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『アラビアのロレンス』スチール(1962 イギリス映画)

監督 デヴィッド・リーン

主演 ピーター・オトゥール

 

 

 砂漠は死の世界である。文明の及ばぬ空白、都市と都市とのあいだにぽっかり空いた深淵、人間の限りない欲望のゆきつく果て。だからこそ砂漠は希望の生まれる場所でもある。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教がいずれも砂漠で生まれた信仰であることを忘れてはならない。だが希望はまた、しばしば蜃気楼という正体を現して、咽喉をかきむしる旅人を見捨ててゆく。

 

 この砂の世界は、実に多くの映画に舞台を提供してきた。フォン・シュトロハイム監督の「グリード」(米、1924)ではカリフォルニア州のデス・ヴァレー、文字どおりの「死の谷」で、かつては友情で結ばれていた二人の男が金を奪い合って命を落とす。一方、ラシッド・ブシャール監督の「贖罪の街」(仏、2014)では、宗教に救いを求めた孤独な男が、ついに砂漠で神に見切りをつけるのである。このようにその黎明期から近年に至るまで、映画において砂漠が幸福の表象であったことは稀である。史上もっとも読まれた小説のひとつであるサン=テグジュペリの『星の王子さま』(1943)がサハラ砂漠をいわば「再生」のための場として描いていることを思えば、これはすこし不可解だと言ってよいかもしれない。オーソン・ウェルズはこの小説の映画化を目論んでいたというが、実現していたらどのような色調の作品になっただろうか。

 

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『グリード』終幕の一場面

 

 とはいえ砂漠の圧倒的な姿、つまり形を持たない砂が無限に続くその恐ろしいまでの虚無を見せつけられると、とくに映画という視覚的な表現において、砂漠が怒りや憎しみ、孤独や恐怖と結びついてしまうことには納得せざるを得ない。逆に言えば、そのような感情を描きたければ、砂漠を出せばよいのである。黒澤明の「隠し砦の三悪人」(1958、日)に霊感を得たジョージルーカスは、星間移動を繰り返すという壮大なスケールの「スター・ウォーズ」を構想しておきながら、宇宙と同じくらいの頻度で砂漠を登場させる。ジョージ・ミラーの「マッドマックス」シリーズは近未来のオーストラリアを舞台にしているが、荒廃した文明が後世に残したものはただ砂漠のみであり、登場人物がすることと言えばその砂漠を疾走すること以外にはない。要するに主人公にあてどもない旅を強いる物語では、とかく画面に砂嵐が登場しがちというわけだ。

 

 言ってしまえば砂漠は便利な書割なのである。サスペンス・ドラマで犯人を追い詰めるときはひとまず崖を写せばよいし、アクションもので黒幕と肉弾戦を繰り広げるなら廃工場が適当である。同様に、砂漠もまた、物語を盛り立てつつ、何とはなしにテーマに深みを与えてくれるうえ、「砂漠を越えてきた」と匂わせるだけで大移動を示唆できるから、砂漠はもはや狂言や落語の約束事にも負けない強引さを具えた舞台装置と言えるだろう。

 

 だが映画の世界には、その砂漠を愛し、あえて脱出を試みない住人もいる。例えばトマス・エドワード・ロレンスである。デヴィッド・リーン監督の名作「アラビアのロレンス」(英、1962)の主人公は、砂漠の民の王であるファイサルを大英帝国の味方につけるための工作員として、文明から最も遠い砂の世界へと送り込まれる。ロレンスは期待以上の働きをし、アラブ人と共にオスマン帝国からアカバやダマスカスを次々と解放する。だが「アラブをアラブ人の手に返す」という大義名分が、所詮は西欧列強の権益を守るための建前に過ぎないことは明らかである。結局ロレンスはアラブにもヨーロッパにも裏切られ、失意のうちに砂漠を去る。

 

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『アラビアのロレンス』ポスター

 

 おそらくロレンスにとって広大無辺の砂漠は、地球上で自我を捨てることのできる唯一の場所であった。だが砂漠でさえ、人間はひとりにはなれない。なぜ砂漠を愛するのか、という問いに「きれいだから(It’s clean)」と答えたロレンスではあるが、美しく空っぽで清浄な砂漠は、つまるところ蜃気楼のように淡い夢に過ぎないのである。三時間を優に超えるこの大作でひたすら画面を覆い尽くす砂の流れは観客を容赦なく吞み込み、あたかも実際に砂漠にいるような錯覚を起こさせるが、最後に残るのはロレンスの心の渇きという内的な砂漠のみなのである。

