神違え_06_cover01「天の岩戸が開いた」。マンションの隣り、または上階の人々が権力と偉大さの幻想と重なり合い、暗黒の陰謀が重層化する。ご近所から世間へ、そして巨悪の足元へと、無意義の波はひたひたと押し寄せ、現実を歪めてゆく…。詩人にしてストーリーテラー、気鋭の批評家でもある小原眞紀子が、現代の日常にひそむ古代的心理を抉る傑作純文学小説。

by 小原眞紀子

 

 

 

 

 山城の年代記。

 そんなものを朗読されて、誰が聞きたいだろう。

 が、来林の長の頭には、すでにスポットライトを浴び、桜花の舞い散る中で巻き紙を拡げつつ朗々と読み上げる、おそらく自身の姿がくっきりと映像化されているようだった。

 人は集まるわよ、と来林の長は言う。

 「山城からだけでなく。近隣の民草、子らも」

 そのためにチラシを作り、わたしに呪術をかけろ、とも言った。

 だめよ、とわたしは応えた。「どんな文章を書いたって、人を集めて、喜ばせるなんてできない。怒らせることはできるけど」

 来林の長にとって大事なことは、民草に聞かせる年代記の最後のところに、自身の功績が記されていることだった。

 長は焦っていた。桜花の季節、能舞台が民に下ろされる第一番の舞台に間に合わせなくてはならない。

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 お堀端の博物館での仕事があるわたしは別れ、その後、来林の長ははまうきしまに赴き、御所議員に面会したらしかった。

 マンションの理事長に挨拶に来られて、御所はさぞ面食らったろう。

 いや、そうでもないかもしれなかった。権力の蜜の香に、それはさまざまな者がさまざまな理由でやってくるに違いない。たとえ市議であっても。

 偉大さに近づくことへの夢。

 が、来林の長の最大の敵は、捨て身でその夢を壊した。

 番台が逃げたのだ。

 

 

 六○七号室の鈴丸守宅の床に跪き、来林の長は泣いていた。

 「なんで、逃げたかなあ」

 守は宙を見つめ、溜め息を吐いた。

 来林の長にとってはしかし、逃げられたことは問題ではなかった。

 番台は、管理室の鍵、住民名簿、そして年代記を持っていなくなったのだ。

 「わたしの責任です」

 来林の長の、偉大さへの幻想は打ち砕かれたはずだった。何より、その象徴である年代記がなくなったとあれば。

 「まあ、でも番台がいなくなって、よかったじゃない」と、わたしは言った。「所与の目的は達したわけでしょ」

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 そうだ、と鈴丸守も頷いた。

 「すぐに代わりを募集してやろう」

 が、長の耳に、そんな慰めの言葉は届かないようだった。

 おかしいわ、と激しく泣きじゃくりながら長は言った。

 「わたしが御所に会ったら、すぐに逃げるなんて。やっぱり何かあるのよ、銀行や大都と。御所議員は否定してたけど」

 え、とわたしは思わず訊き返した。

 「はまうきしまで、御所を問いただしたわけ」

 もちろん、と長は頷いた。

 「わたしは山城の長なのよ。番台がしばしば訪ねて行く御所に挨拶して、なんで銀行と会わせてるのかって、訊くのは当然でしょ」

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 当然って、ね、と守は頭を振った。

 「おいらだって銀行は憎いさ。だけど、そんな正面切って」

 「追及します」と、長は顔を上げた。

 「御所を追及してやる。番台の居所も、年代記のありかも知ってるかもしれない」

 御所市議が、マンションの管理組合の議事録を、か。

 年代記は公には組合議事録に、書記の所見を書き記したものだった。

 「御所と銀行の関係、大都との関係。何もかも、」

 逆だろう、と守が遮った。「まずは番台の居所を探し当てることだ。番台に吐かせれば、何もかも明らかになる」

 

 

 「いいのかしら、こんな」

 来林の長はまだ、いくぶん躊躇いながら箸を取る。

 昨日の夕方、新幹線で京都に着き、名のある老舗旅館に入った。

 住み込みで常駐していた番台は、以前に妻を亡くしており、しかし子供は五人もいるらしかった。番台には身元保証として、守は子らの住まいまですべて記載させていた。

 来林の長とわたしに、その長男を訪ねてこい、と守は言った。資金はまずはこれだけ、と渡された。わたしはその出所を訊かなかった。

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 旅館の朝食は湯豆腐だった。それこそ小さな風呂桶じみた器の絹ごしに、繊細に削った鰹節をまとわりつかせ、口に入れると来林の長は声もなく、溜息をついた。

 ここには来たことがあるの、と長は呟くように尋ねる。

 ええ、昔、わたしは答えた。

 小雨の降る京都の三月はまだ、肌寒い。

 町へ出ようと、玄関先で持ってきた折畳み傘を開きかけたとき、旅館からスーツ姿の男性が大きな番傘を差し出す。

 こじんまりとした商店街といった趣きの錦小路に、海苔屋、蒲鉾屋、漬け物屋、菓子屋、と黄色い電灯に照らされた店先が並ぶ。

 「手みやげ、なんか要らないよね」

 番台の息子に聞き込みに行くのにねえ、といいながら、漬け物寿司、というのを来林の長はめずらしそうに眺める。「京都なんて高校の修学旅行以来、」

 母が身体を悪くしてから、めったに温泉にも出かけられなかった、と長は言う。「置いて行くのが気の毒でね。でも今回は」

 山城の長としての、いわば公務だ。

 人通りの少ない狭い路地を何度も曲がり、通りの大きなデパートや老舗の土産物屋を覗きながら行く。やがて四条河原の橋にさしかかかる。

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 わたしは長の腕をつついた。

 「四条河原アベック等間隔の法則」

 河原にいるカップルは、それぞれ同じだけの距離を置いて点在する。図書館に、それについての論文もあった。茶髪とキャバクラ風ファッションでも、その法則には従う。

 旧い町で付き合うのって楽じゃなさそう、と長は同情する。

 橋を渡って、メモを見ながら三つ目の角を曲がり、坂を上がる。

 そこは、知られたばってら屋の玄関口だった。

 「まさか、ここ」

 そんなはずはない。長男の住所は、やはり嘘だった。

(第06回 了)

 

 

* 『神違え』は毎月23日に更新されます。

 

 

 

 

 

 

■ 小原眞紀子さんの本 ■

メアリアンとマックイン 水の領分

 

■ 予測できない天災に備えておきませうね ■