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パティシエを目指していた彩子は、ある罪を犯した怖れから逃げ隠れして暮らしている。行き着いた先は、人気が陰りをみせた歌手・カオルの付き人の仕事。だが不運はつきまとい、ついに運命の大事件へと…。詩人・小原眞紀子の原案が甘やかな哀愁とともに語られる、待望の金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第3弾!

原作・小原眞紀子 作・露津まりい

 

 

 

 

 

1 棚の奥に忘れられた古い粉(前編)

 

 

 白と紅、紫に花柄の雲が一瞬、宙に広がった。

 「大丈夫ですか、お怪我は」

 紙袋を抱え、クリーニング屋に入ろうとしたところを、角を曲がってきた男と正面衝突したのだった。

 「もしかして、彩子さん」

 と、男は路上の洗濯物を集めている彩子の顔を覗き込んだ。

 「白水です。覚えてませんか」

 四〇歳ぐらいか、角刈りの額の下で小さな目を見開いている。

 「無理もないな、スタジオでちょっと会っただけだし。根木はどうしてます、最近見ないけど」

 「さあ、とうに別れましたから」

 彩子は慌て、拾い上げたシャツの埃を払うふりをした。

 「そうでしたか」

 男は拾い上げたナプキンを渡し、その端に刺繍された朱色の縫い取りを見た。

 「どなたか、入院でも」

 目の前のクリーニング屋は聖清会病院の裏手にあたり、入院患者御用達だ。が、それだけで察するとは、男の住まいはこの近所か。

 「ええ、ちょっと知人が」

 白水という男は軽く頷いた。

 「お会いしたのは料理雑誌の撮影現場でしたよ。あなたが焼いたお菓子を、根木がスタッフに差し入れたんです。それが、そこにあった撮影用のものよりよほど見事でね」

 そういえば、カメラマンの真似事をしていた根木に、そんなところに連れて行かれた記憶があった。

 白水というその男は、プロのカメラマンだと言う。小柄だが、がっちりした体つきは、確かに機材を運ぶのに適していた。

 「今だから言いますが、根木という奴は最低だったな。見た目はいいし、坊ちゃん育ちらしいけど、現場じゃクズでね」

 男は小さな目を細め、人がよさげに笑った。

 「別れたなら、よかった。余計なことですが」

 「すみません、急ぎますので」

 なかば逃げ込むように、彩子はクリーニング店に入った。

 

 ワタナベミツコ様、カワダムツ様。

 病院の待合室は昼の受付時間の終了間際で、年寄りや妊婦で混み合っていた。と、三輪田が奥の売店からちょうど出てきた。彩子の顔を見るなり、反対側の白塗りの扉を指差した。

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 彼に従って出ると、そこは薄暗い踊り場で、医療器具や薬の名が書かれた段ボール箱が放置されている。

 「遅かったじゃないか。洗濯物を出してきただけだろ」

 遅いというのは三輪田の口癖だ。俳優上がりの、いわゆる苦み走った表情を浮かべ、猛烈な早さでスケジュールをチェックする。五〇を過ぎたマネージャーはプレスしたての柄物シャツを着て、そうやって人をなじりながら、どこか途方に暮れた顔つきだった。

 「ブレスレットのこと、聞いたか」三輪田は煙草に火を点けた。

 「なくなったそうだ。金のカルティエ。病院で意識を取り戻したら、腕から消えてただと」

 「最初から、意識はあったんじゃないですか」

 漆喰壁に凭れ、三輪田は頭を振った。「さあね。ま、彼女は物欲はないほうだからさ。心配しなくてもいいよ」

 その物言いは微妙に引っかかった。

 が、そんなことより、彩子には大事な話があった。

 「え。辞めたいって、いつ」

 案の定、三輪田は目を剥いた。が、カオルの入院騒動は一段落し、自殺未遂騒ぎがマスコミに漏れる怖れも、もはやないはずだ。

 「今、辞められたらかなわない。冗談だろ」

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 吐き捨てるようにマネージャーは言った。「カオルのやつ、今度はここを出るって言い出したんだ。もう宮野先生の世話にはならない、とさ。腕輪とどういう関係があるのか知らないが」

 「世話にならないって、どうするんです」

 三輪田は肩をすくめ、吸い殻を床に投げ捨てて踏みにじった。

 この病院の宮野医師は、事務所社長の遠縁にあたる。コンサートの初日など、緊張で不安定になるカオルには、その場で加減しながら処方する薬が不可欠だった。宮野医師はもう数年来、自ら指示を出し、若い勤務医を楽屋に寄こしてくれていた。

 「それで、宮野先生は」

 「医療的なケアを切り捨てたら自立に繋がる可能性もあるだと。そんなら今までのケアってのは、何だったんだよな」

 「じゃ、転院するんですか」

 阿呆らしい、と三輪田はぼやいた。「その前にとっとと退院だ」

 「あのう」と、言いかけた彩子を遮り、「だから頼む、退院まで」と三輪田は掌を合わせた。「あさって、仙台だろ」

 三輪田はスケジュール帳を出した。地方ラジオ局のDJ録音で仙台に行く予定が迫っている。

 「テープ編集の手配だけは、やっといてくれよ」

 テープ編集とは、単なる聞こえのいい呼び名だった。古いDJの録音から適当な部分をカット・アンド・ペーストし、新しく録音したかのように一五分の番組を作ってしまう。カオルが穴を空けそうになるたびに使う手で、スケジュールの都合で東京で録音したと言っては、仙台の局に捏造テープを送っていた。プロデューサーに知れたらたいへんなことになる。