 

 余談ではあるが、このような内的な砂漠を初めて文学で描いたとも言える安部公房の『砂の女』が、この映画と同じ年に発表されていることは興味深い。安部自身、小説の着想を与えたのは飛砂の被害にあえぐ山形県の集落を撮影したグラビアであると語っており、それが圧倒的な質量の砂という視覚的な情報から出発したものであることがわかる。

 

 だが砂漠はなにも雨の降らない土地や海沿いにのみ現れるのではない。緑と水の豊かな津々浦々を旅しながら、いつも心に砂漠を抱えているような人間もいるのである。例えば寅さんこと車寅次郎。彼はラクダ色の上着を羽織っている。ラクダ色の腹巻をしている。そしてラクダ色のズボンを穿いている。彼はラクダに乗って旅をする人というよりも、むしろラクダのほうに近い。蹄のかわりに雪駄を鳴らして歩く。手綱を引く主人を持たないので、どこへ行けばいいのかわからない。だからしばしば癇癪を起こす。

 

 「男はつらいよ」は主演の渥美清の死去によって四十八作でお開きとなったが、本質的には終わりようのない映画である。寅次郎には幸福にならないことが幸福なのであり、さくらにはそんな兄を想って涙を流すのが幸福なのである。主人公は毎回のマドンナたちと結ばれないまま年齢を重ねてゆくが、ある段階で現実の時間の流れから逸脱する。古希も近い男に家族が「そろそろ嫁をもらえ」などと言うのは、もはや荒唐無稽であろう。その意味で「男はつらいよ」の物語の時間は漫画的であり、それは国民的コメディ映画にふさわしい特徴ではあるが、一方でこのシリーズがおよそ日本映画で最高の構築美を誇るシリーズであることが充分に評価されているとは言い難い。

 

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『男はつらいよ寅次郎恋歌』ポスター

 

 例えば第八作の「寅次郎恋歌」(日、1971)。ようやく松竹映画の看板シリーズとして認められ、初めて一本封切りが叶ったこの回は、さっそく百五十万人を動員しているが、その内容はシリーズのなかでは重い部類である。まず、義弟・博の母が死ぬ。寅次郎は残された夫の話を聞くうちに、幸福な家庭を築くことの意味を悟る。そんな折、近所に美しい未亡人、貴子の切り盛りする喫茶店がオープンし……。と、その後の展開はご存知の通りである。寅次郎は失恋し、家族を困らせ、旅に出る。だが二時間足らずのあいだに「死」、「家庭」、「宿命」の概念が巧みに提出され、しかもそれが「りんどうの花」というライトモチーフを通して幾何学的に組み合わさっているのだから驚く。この後期のベルイマンを思わせるような周到さは、山田洋次監督だけではなく、シェイクスピアを敬愛するという共同脚本執筆者、朝間義隆の技量によるところも大きいだろう。

 

 さらにこのシリーズの恐ろしいところは、その異様なまでのパラテクストの豊かさであろう。パラテクストとは周辺的なテクストを意味するから、映画であれば配役やロケ地などが挙げられる。この映画では、毎回の物語にゲストとして登場する俳優の来歴が人物設定や筋書きに、場合によってはタイトルにさえ影響を与えているし、毎回のロケ地は北海道から沖縄、ときには海外にまでおよぶ。つまりシリーズを通して俳優と土地の名鑑が形成されてゆくのであり、シリーズが長大化すればするほど、名鑑も充実することになる。俳優は死に、ロケ地はしばしば開発され、元の姿を失う。しかし現実世界から消え去るその面影は「男はつらいよ」というもう一つの、いますこし昭和らしさを留めた世界に、永遠に保存されるのである。このような芸当もまた、「終わらない映画」だからこそ可能になる。

 

 要するに「男はつらいよ」は、ラクダ色の男が渇いた心を抱えて彷徨うだけの映画ではなく、映画自体が、あたかも現実を呑み込む巨大な砂漠なのである。砂漠とはいっても、それはオアシスのように潤っている。

大野ロベルト

 

 

 

 

 

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