家を看取る日_No.010_cover_01その家は今から90年以上も前、大阪の外れに建てられた。以来、曾祖父から祖父、父へと代々受け継がれてきたのだが……39歳になった四代目の僕は、東京で新たな家庭を築いている。伝統のバトンを繋ぐべきか、アンカーとして家を看取るべきか。東京と大阪を行き来して描く、郷里の実家を巡る物語。

by 山田隆道

 

 

 

 

  第十話

 

 父のことが苦手なら、コンちゃんみたいに距離を置けばいい。父との会話が気まずいなら、コンちゃんみたいに会話しなければいい。そうやって父と息子がギクシャクしてしまうのは、一般的に決して珍しいことではない。

 コンちゃんと飲んだ夜以降、僕はそんなことを自分に言い聞かせるようになった。その日の夕食中もそうだ。父の前で自然にふるまうという、いたって当たり前なことを意識的に実行した。それがそもそも不自然なのだが。

 その結果、僕はほとんど言葉を発しなくなった。今夜は父に話すべきことが特にないのだから、無理に話題を提供し、親子団らんを演じなくてもいい。孝介と秋穂による他愛もない話に相槌を打ちながら、黙って腹を満たせばいい。

 最初はそう思っていたものの、孝介と秋穂の話が途切れた瞬間、いとも簡単に気持ちが焦った。そういえば、父はさっきからまったく口を開いておらず、なんとなくつまらなそうな顔をしている。ああ、やばい。胸の奥がむずむず痒くなってきた。心音まで高鳴ってきた。不安に押し潰されそうだ。

 「あ、そうそう、お父さん」

 たまらず父に水を向けた。しまった。口の中でつぶやく。

 父は「あん?」と気のない相槌を打った。その艶のない表情が僕の胸をますます締めつける。得体の知れない不安が今日も大股歩きで襲ってきた。

 こうなったら、もうダメだ。今さら「なんでもない」なんて言って、話を終わらせるわけにもいかない。僕は方針を変更し、例のごとく父が好みそうな話題を探した。とりあえず話しかけただけで、特に話題を用意していなかったのだ。

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 「えっと、あのさ……。ああ、こないだ安田と会ったんよ。ほら、勉」

 試しにコンちゃんの話題を切り出した。コンちゃんは僕らの仲間うちでしか通用しないあだ名だから、父に話すときはいつも本名を出すようにしている。

 「おお、勉か」父が声のトーンを上げた。「最近、顔を見いひんなあと思っとったら、今はあれや。茨木のあっこに住んどるんやって?」

 「せやねん。聞いた?」

 「おう、弘が言うとったわ。なんやマンションをあれしたってな」

 よし、まずまずの反応だ。僕は心の中で指を鳴らした。父はコンちゃんの父親の弘さんと古い付き合いのため、当然その息子であるコンちゃんのことも子供のころからよく知っている。だから、彼の話題には興味をもったようだ。

 「勉のやつ、ここんとこ実家に寄りついてへんねんて。なんやマンションが快適みたいでさ、親父さんとも口きいてへんって言うとったわ」

 「ほう、そうなんかい」

 「安田家も色々大変なんちゃうかな。だって、実家には親しか住んでへんし、コンちゃんも実家を継ぐ気はないって言うとったから」

 そこまで言うと、父が一転して黙り込んだ。なんとなく険しい表情だ。

 僕はまたも不安になったので、父の琴線を探るように言葉を重ね続けた。

 「あの調子やったら、親父さんらが亡くなるまで実家はほったらかしにするんちゃうかな。死んだら建て替えして移り住むかもしれんけど」とにかくコンちゃんの情報を投げまくって、そのうちのどれかに父を食いつかせようという、ルアーフィッシングみたいな作戦だ。「勉は現代的な感覚なんやろうね。長男やから実家をどうこうってことより、奥さんの意見も聞きながら、自分らの人生を自分らの納得いくように生きたいって考えてるんかもしれん。実際、親父さんに家を継いでほしいって言われても却下するって言うとったし」

