トランジット・ガールズ

フジテレビ

土曜 23:40

No.103_TVドラマ批評_01

 

 

 姉妹ものであり、レズビアンものだ。どういうことかと言うと、母親が亡くなってわずか二年で再婚した父に反発する女子高生に、美しい姉ができる。大学を中退し、ハーフの写真家に弟子入りしている彼女は落ち着いていて、どこか浮世離れしている。自身もフォトジェニックなショートヘアのモデルみたいだ。

 

 女子高生はこの姉にも反発するが、姉は新しい妹を愛する。姉にはどうやら、本人もしかとは自覚のないレズビアンの気があるようだ、という話である。さて一昔前なら、こんな企画が通ったろうか。かと言って、その設定がひどく現代的だというわけでもない。姉妹と呼び合うレズっぽいのと言えば、昭和初期の雑誌「ひまわり」の世界でもある。

 

 「ひまわり」が少女たちの一過性の、すなわち文化として成立し得ないあやふやな感覚の記憶に過ぎないものとされていたのと同様に、こういう企画はこれまで少なくともマス・メディアにおいては、マーケティング不能な泡沫企画として消えてきたと思われる。その状況が変わったのは時代のせいではなく、言うまでもなく『アナと雪の女王』によるだろう。

 

 それはディズニー映画としては、従来的なディズニー映画的なるもの、すなわちいつか王子さまが、という文脈に対する批判だ、ともとれる。ならばこれも従来のテレビドラマ的なるもの、すなわちボーイ・ミーツ・ガールの文脈への批判が含まれるとみるべきだろうか。

 

 批判するだけあって、と言うべきか、ここで描かれているガールとボーイの機微は過不足ない。女子高生はお饅頭のような頬っぺたで格別に可愛らしくはないが、割合に男の子に受けがいい。どこが魅力かは具体的には伝わらないが、強いて言えば反抗的なところかもしれない。幼なじみも遊び人のボーイズも、また姉なる人であるガールも彼女に惹かれる。

 

 この男の子たちはもう、ボーイズとして守るべき女性的なるもの、みたいなものは荷が重いのかもしれない。だとすれば、彼らボーイズが惹かれるものは、ガールにとっても同様に魅力的であってもおかしくない。テレビドラマにあった文脈は、ここで早くも揺らぎ始める。

 

 おかしいと言えばおかしく、当然と言えば当然だが、姉なるガールに好意を打ち明けられて、一番揺らぐのは女子高生本人である。再婚した父への、やってきた新しい家族への反抗心は行き場を失い、骨抜きにならざるを得ない。まあ、その手があったか、思うような必勝法である。

 

 対立が無化されるのだから、テレビドラマ的なプロットを支えていた構造もまた、骨抜きになるのである。この曖昧さ、寄る辺のなさこそは従来の社会的な文脈が避けよう、避けようとしてきたものだ。それを商品化できるほど批判意識が成熟し、完成したのかどうかは定かではない。彼女たちはテレビドラマの枠組みの中で、だから『トランジット・ガールズ』と名指されている。

山際恭子

 

 

 

 

 

 

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