神違え_03_cover01「天の岩戸が開いた」。マンションの隣り、または上階の人々が権力と偉大さの幻想と重なり合い、暗黒の陰謀が重層化する。ご近所から世間へ、そして巨悪の足元へと、無意義の波はひたひたと押し寄せ、現実を歪めてゆく…。詩人にしてストーリーテラー、気鋭の批評家でもある小原眞紀子が、現代の日常にひそむ古代的心理を抉る傑作純文学小説。

by 小原眞紀子

 

 

 

 

 「いや、久しぶりだねえ」

 鈴丸守は丸い頭を揺らし、嬉しそうにビールを啜った。

 「すみません。冷えたのを買ってくればよかった」

 すぐ開けるとは思わず、以前のように六缶入りケースを御神酒として、六○七号室を訪ねたのだった。

 「いや。ちょうど切らしててね。この温いのがまた、いいんだ。ちょいと金属臭がして、夏休みの浜辺を思い出す」

 「守。わたくしも、ご無沙汰しておりました」

 鈴丸は、来林の長と平埜をちらりと見た。

 「ああ、今の長さん。そう、あんたが長として出たとき以来だなあ」

 来林の長はかしこまり、3DKの床に這い蹲りそうだった。

 そもそも長として、来林を認証したのは鈴丸守だ。

 ヨリが下りた後、長を務めたのは鈴丸だった。そのときの風呂桶に、鈴丸がいたことなど、誰も知らなかった。ヨリを長とした、その期の理事は大都の画策によって、山城のことにも風呂桶のことにも何も関心を示さない、仕事に忙しい者ばかり選ばれていた。そう、そのはずだった。しかしそれは一方で、その気になれば仕事が出来る、有能な者たちばかりだということでもあった。

 鈴丸が長を務めたのは、当時の慣例で一年だったが、その間に多くのことを成した。象をはじめとする管理会社の支配抜きで、自らと風呂桶のメンバーが中心となって業者に部分委託する体勢を組んだ。そのために長と風呂桶の任期を三年とし、長から新しい長への申し送りを確実なものとした。他所では修繕委員会と呼ばれる大規模工事を経年で監視する諮問機関を「年代記委員会」とし、山城の歴史としてすべての記録を残すよう定めた。

 最初に年代記として記した老人は施設で亡くなったが、それより以前に鈴丸によって委員会から排除された。自薦で応募し、長く書記を務めていたのが来林であった。

 年代記で、来林書記は鈴丸を「守」と呼んだ。

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 鈴丸守は山城中興の祖として、物置脇に石膏の像が建っている。山城に住む小学五年生以上の子らで造ったもので、銅像にする費用を管理費から出すことは守が辞退した。

 守の為すことは正しく、その定めは白い法と呼ばれた。各代の風呂桶から籤で出される長については慣習として、三年の任期を定めた守の認証を経ることになっている。そしてその籤も、気が向いた年については守が作る。

 来林の長は、守が作った長だった。

 そこには生真面目な来林を以前から知っていた、わたしからの推薦もあったが、わたしは表向きは極力、守との関わりはないように装った。彼の信望を傷つけないためだ。鈴丸が最初、黒い呪術のもとおさの女を庇って出てきたことを覚えている者は、もう数少なかった。

 「あの番台がそんな真似を。ちょいと信じられんね」

 鈴丸守は首を振り、ビールを飲み干した。土曜の昼間から、守はビールを飲んでいる。めったにないが、外廊下でたまたますれ違うときのほか、素面の守を見たことはない。

 「ええ。わたしへの態度も、変わってませんけどね」

 わたしは言った。あの鉄塔部品の十字架からわたしを下ろし、ヨリを長の座から引きずり下ろした後、守はすぐさま象の男たちを追い出した。番台も明け渡させ、新聞公募で経験者を募集した。住み込みは集めにくい、と管理会社が言っていたにも関わらず、十二人の応募があり、そこから守が三人に絞り込んだ。

