神違え_02_cover01「天の岩戸が開いた」。マンションの隣り、または上階の人々が権力と偉大さの幻想と重なり合い、暗黒の陰謀が重層化する。ご近所から世間へ、そして巨悪の足元へと、無意義の波はひたひたと押し寄せ、現実を歪めてゆく…。詩人にしてストーリーテラー、気鋭の批評家でもある小原眞紀子が、現代の日常にひそむ古代的心理を抉る傑作純文学小説。

by 小原眞紀子

 

 

 

 

 風呂の栓を抜き、巨象の印を付けた男たちが出て行くと決まった後も、この山城はすんなり明け渡されたわけではなかった。

 大都の関係者は残党として密かに動き、風呂桶の転覆を狙った。

 当時の任期、一年を終えると、わたしたちは風呂桶から出て、次の長に代わった。

 事が起きたのは、そんなときだった。番台に掃除させ、外の業者に電話をかけていれば年間一千万が転がり込み、億の金が必要なら修繕工事が必要だと触れて回ればいい。そんな利権の前に、黒呪術の恐怖の記憶とやらも掻き消されるらしかった。

 慣例に従い、新しい長は籤で選ばれた。彼らはその籤に細工をし、自分たちの仲間の女を長にした。大都のメインバンクに勤め、校庭で子供が怪我をしたという男の女房だった。

 ヨリと呼ばれるこの女の、わたしへの憎しみは一通りではなかった。例のガス爆発で反対派決起が立ち消え、大都がこの山城の利権を失ってから、メインバンクに勤める夫は、反対運動不発の責任を取り、地方へ左遷させられたという。子供の怪我も、噂の呪術のせいと思い込んでいるようだった。

 長となったヨリは、大都を復帰させるため、すぐさま活動を開始した。もっとも直前の議決をひっくり返すことは規約で禁じられており、新たに議案を立てた。

 それは、この山城の底地を地主から買い取る、という話だった。

 地主所有となっている底地はほんの一部だった。が、地主はそれをなぜか大都工務店に売却したがっている、とヨリは伝えた。元の契約条項には、それを可能にする項目が入っていた。

 大都が底地を所有すれば、契約更新時がくるたびに揉めることは必至だった。が、大都は親切にも底地の買い取りに関し、メゾン小蔵坂に譲ってもいい、と考えている。

 それには無論、条件がある。

 象が、ここを出ていかないかもしれない。

 大都の追い出しに関わった者は怖気をふるった。どんな嫌がらせが、今度はいつまで続くか知れない。

 浮き足だった住民らは、駐車場の空きスペースに人柱を立てることにした。KDDIが立て替えている鉄塔の部品にわたしを縛り付け、大通りに向かって晒した。

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 向いのマンション、隣近所からも人が集まった。区民センターのガス爆発、この地域にその他さまざまの災厄をもたらした女だと、怒号が飛び交った。

 「日曜にゴミを捨ててるってよ」

 「重罪だ。殺してしまえ」

 中心ではやしていたのはしかし、ヨリでも、ガス爆発に遭遇した反対派でもなかった。風呂桶のメンバー、わたしに協力して大都を下ろした連中だった。あの象の印の男たちが居座ることになったときに備え、自分だけは目の敵にされまい。おそらくそんなことで、三階のベランダにいたヨリに向かってアピールを繰り返していた。

 「おい、おい」

 丸い頭の中年男が、割って入ってきたのはそのときだった。

 「こんな真似して、なんでぇ。この人に訴えられたらどうするんだ」

 「訴えるだって。この女が、か」

 呆れたように笑ったのは、「小蔵坂城年代記」を記した書記の老人だった。

 「警察なんぞに頼れるわけがないだろう。自分がしたことを考えてみるがいいんだ」

 「呪術ってか。呪いをかけるのは、刑法には触れないがな」

 丸い頭の男が言うと、老人は一瞬、黙った。

 「呪術かどうか、わからないじゃない」

 小柄で色黒の中道という五十女が、おかっぱ頭に目をくりくりさせて言った。前の風呂桶では副長を務めていた。

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 「呪いと見せかけて、自分で手を下してたのかも。目撃者を募ってみましょうよ」

 ねえ、と人だかりに向かって声をかけた。

 「あたし、見たわよ」

 駅前でカフェを開いている上野が茶髪を振り乱し、金切り声を上げた。わたしは目を閉じた。これも前の風呂桶にいた、この女は味方の振りをして、足を引っ張った。間近で見ていただけに呪術については半信半疑に違いなく、何よりわたしを陥れたくて堪らなかったのだ。こいつが言い出したら、どんな出鱈目も止められない。

 「図書館でこの女を見た。集会所の隣りのプロパンをいじってた。ベランダから植木鉢を落としたのも見たし、ヨリさんちの子供の運動靴に蝋を塗ってた」

 きーっと叫ぶと、上野は持っていた紙袋からビールの缶を取り出し、わたしに向かって投げつけた。膝や胸に当たり、そのたびに人だかりは興奮した。慌てて上野を羽交い締めにしたのは、むしろ大都の担当者の方だった。

 ほら見ろ、と声が飛んだ。「いくらだって証言は出るぞ」

 「警察の取り調べを受けたらいいんだ」

 「そうだ。一つぐらい、何かやってるさ」

 近隣の住民たちが喚き、いまや山城の連中の方が、それに納得したように頷いている。

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 「そうか。なるほど」

 丸い頭の男は、人だかりの中から、小太りの若い男を引っぱり出した。

 な、と丸頭が促した。

 「ええ、ええ。貰いましたよ。ヨリ理事長から二十万円」

 「で、何しろって」

 「ここの底地を、」と、若い男は駐車場の隅っこを指差した。

 「大都に譲りたい、って言えって」

 ざわめきは、一瞬しんと静まった。

 「なあ、今の長よう」

 丸頭の男は三階のベランダに向かい、声を上げた。

 ヨリは白いエプロンの裾を拡げ、腕組みをして敷地を睥睨していた。

 「その金、どっから出たんだ。まさか管理費じゃねえよな」

 ヨリは物も言わず、ただ激しく首を横に振った。

 「そんでも、この山城の利益に反することだ。あんた、長だろ。長がそういうことすると、背任罪ってのに問われるわけよ」

 ベランダの上で、ヨリは後ずさりした。

 「亭主のいる銀行の金かい。まあ、清浄なマネーだとしても同じこった。長じゃなきゃ、いいんだぜ。何しても、俺みたく、長じゃなきゃ」

 丸頭は上野の投げたビール缶を拾い、プルリングを引いた。

 ヨリは後ろのガラス戸を開け、部屋に飛び込んだ。

 下りるんだな、と丸頭の男は怒鳴った。「そりゃそうだ。これで女房が捕まったんじゃ、亭主は馘だ。銀行は信用第一だもんな。おい。誰か代わりに、長に立ってやれ」

(第02回 了)

 

 

* 『神違え』は毎月23日に更新されます。

 

 

 

 

 

 

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メアリアンとマックイン 水の領分

 

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