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「天の岩戸が開いた」。マンションの隣り、または上階の人々が権力と偉大さの幻想と重なり合い、暗黒の陰謀が重層化する。ご近所から世間へ、そして巨悪の足元へと、無意義の波はひたひたと押し寄せ、現実を歪めてゆく…。詩人にしてストーリーテラー、気鋭の批評家でもある小原眞紀子が、現代の日常にひそむ古代的心理を抉る傑作純文学小説。

by 小原眞紀子

 

 

 

 

 天の岩戸が開いたと、彼女は言う。

 玄関先で、わたしから光が溢れ、希望が見えた、と仰ぐ素振りをする。

 能舞台の話じゃないの、とわたしは訊いた。

 近くの小蔵坂公園は高台にあり、梅も桜も時を経ず咲く。季節が近づき、そこに能舞台を設えて幻の演目を、と電話で聞いていた。

 「だから。そのためにも、もとおさの力が」

 もと、おさ。

 来林理事長は、わたしをそう呼ぶ。

 お付きの女は平埜というらしい。来林理事長と同じくらいの五十年輩だが、身なりを構わず、やや老けて見える。

 二人をダイニングに上げ、急須に茶葉を入れる。

 念じてよ、と来林理事長は言う。「番台を変えたいの。どうしても、そうしなくては。さもないと」

 風呂の水が抜ける、と平埜が呟いた。

 わたしには呪術の力がある。

 このマンションで、そう思われている。

 理由はさまざまあろう。昼夜逆転の暮しで、夜中に低い音楽と、微かな香が聞こえてくる。外出は夕方、ニットの部屋着に黒いストールをし、黒いバレエシューズにレッグウォーマーを引きずって出てゆき、夜中近くに帰る。かと思えば、週に一度度ばかりはきっちり化粧し、まともな振りをしてスーツ姿で出入りする。亭主はまた、いつもいるのかいないのか、妙な時間帯に車を停め、怪しい木の箱や紙筒を抱えている。

 しかし呪術を使うと言われる最大の根拠は、このマンションの管理会社を追い出したとき、周辺住民を巻き込む天変地異を起こしたという噂からだ。

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 とんでもないわよ、とわたしは言う。

 「死ぬような目にあったのは、わたしの方なのに」

 いいえ、もとおさ、と茶を啜りながら、来林理事長は言った。

 「あなたには力があるのよ。もし自分で気づいていないとしても」

 あってもらわなくちゃ、困る、と平埜も口を挟んだ。

 「あの番台には堪えられない、もしこのままなら、また」

 風呂の水が抜ければ、嵐が来る。

 そんな隠語も、わたしが理事長だったときから使われている。出どころは当時の理事の連中だ。

 わたしは怒っていた。言われれば確かに、鬼神のごとく怒り狂っていただろう。が、ごくつまらぬことではあった。管理会社が言うことを聞かない、それだけだ。

 「あんたたちが大家だとでも」と、担当者に言った。

 「こっちがオーナーよ。あんたたちに払う管理費は、家賃ってわけじゃない。住まわせていただいているわけじゃない」

 はあ、まあ、と担当者は惚けた。その年になってから六人目の担当者で、まだ顔も覚えていなかった。

 「躯体は確かに、分譲されてますね」と、外廊下の壁をぽんぽん叩いた。

 「でも、その、いわば中に張った湯は、私どものもので」

 つまりこのマンション、自分たちの住まいはいわば風呂屋なのだった。湯がなければ、意味もなかろう。風呂桶に浸かっているのがその年の理事らだが、いずれ順番に入れ替わる。ならば風呂桶の中にいるうちに、風呂の栓を抜いてやる。

 たいしたことでは、なかったはずだった。あちこちのマンションでやっている。

 ただ、ここは違っていた。親会社のデベロッパー、象のマークの大都工務店はマンション分譲の巨象と呼ばれ、自らが建てた建物の管理は当然、子会社に投げ、そこの住民からの月々の「上納金」を湯水のごとく吸い上げて生きていた。ここも管理費だけで、年間一千万をゆうに超えた。

 わたしは表玄関に呼び出され、常駐の管理人を含めて三人の男たちに詰め寄られた。

 「いいですか、理事長」

 その男の名刺には、鼻を持ち上げた象が雄叫びを上げる姿が浮き彫りで印刷され、もう一人の肩書きは副支店長とあった。

 「あなた方にとっては気持ちのいい風呂場だろうが、ここはうちが建てた水飲み場です。象は毎日、たくさんの水を飲むんです。どこの湯だって、浸かれば変わりゃしません。湯を替えれば矩体は傷むかもしれないし、湯と一緒に流れてゆく犠牲者も出る。そんなことしたら、あなた、ここに住めなくなりますよ」