 「この中から、あんたが決めるがいい」と、守はわたしに言った。

 象のマークを付けた番台に陰でこそこそされて、苦労したのはあんただから、そんなことをしそうにない男を選んでくれ、と言う。

 わたしは守に心から感謝し、そうさせてもらった。

 「どうして助けてくれたんです」

 わたしはあのとき、殺されていてもおかしくなかった、と後になるにつれ、はっきり思い知った。

 どんなときでも権力の中枢には情報が集まる。状況が変わったとたん、守とわたしには、さまざまな告げ口がなされた。

 わたしは屋上から突き落とされ、たとえ衆人環視のもとでそうされたとしても、自らの罪を悔いて自死したことになったろう。

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 が、ヨリがそう指図したわけではない。カフェ経営でホステス上がりの上野や元副長の中道、書記の老人、その他の住民の集団的な、漠然とした意志で、誰のせいでもないように口裏が合わせられたに違いなかった。

 「そりゃあ、俺が酔っぱらいだからよ」と、守は答えた。

 酔っぱらいたあ、世の中が逆さまに見える。皆が黒といや、白く見えるのさと神託を宣い、「いや。実は、あの小僧とは飲み屋で顔見知りでね」と囁いた。

 わたしが磔に処せられていたとき、守が連れてきた若い男は、城山の底地を所有する地主の息子だった。地主が最近、亡くなり、思いのほかの相続税できゅっきゅ言っていた。

 「ここの底地みたいな半端な不動産は処分したい、それでも出来るだけ高く売りたい、ってな話でよ。そうかって、おめー、大都に売るなよな、ってんで、酒、飲ませたんだよ」

 鈴丸守は温いビールの二缶目を開けた。

 「五回ぐらい、奢ったかな。そしたら吐いてよ。ヨリからもらった二十万ぐらいで嬉しそうだったぜ。働きもせず、昼間っから酒飲んでるドラ息子だからな」

 大都とメゾンの管理組合と、両天秤にかければ底地の価格も吊り上がる、との入れ知恵もあったろう。

 「銀行って、そんなことばっかしてんだな。人、騙してよう」

 二缶目を飲み干し、三缶目のプルリングを引っ張り、守はテーブルに突っ伏した。

 「大都と一心同体じゃねえか。なんのかんの御託並べて、俺んとこには金貸さなかったくせして、それどころか借りてる分まで、前倒しで返せとか言いやがって」

 三代続いた守の会社は潰れ、駅前一等地にあった土地、新興住宅街にあった作業所と営業所は三つのうち二つを銀行に取られたという。

 「あいつら、それが欲しかったんだ。土地が安いうち、俺からむしり取るために」

 残った営業所を処分した金でマンションを買い、それを賃貸して夫婦二人、年金まで食いつなぐ暮しらしかった。そんな中でドラ息子に五回も奢り、三万ばかり使ったが、問題ではないと言う。

