三田文學_No.013_01

 

 

 三田のアイドルといえる西脇順三郎の特集である。西脇さんのアイドルぶりは、三田の村の人々でないとぴんとこないかもしれないが。とにかく誰も彼も、自分は西脇順三郎の弟子だと言うのだ。もちろんすでに亡くなっているから、確認しようがない。福澤先生は三田の「象徴」だが、西脇順三郎先生とて「会いに行けるアイドル」というわけでもない。

 

 とはいえ西脇先生は、そいつは弟子じゃない、と言い出すようなお人でもなかった。弟子と言われれば、きっとそうだ、少なくともそうかもしれない、と認めてくれる。それだから皆、遠慮なく「弟子入り」するのだろう。それは現世における逃げ場、駆け込み寺だったかもしれない。

 

 井筒俊彦は池田弥三郎とともに折口信夫の授業に出て、その圧倒的支配力というべき影響下から逃げるべく、西脇順三郎のもとへ「弟子入り」した旨を述べている。何かの冗談にも聞こえるが、若い当時はそれなりに深刻で、しかも決定的な選択だったろう。消極的に選んだようでも、自身の目に見えぬ「危機」を積極的に避けたという絶対的な選択なのだ。

 

 西脇さんには会いには行けないが、会った人の話をまだ聞くことはできて、浮世離れしているところに若い人たちの様々な思惑、逃避、直感や選択を受け入れる空間があったのだろう。何を教わるより、それが何よりありがたかったと、「弟子」たちは言いたいに違いない。

 

 だから西脇特集は、誰が何を言っていてもいいのである。それは西脇順三郎を知る人々が西脇さんに思いを馳せ、西脇サイドから見ればそうであるに違いない。しかしすでに「会いに行けるアイドル」でない西脇順三郎について、もし会ったことのない、特に若い人たちに伝えようとするなら、やはり筋のいい弟子のラインから繋げてゆくのが正しいと思う。

 

 その筋のよさとは教条主義的な正統派を主張するようなものでは、もちろんない。そういう態度は西脇順三郎の本質を伝えるのに端から適さないし、そもそも無意味だ。同時に、浮世離れして何でもいいみたいな西脇順三郎だからこそ、浮世のしがらみが匂うようなものは相応しくない。

 

 三田文学の西脇順三郎特集は、読む側からすると狙いがわからないし、狙いなんかないという浮世離れも感じられない。筋のいい弟子というべき新倉俊一を加えながら、このラインナップは何をしたいのか。現世の都合はちっとも悪くなくて、どうせならもう少し意味のあるご都合主義を押し通したらどうだろう。

 

 新倉俊一のほか吉増剛造は西脇順三郎の「弟子」かどうか知らないが、詩人ではある。三田文学の現在の「発行人」という立場で対談に臨むのも別にどうということはないけれど、ただキツネ憑きの浮世離れが「発行人」とバランスをとるというのはいかにも奇妙である。浮世離れかご都合主義か、少なくともどちらか徹底していれば、西脇先生のことだから、きっと難なく受け入れると思うが。

池田浩

 

 

 

 

西脇順三郎コレクション (1) 詩集1 評伝 西脇順三郎

 

 

 

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