ジャーロ_No.004_01

 

 

 「さよなら、アナログ!」。「紙の」ジャーロ最終号で、電子書籍版の第0号という位置付けである。紙版と電子書籍版では表紙が色違いになっている。文芸誌もだんだんこうなるのか、と感慨深い。同時に、もちろん当然の判断だし、別にどうこう言うこともない時代の趨勢だろうと思う。

 

 それでもいくつか、もやっとした不安に似た感覚がある。不安というより文芸誌や文芸、文学のジャーナルがなるほどこっちへ向かうだろう、という読みがぴたっとはまらない。もちろんそう簡単にはまるなら、いまだに文学や出版の低迷期は続いてはいないだろうが。

 

 出版の、としたが、電子化というのは果たして出版の一形態に留まっていると言えるのか、ということはある。出版とは文字通り紙に印刷し、版として出すことだ。電子出版という言葉はそれ自体、語義矛盾に近い。その点、電子書籍という言葉は、人の書籍形態への愛着がうかがえて微笑ましい。微笑ましいが、いつまで続くのだろう、とも思う。

 

 デジタルはデジタル固有のリテラシーによって、合理的な道筋を選択してゆく。携帯電話が受話器のかたちをしていたり、黒電話のベル音が響きわたったりするのは気持ちを和ませるし、わかるわかると言いたくなる。しかしそれは結局、様々なる意匠のひとつに過ぎない。それが必然的なかたちでない以上は、デジタル最先端の思想がかたちになった傑作の少なくとも同等以下でしかない。

 

 「電子書籍」が、情報デジタルツールのしゃれたデザインのひとつを指し、ちょっとした冗談で旧式の紙の書籍を真似ている、と見なされる日も近いかもしれない。そうであってもなくても、電子書籍が人の紙書籍への愛着からできていることに間違いはない。しかしそれは紙への愛着ではない。これまでたまたま紙でできていた「書籍」への愛着である。

 

 書籍というものが、多くの場合はひとりの人(著者)の思想の展開に沿い、右から左へ(横文字の場合は上から下へ)追って読まれることで、その著者本人、あるいは小説なら登場人物と擬似的な時間軸を共有する感覚、それゆえに愛されていることに気づくことは少ない。本好きとは、知識の収集や知性の開拓、孤独や人嫌いのゆえ以上に、分岐する時間軸のコントロールを好んでいる。

 

 この分岐のコントロール、支配の証しとして、紙という物理的存在が、私たちに逆作用としての負荷をかける「重し」のように働いている。それ自体「重さ」のない電子書籍は、どこまでも分岐するのを留めるのに「課金」という負荷をかけるしかない。電子書籍がかたちはともかく書籍であるなら、課金するのは正しい。

 

 問題は雑誌である。雑誌もたまたま書籍と同様に紙でできていたわけだが、それだけを理由として、デジタルに移行してもなお書籍の意匠を保ち続ける必然性があるのか、ということだ。それが単に課金の口実なら、ウェブというそれ自体が巨大な無料「雑誌」に飲み込まれるだけである。

長岡しおり

 

 

 

 

 

ジャーロ No.55 ジャーロ 54号 夏号 (光文社ブックス)