 「ざまみやがれ。あいつらが二十万も出したもん、三万でひっくり返してやった。俺ゃあ、あいつらへの嫌がらせなら、何でもやる」

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 でも、それで番台は、と来林の長が呟いた。

 「番台。ああ、そうか」と、守は頭をもたげた。

 「辞めさせたきゃ、辞めさせるがいい。あんたが長なんだ」

 そうですか、と来林の長と平埜は目を輝かせた。

 ただし、と守は言った。「大義名分が必要よ。いったん雇った人間を簡単に辞めさせるってのは、社会正義に反する」

 社会正義、と来林の長は考えた。

 おうよ、と白い法の守は言った。「さもなきゃ、有象無象の連中が納得しない。あんたの失敗を虎視眈々と待ってる奴らがいるって、教えたろうが」

 長の認証に際して、守は訓辞を垂れる。

 籤引きの籤を自ら拵えてやり、長とした来林に、守はあれこれ言って聞かせたはずだった。

 「足を掬われるなよ。まだ、大都の残党が残ってるかもしれないぜ」

 「今、番台がやってることは。社会正義に反するでしょ」と平埜が言う。

 「何が、だ」

 「防犯カメラを見て、人を脅したりすることよ」

 「それ、あんた証言するかい。ほかの誰かでも」

 平埜は黙り込んだ。

 「うちに来る業者や介護ヘルパーをブロックすることは。生活を侵害されてる」と来林の長が叫んだ。

 「敷地内に立ち入るよそ者をチェックするのは、仕事のうちだと言われたら、どうする」

 「じゃ、わたしの自転車を、雨の中、外に放り出そうとしたのは」

 「自転車に名前が書いてなくて、誰のもんかわかんなかったんじゃねえのか」

 「車椅子に乗った母を道路に押し出そうとしたのよ」

 「名前を訊いても、答えなかったんじゃねえのか」

 「答えられないのよっ」

 「住民の顔を覚えてないのは、能力がないことにならないの」と、わたしは来林の母が気の毒で、助け舟を出した。

 「めったに外へ出ねえ人だとなあ」と、守は首を振った。「こそこそ隠れて暮らしたいって人もいるだろうし、そりゃ勝手だからね」

 じゃ、どうしたらいいの、と平埜は泣き叫んだ。「あいつを、神って呼べって言うの」

 うーん、と守は考えた。「おいらが訊いたら、神ってのが子供のときからのあだ名だ、とか言いそうだな」

 筋が通らないわ、と来林の長は俯いた。

 筋。筋など、通るものか。

 わたしがいったい、何をしたのだ。有象無象の名もない連中、名もないからこそ残酷な輩に、わたしは殺されかけたのだ。

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 「まあな。思い通りにしたいのはわかる。でなきゃ長やってる意味、ないもんな」と、守は頷いた。

 「だけどよ。この山城ん中に援軍を探すのはやめな。無駄だよ。そこの小母さんだってよ、今は尻馬に乗ってきゃんきゃん言ってるがよ」

 平埜はむっとして睨んだが、守は無視した。

 「長のために証言もしやしないだろ。なあ、みんな我が身を守る。いざってときに、くるっと変わり身よ。尻馬に乗るのも、勝ち馬に乗るまでさね。信じてれば信じてるほど、ダメージは大きいってこった」

 な、そうだろ、と守は平埜に言い放った。

 平埜は返事もせず、横を向いている。

 「ほれ。これでこの小母さんは、この件から手を引くぜ。あんたのために来たのに、嫌な思いさせられて割が合わねえ、とかって思ってる。今、あんたが俺に食ってかからないんで、えらく怒ってるんだ。明日からは、友達付き合いは解消よ」

 「そう言われると、そうもできないよね」と、わたしがフォローを入れたのは小母さんらのためでなく、むしろ守のためではあった。

 「それで、わたしは、」と言いかけて、来林の長は言い直した。「我々は、どのようにしたらよろしいでしょう」

 外だな、と鈴丸守は言った。

 「山城の外部での、番台の不品行を探すこった。その調子だと、番台は結構、この山城に味方を作ってる。番台にこのまま居座ってほしい、と思ってる連中は、この山城の内部で起きている出来事のいちいちに対して、あんたと正反対の評価を下すだろう。そいつらの力が強まれば、あんたが下ろされるだけだ」

 来林の長を作った鈴丸守にとっても、またわたしにとっても、それは名折れだった。

 「外部での、不品行だったら」と、もともと、あまり血の巡りのよくない来林の長は必死で考えていた。

 「外部の人間で、証言するやつが出てくる」と、守は噛んで含めるように教えた。「ここで暮らしてるわけじゃないから、番台に弱味を握られてない。内部の味方が解釈を変えることもできないから、言い訳できない。社会的に悪さをした人間を解雇する。これ、普通のことだ」

 がいぶ、がいぶ、と平埜が呟いた。

 「外部業者をブロックしてるのよね。ここに出入りする業者に当たりましょうよ」

(第03回 了)

 

 

* 『神違え』は毎月23日に更新されます。

 

 

 

 

 

 

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