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 「それと、また何か衣装を持ってきてほしいそうだ」三輪田は眉を顰め、拳の中指を立てた。「次から次へとファッションショーだな。病室の雰囲気は気が変になるとか言いやがって。するってえと、外では正気だとでも言うのかね」

 

 彩子は病室のドアをノックした。

 くぐもった声が応え、押し開けると、宮野医師の姿があった。白衣の太い腹を突き出し、ご苦労さん、というように手を上げる。

 「見てくれよ。この顔色のいいこと」

 医師の陽気な声は、ややわざとらしかった。カオルが臍を曲げていると聞き、忙しい合間に機嫌を伺いに来たのだろう。

 「ええ、どうせ血の気が多いですからね。ときどき出血しないと血圧が上がっちまう」

 掠れ気味だが、あの独特の低く湿ったカオルの声がする。

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 入り口とベッドの間は、白い布に襞をよせた衝立でとりあえず目隠しされていた。絨毯敷きの個室に、畳敷きの次の間が付いている。茶托と灰皿、座布団の並んだ座卓が置かれ、スタッフが打ち合わせをしたような形跡があるが、今は誰もいなかった。

 誰が持ってきたのか、襖の影に薔薇と百合の大きな花束が置きっぱなしになっていた。花瓶も買ってこなくては、と彩子は考えた。

 「転院したいなら構わんよ」

 医師はベッドサイドの丸い椅子をまたぐように、どしんと腰かけた。「ただし、もう手首は切らないと約束したらね。とにかく脅しっこはなしだ」

 衝立の金属パイプの隙間から、上半身を起こして呑気そうに医師の顔を見上げているカオルの姿が覗いた。

 「ゴールデンディスク賞の額が落ちてきただけよ。たまたま手に当たったの。地震があったのかな」

 「そうかい。三輪田氏は、そうは言ってなかったぞ」

 なあ、と医師は彩子を振り返ったが、カオルは見向きもせず、くすくす笑った。「冗談だってば。気が利かないったら、救急車なんか呼んじゃって」

 ようするに役者の役作りみたいなもんよ、と肩をすくめる。

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 「熱心なこった」と、宮野医師は白髪混じりの頭を振った。「おかげで皆、睡眠不足でふらついてるじゃないか」

 「あたしは何事も思い切りがよすぎんの。それよりさ、この病室の名札、なんとかならない」

 「なんとかって、途中で変えたりできないよ」

 「だって春野歌子なんて、あんまりじゃない。せんせ、あたしに恨みでもあんの。看護婦に呼ばれて吼えちゃったあ」

 形ばかりの白い包帯を巻いた左手首を振り、カオルは上機嫌だ。

 入院中、体重が減ればいいのだが、と彩子は思った。

 肩に髪を垂らし、南国の甚平じみた花柄ネグリジェでベッドにひっくり返っていると、まるで喜劇のデブだ。

 「あのう。服は何を持ってくればいいですか」

 話が途切れたのを見計らい、彩子は尋ねた。

 そう言う彩子が着ているぶかぶかのジャケットも、カオルのものだった。マンション住民に在宅していると思わせるため、カオルの格好をして毎朝、専用庭をうろつくように言われていた。その踵の高い靴のまま病院に来たせいもあって、さっきは転んでしまったのだ。

 「じゃ、行くかな」と、宮野医師は腰を上げた。「この調子なら、あっと言う間に退院だ」

 「せんせ、それ三輪田に言わないでよ。スケジュール帳持ってさ、手ぐすね引いて待ちかまえてんだから。何のために入院したんだか」

 けらけら笑うカオルに、「外科病棟は空き待ちがいっぱいなんだ。骨休めしたいなら神経科にどうぞ」と、医師は言った。

 「それからね、個室だからって歌ったり、吠えたりしちゃだめだよ。だいたい声量が違うんだから」

 お大事にと手を振り、忙しげに病室を出る際、衝立の影で彩子に目配せした。

 宮野医師が開け放したドアを閉めようとしたとき、彩子の目は廊下の壁の鏡に釘付けになった。鏡の中のカオルが、衝立越しに身体を伸ばし、怖ろしい眼つきでまっすぐ睨みつけていた。

 彩子は慌てて外に出ると、後ろ手にドアを閉めた。宮野医師の後ろ姿は廊下を急ぎ足で去り、奥の病室に消えていった。

 

(第01回 了)

 

 

* 『お菓子な殺意』は毎月02日に更新されます。

 

 

 

 

 

■ 小原眞紀子さんの本 ■

メアリアンとマックイン 水の領分

 

■ 予測できない天災に備えておきませうね ■