真田丸

NHK総合

日曜日 午後20:00

No.106_TVドラマ批評_01

 

 

 大河ドラマの時代は、確かに終わってしまったかもしれない。しかしそれなしで、私たちのアイデンティティはどのように保たれるのか。ずいぶん大げさに聞こえるかもしれないし、テレビドラマごときにアイデンティティのよりどころを求めるのは情けないだろう。ただ、それは何かの象徴ではあり得るのだ。

 

 大本営発表も玉音放送も新聞やラジオから流れてきて、だから新聞もラジオもそれ自体が時代の本質だったわけではないが、本質を容れる器として時代に沿うものではあった。それは何事かを隠し、中心で物事を作ってゆくことができるものだった。器がそうしたのか時代がそうしたのか、それが同じことであるのかないのか定かでないが、そのようにしてあった。

 

 テレビの時代とは、何もかもが露わになるものだったと思う。少なくとも映るかぎりにおいてはそうだった。一方で、映さない圧力というのも生きていた。大河ドラマとは、それまで閉じられていた日本の歴史の中心を、そのつど露わにしてみせた。すなわち国家の中心は各家庭に運ばれ、人気と力のある俳優が “名前” でしか知らない英雄たちの顔つきを露呈したのである。

 

 もちろんそれはイリュージョンで、だからこそ信長も秀吉も様々に繰り返して露出された。大河ドラマとは、日本の中心たる歴史が大衆にすり寄り、露わにされたという身振りと、それが中心を示唆するものに過ぎず、本当の中心はまだ隠されてあるのだという身振りのバランスの上に成り立っていた。

 

 大河ドラマ「真田丸」はしかし、そのキャスティングを見ただけでも、もはや完全なフィクションとして自らを規定しているようである。堺雅人、大泉洋、長澤まさみとこの上なく豪華で、それぞれ極めて魅力的な俳優であることは疑いない。ただ、その並びを見るかぎり NHK 的ではない。民放によってその魅力を見い出されたのみならず、その魅力の文脈が民放的な俳優たちである。

 

 問題は NHK か民放かではなくて、大河ドラマに真実の、すなわちノンフィクションの重しを与えることを完全に放棄してみえる、ということだ。つまり私たちはこれまで大河ドラマを観るにあたり、フィクションだと理解していながらも、どこかで史実の重みに寄りかかっていた、ということが露わになった。

 

 この二重の露わさは、宮藤官九郎的なポスト・モダン批評とは恐らく無縁だろう。三谷幸喜という、そのデビューにおいて「サザエさんの心がわかってない」と叱られたという物分かりの悪さが生み出した、偶然の産物に違いあるまい。このような物分かりの悪さこそ、従来の文脈を台無しにし、同時にその存在意義を疑わせるという紛れもない “才能” である。

 

 ドラマでは、武士が泣き、ぺちゃくちゃ説明し、貴人の姉が「うんまぁーっ」と叫ぶ。公的な場面でときどき差し挟まる古い物言いこそが大河ドラマの「終わり」を告げている。ようするに「新撰組」同様の三谷幸喜の時代劇なので、流れているときはろくすっぽ観ないが、また来週も、となぜか思わせるものがある。

田山了一

 

 

 

 

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