 「象が飲む水って、お金でしょう」と、わたしは言った。

 「管理費、修繕積立金でしょ。毎月、供給してるのは、わたしたちじゃないの」

 「ええ。わたしどもの口座にね」

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 血で血を洗う争いになった。

 メゾン・エレファント小蔵坂に、大都管理は関係先に勤める住民を配置していた。彼らと大都の管理人は、各理事宅のドアが開かないように工作した。通報装置の故障と称し、非常ベルを一日に二十回も鳴らした。

 ベランダの植木鉢を落とした。落とした先は、しばしばわたしが歩く通路だった。わたしの部屋の窓ガラスが割られ、何者か侵入した形跡があった。盗られた物は何もなかった。住民総会の議決の票を、わたしは貸金庫に預けた。亭主が仕事場に詰めて帰ってこない夜、ふと目が覚めるとベランダから誰か覗き込んでいた。恐怖で金縛りにあったように身体が動かず、そのまま夜明けを迎えた。

 たとえ命を狙われても、わたしは後へは引かなかった。舐められている、と思ったからだった。この世で一番嫌いなのは、ごきぶりと借金と、舐められることだ。小柄な女は、放っておくとすぐ舐められる。舐められることには人一倍、敏感になる。舐められていなくても、女だと思って舐められていると思い込む。それが高じれば、ついには人から怖れられるようにもなる。

 「ねえ。刃物を隠し持って、脅してまわってるんですって」

 わたしにそう訊いたのは、一階に住む理事の一人で、わたしと同年輩の女性だった。その顔は蒼ざめ、声は掠れ、それでも勇気を振り絞っているのだった。

 「困るわ、そういうことは」

 大都工務店側は、あらゆる形で住民に働きかけをしていた。わたしに関するあらぬ噂を流すなど、ほんの序の口だった。

 「そりゃ困るでしょうよ」と、わたしは応えた。「それって犯罪じゃないの。どうして誰も警察に訴えないの」

 刃物で脅しているという噂の代わりに、わたしが呪術を使って人々を呪っている、と言われはじめたのは、その直後からだ。

 六階の老女が、急に肺炎を起こして死んだ。娘婿が大都に勤めているらしく、風呂の栓を抜こうとする理事会を激しく非難していた。それと前後して、四階に住む一家の小学生の息子が校庭のサッカーゴールに腕を引っかけ、複雑骨折した。父親は大都のメインバンクの法人事業部主査だった。

 横暴でヒステリックで呪術まで使うという女の理事長への激しい反感から、利害関係のある住民たちばかりでなく、反対派住民の署名は五分の一の十八名を越え、特別招集をかけるに至った。

 その日は嵐だった。

 秋の夕暮れで、野分だ。台風とも言う。

 京北区民センターの集会所は、二階が図書館で、同じ一階の隣りのコンパートメントは軽食喫茶となっていた。ガス爆発騒ぎは、その軽食喫茶の厨房で起こった。

 大嵐の雨風で、ガスの供給装置に水が入ったともいう。改築工事の関係で、一時的にプロパンを使っていたらしい。ガス爆発そのものに巻き込まれた住民はいなかったが、驚いた四、五人が道路に飛び出し、そこへバイクが突っ込んできた。二人が転んで軽症、バイクに跳ねられた一人が三ヶ月の重症を負った。重症者は大都工務店のスポークスマンで関連企業に勤め、特別招集をかけた男の妻だった。

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 「天誅だ」

 理事の一人が言った。書記を務める老人が、その言葉を記録した。老眼の彼は達筆の大きな文字で、「長(オサ)」という語もそのとき初めて使った。脳梗塞を起こした彼が入院し、施設に入って亡くなったのは半年後だったが、それについては呪いとも何とも、言う者はいなかった。

 ただ、彼の記録が残された。「長」の怒り、風呂の栓が抜かれたこと、反対派の旗揚げ、起こった嵐、天誅。

 中学で社会の先生を長く勤めたという、その老人が興奮と憤りを込めて物々しく書き記したそれはメゾン・エレファント小蔵坂理事会議事録の域を越え、メゾン小蔵坂盛衰記、小蔵坂城年代記などと表書きを変えながらノートは三冊に及んだ。

 その後、三年交替となった理事らは、長い任期の間に一人残らずこれを読み、口づてに周りに伝えた。そこに当時の「長」と記されている二一七号のわたしの部屋から、夜中にどんな騒音が漏れても文句を言う者はいなくなった。何曜日にゴミを捨てようと、それが分別されていなくとも、苦情一つ言われることはない。管理人が黙って始末する。

