群像_No.013_01

 

 

 群像の評論部門の新人賞が発表されている。大変に難しい、内容がではなくて難しい時代になったなあ、とあらためて思われる。新人賞も難しいし、評論も難しくなったのだけれど、その難しさの本質が、この群像新人賞の評論部門で一気に露わになっているようだ。

 

 新人賞が難しいのは、出版業界の過渡期におけるなかば必然的現象に過ぎないだろう。とりわけ今まで通りにいかなくなったことがひしひしと感じられるのは、老舗の文芸誌などの新人賞であるように映る。そうそうたる面々を輩出したのに、ということでは必ずしもない。そうそうたる面々に見えるような仕組み、システムがかつては機能していたことに彼我の差を感じる。

 

 つまりは今の新人がかつての新人に比べて力が失われたというわけではない、ということだ。大型新人とか、完成されてデビューしたような新人、インパクトのあるテーマで彗星のごとく、と話題になるなどして、そこに群像新人賞といった活字が加わった時代には新人賞以前にそれを受け入れる文壇が機能していた。そんなことは考えてみれば当たり前である。

 

 今も文壇は機能しているけれど、それは文學界=文藝春秋社とほぼ同値であるところまで、いわゆる文壇は縮退化して見える。なんとなく漠然としてあった文学的なる権威や信頼感は、あまりに心許ないアトモスフィアを残して霧散したと言える。少なくとも公的な評価に繋がる新人賞という幻想は失われた。

 

 それでも若い新人にとって、新人賞は必要だ。ただ、その意味合いは文壇によって認知され、権威づけられるといったことから、他者に存在をアピールし、読者を獲得するきっかけとなる、というところにシフトしているようだ。他者に存在をアピールして読者が得られるなら、もちろんブログだって構わないだろう。ただ、そう思う何千人ものの中から差別化を目指すのみだ。

 

 新人賞を狙う新人というのはだいたい、そのぐらいでいっぱいいっぱいなのである。昔も今もそんなものである。たまたま昔は権威の色がつくぐらい、文壇というものの実体があった。新人の問題でなく、新人を受け入れる側に文学に対するヴィジョンがそれなりにあるように思えていた、ということだ。

 

 そのヴィジョンが失われ、時代を捉えきれなくなっても、個々の作家は自身の世界を創り出そうと足掻くことはできる。ただ、他者の世界に関心を持たなくなっている。そうなれば他者の作品を批評するのは物好きだけで、それをすることの意味も理解されなくなってゆく。

 

 批評というのは実際、唐突に表されるものではないはずなのだ。詩や小説なら傑作は唐突に現れるものだし、唐突に見えても著者の人となりというバックグラウンドはある。批評のバックグラウンドとはしかし、それを今、批評する理由なのだ。それが見えないところでいきなり「優れた批評」として提示されても、人は戸惑うだけだ。共有されるパラダイムがないところで、優れた新人批評家は彗星のごとく現れて消えるしかない。

谷輪洋一