真夜中の百貨店

BSジャパン

火曜 23:00

No.126_TVドラマ批評_01

 

 

 ストーリーをともなった通信販売ということである。ちょっと観ると、テレビ東京の番組かと思うが、微妙に違う。それは本当に微妙な差異なので、なかなか説明が難しい。善し悪しということではなく制作者のスタンスの違いなのだが、一方で何事においても人のスタンスというのはある部分を決定的に変化させるものではある。そしてある部分とは、それを定義づけるものだ。

 

 すなわちこれが「通信販売」と銘打っていることが、すべてではある。つまりこれは全体として、テレビコマーシャルなのである。私たちにとって、それがだから全部を説明してしまう、話が終わっているということには必ずしもならない。テレビ番組と広告は明らかに違うものではあるが、その線引きは曖昧なところもある。

 

 テレビ番組は独立したエンタテインメントである。視聴者の感性に訴え、面白がらせることを目指す。話題になって視聴率が高まれば、その増えた視聴者の目にコマーシャルが映ることになり、広告効果が上がる。ここではスポンサーのメリットは、人気番組を通して間接的に得られるに過ぎない。番組を知らない者がいないくらいでも、そのスポンサーを答えられる視聴者はめったにいない。

 

 どの番組で流れるコマーシャルかは記憶になくても、そのコマーシャル自体が記憶に残れば、スポンサーとしては目的は達する。番組で若い男女の恋愛ドラマが繰り広げられても、コマーシャルで流れた商品については、視聴者がそれぞれの実生活に立ち戻って購買意欲をそそられることになる。

 

 テレビ東京の一連の情報ドラマは、ドラマのストーリーでなく、そこに組み込まれた商品情報をテーマとしているところが目新しかった。それはしかしドラマと情報番組との境界を曖昧にしたもので、テレビ番組とコマーシャルとの境界を曖昧にしたものではなかった。テレビで紹介される商品情報は、どれほど当てになるかは置いておくとしても、基本的には宣伝とは違うスタンスで流されている。

 

 だからこそ、その商品がスーパーの棚からなくなったり、店ならば行列が出来たりもする。そしてそれはたいてい一過性のものなので、ビジネスとして思うほどメリットがない、むしろ生産過剰や常連客離れなどのデメリットをもたらす可能性すらある。すると取材お断りの店などのプレミアがまた演出される。

 

 『真夜中の百貨店』はスポンサーというよりもこの番組の企画主体そのものである「三越伊勢丹」自体を指す。フィクショナルな設定で、特定の商品に物語を付加することでその商品をブランド化する。それは見え透いてはいるが、最後に「お約束」のテレビショッピング的映像が流れると、ふと考える。

 

 私たちの生の時間は、今も昔も生活するのに精一杯の凡庸な意識に大半を占められ、すなわち商品を選び、それを手に入れる努力だけで終わっていく。商品情報が人のドラマを食いあらすとはそういう現代を示唆していた。そしてコマーシャルとは、多かれ少なかれ商品に人の物語を消化吸収させるものなのであり、ブランド化とはその物語を共同幻想化するものだ。私たちの物語はいつ、どこで復権するだろうか。

山際恭子

 

 

 

 

■ 脚本・演出の及川博則さんの作品 ■

ファースト・クラス [DVD] ファースト・クラス 2nd season (フジテレビBOOKS)

 

■ 予測できない天災に備えておきませうね ■