察した。

 あの小蔵坂の狭いマンションの一室へ帰らなくてはならぬことを、来林の大長はいまや怖れていた。国を統べ、天下を見晴るかす存在と化した大長である。

 が、果たしてどこを治めるべきなのか。

 「九州へ」と、わたしは言った。

 「新たな天地を征伐にまいりましょう」

(第07回 了)

 

 

* 『神違え』は毎月23日に更新されます。

 

 

 

 

 

 

■ 小原眞紀子さんの本 ■

メアリアンとマックイン 水の領分

 

■ 予測できない天災に備えておきませうね ■