 「そいつよ。まさにその管理人が悪いの。番台を変えましょう」

 「あんな大人しい男が。なぜ」

 番台と呼ばれる管理人室に、ちんまり座っている初老の男は、わたしが面接して採用した。大都管理が出ていった後のメゾンは各業務を部分委託し、管理人は直接、メゾンと契約することになった。

 大都の手先として暗躍した前の管理人のことを踏まえ、悪知恵とはいかにも縁遠く、実直そうな男を選んだつもりだ。

 と、お付きの平埜が突然、泣き出した。

 「番台に脅されてるのよ」と、来林の長が言った。

 「玄関の防犯監視カメラでね。隣りの郵便受けを覗いて、手を突っ込んだところが映ってる、って言われたんだって」

 何でもないの、と平埜は声を上げた。「ただ、ちょっと大事な郵便物が。万が一、隣りに入れられていたら、と思って」

 「見られたら、困るものだったの」

 督促状だって、と来林の長が代わって答える。

 督促状。図書館の本の返却などではあるまい。クレジットカードのローンとか、そういったものか。

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 「他にもいるのよ。夜中にゴミを捨てたとか、共用水道で車を洗ったとか、亭主が留守の昼間、若い男を連れ込んだところが映ってるって」

 「番台が」

 「そう。言うのよ、一人一人に」

 「で、目的は。お金なの」

 来林の長は首を横に振った。「それなら簡単。恐喝で訴えてやる」

 支配よ、と平埜が金切り声を上げた。

 「あの男は、私たちを支配しようとしてるの」

 「神と呼べ、って」と震える声で、来林の長が言う。「おまえが長なら、自分は神だって。面と向かって」

 まさか、とわたしは笑った。

 「お茶飲んで。冷めちゃうから」

 来林の長は湯呑みから一気に飲み干した。

 「番台を替えるつもりなら、何が起こるか覚悟しろって。わたしだけじゃ駄目なの。前の長は逃げ腰だし、その前の長は引っ越しちゃった。どうしても、もとおさに出てきてもらわないと」

 でも、ねえ、とわたしは言葉を濁した。

 今の番台を選んだのは自分なのだ。それを下ろす側に回るとは、いくら黒い呪術の噂がつきまとうわたしであっても、社会常識的にどうか。

 だいいち、わたしにとっては便利な男なのだ。ゴミはいつでも出せるし、亭主の留守に電球が切れても、トイレが詰まっても、すぐやってきて黙って処理してくれる。上の階のガキがうるさい、隣りのベランダから煙草の煙の匂いがする、と口に出すか出さないかのうちにぴたりと止むのも、そういうことなら、わたし自身が怖れられているからばかりではなかったわけだ。

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 「あなたはどうなの」と、来林の長に訊いた。「あなた自身は、どんな被害を受けてるっての」

 さもなければ、これほど一生懸命にはならないだろう。長としての使命で、なんてきれいごとはあり得ない。

 ありとあらゆることよ、と来林の長は呟いた。

 「うちに来る業者は、全部ブロックされる。宅急便も、下まで取りに行かなくてはならないのよ。母の介護ヘルパーは車も停められない。わたしの自転車は落とし物として、雨の中、道路に放り出されたわ。許せないのは、母まで落とし物として、車椅子ごと敷地の外に放り出そうとしたんだから」

 にわかには信じられなかった。

 「支配者は誰なのか、示しているつもりなのよ。そのうちには、もとおさにだって」

 そうなのか。

 あの大人しい男が、わたしにも刃向かうときが来るのか。

 出したゴミを、丁寧に分別していた姿が浮かんだ。

 ゴミ。あれにはたまたま、見られたくない生ゴミは含まれていなかった。書類は全部、簡易シュレッダーにかけている。それでもあの男がその気だったなら、こちらについても、すでに何か捕まれていよう。

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 「防犯監視ビデオは、警察の立ち会いのもとでしか再生できないことになってるはず」と、わたしは言った。「犯罪が起きなければ、誰も見られない決まりでしょう。管理人が勝手に見たということ自体、違反じゃないの」

 「だとしても、なんて責めるの」と、平埜が俯いた。

 「これこれ、こういう場面を見られた、って説明しなくちゃいけない」

 その通りだった。「何かないの」と、わたしは訊いた。「あの男が従わざるを得ない、何か」

 来林の長と平埜は顔を見合わせ、黙った。

 仕方がない、とわたしは言った。「守にお伺いを立てよう」

(第01回 了)

 

 

* 『神違え』は毎月23日に更新されます。

 

 

 

 

 

メアリアンとマックイン 水の領分