鶴山裕司さんの連載エセー『続続・言葉と骨董』『第047回 御道具(後半)』をアップしましたぁ。お茶は書道にならって「真(しん)」、「行(ぎょう)」、「草(そう)」、つまり楷書(真書)、行書、草書の三つの精神に分けて語られることが多い。しかし鶴山さんが書いておられるように、『茶道を真・行・草の三種類に厳密に分類することはできない。日本人の美意識を仮託した東山御物からして草の精神が反映されている』わけです。

 

このあたりが日本の伝統芸術の難しいところでせうね。お能は室町初期に、茶道は室町末期にその基礎が出来上がったわけですが、それは過去の文化伝統を一気に一つの様式に昇華したような芸術です。論理的な階梯を順番に踏んで出来上がったわけではありません。馬場あき子さんがおっしゃる「整理の文学」と「混淆の美学」、つまりそれまでの文化伝統を〝整理〟しそれを〝混淆〟して様式を作り上げたといふ面があります。

 

しかしお能も茶道も、いったんその様式が出来上がると、〝型の継承の芸術〟といふ側面を強めてゆきます。『〝型〟は普遍である。習練によって身につけることができるのであり、型そのものに優劣はない。そのため型は、時に内面の貧困さを覆い隠す鎧となってしまうことがある。この形式化による内実の貧困化は、茶道だけでなく〝型〟を継承するすべての日本の芸術に指摘することができる』(鶴山さん)わけです。

 

この型について馬場あきこさんは、『型を通して現れる、その人間の質が美しいか美しくないかを見ているんです』と述べておられます。鶴山さんは馬場さんの思想を敷衍して、『馬場さんが語っているのは、あくまで〝見る人〟としての私である。(中略)人間の内面は見る人としての私によって形作られる。それが他者からどう見えるのか、他者に伝わるものなのかどうかはわからない。ただ芸術家なら馬場さんのように、芸術にとっての最高の境位は「その人の到達した人間の質」だと力強く言い放つことができればそれで良い』と書いておられます。じっくりお楽しみください。

 

 

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鶴山裕司 連載エセー『続続・言葉と骨董』『第047御道具(後半)』 ■