 必死だったからか、途中で何度か自分の本意ではないことを口走った。対面に座る亜由美が、黙ったまま訝しげな視線を送ってくる。

 ほどなくして、ようやく父の声が聞こえた。

 「ふーん、あいつはそんなん言うとんのか」

 よし、ヒットした。僕は安堵する。亜由美の目は見ないようにした。

 「新一、おまえはまだあれやな。そんなもんな、現代的とかそういうこととちゃうわ」父は苦笑いを浮かべながら続けた。「どういうあれかわかるか?」

 父が試すような視線を送ってきたので、少し戸惑った。父のことだから、きっと「親や先祖への感謝が足りない」とでも言うのだろうが、ここで正解を出さないほうが父のメンツを保てるような気がして、咄嗟に首を横に振ってしまう。

 すると、父は鼻をうごめかしながら言った。

 「要するに、勉は親への感謝がないんや」

 ドンピシャだった。あまりに正確で怖いくらいだ。

 けれど、今日もまた「ああ、なるほど」という偽りの反応が口つく。

 「あいつはな、先祖が安田のあれを守ってきたから、ここまで大きなって、何不自由ない暮らしができてるっちゅうことに対して感謝しとらへんねん」

 「確かにそうかもね。だから薄情になれるんやろな」

 「そういうこっちゃ。まあ、親の教育のあれやな。親が感謝の気持ちっちゅうもんを教えとったら、家のことを自然にあれする気になっていくもんや」

 「ああ、それはあるわ。俺なんか、小さいころから『感謝が大事や』ってよう言われてたもん。特におじいちゃんはそういう部分に厳しかったわ」

 僕はそう言って、会話をまとめた。話している途中で、今まさに嘘が入り込んだ瞬間に自分で気づいていた。本当はそんな記憶などまったくない。

 就寝前、隣の布団に入った亜由美が容赦なく訊いてきた。

 「ねえ、あれって本音?」

 僕はたちまち胸が痛くなった。もうほっといてくれ。

 「お義父さんの前で感謝がどうこうって言ってたじゃん」

 「本音やって!」思わず語気が強くなった。「誰だって、多かれ少なかれ親には感謝せなあかんやろ。だから、その部分に嘘はないって」

 なんとなく、自分で自分に言い聞かせているような感覚だった。親や先祖に感謝して現在の生を享受するのは、人間として当然のことだ。だから細部にいくら嘘があったとしても、大きな問題ではないだろう。僕の中にも感謝の気持ちがあるからこそ、この築九十年以上もの古い家を継ごうと決めたのだ。

 けど、おかしい。なんだかすっきりしない。自分が自分じゃないみたいだ。

 

 その夜はなかなか寝つけなかった。目をつむると、瞼の裏に父の顔がぼんやり浮かんできて、心が波打ってしまう。たまらず寝室を出て、冷蔵庫から缶ビールを取りだした。食卓に座りながら、一人で寝酒を楽しむ。深夜二時だ。

 すると、トイレに起きてきた父に見つかった。

 「おまえ、何時やと思ってんねん! はよ寝え、アホ!」

 いきなり怒声を発して自分の寝室に戻っていく。

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 急転して不快感が襲ってきた。父と同居していると、一人の嗜みもすべて筒抜けになってしまう。約二十年ぶりの同居生活は家族の形という額縁については理想的な幸せをもたらしてくれたが、その一方で僕の精神は窮屈になった。この父がいる以上、我が家は僕にとってリラックスできる空間ではない。

 結局、窓の外が白みを帯びてきたころになって、ようやく眠りに落ちた。

 次に目を覚ましたのは翌日の正午過ぎで、栗山家にはすでに誰もいなくなっていた。平日だから父は仕事で、孝介と秋穂は学校だ。ケータイにメールが届いていたのでチェックすると、亜由美は母を病院に連れて行っているという。

 シャワーを浴びて、眠気覚ましのコーヒーを飲んだ。亜由美が買い置きしてくれていたサンドイッチを胃袋に放り込み、朝昼兼用の食事を簡単に済ませる。

 午後一時から仕事を開始した。一階の縁側に面した和室に入り、デスク上のノートパソコンに向かう。仕切りの襖はあちこち破れていて、畳もささくれだらけの古い部屋だが、中高時代の僕もここが自室だったため、なんとなく落ち着いてしまう。だから、ここを再び仕事場にしているのだ。

 目下の仕事は、先週のロケで撮影した企業用のプロモーション映像を仮編集することだ。来週の月曜日に、発注先の映像制作会社でプレビュー、つまり仮編集のチェックがあるため、今週中には終わらせなければならない。仮編集くらいまでなら、パソコンの編集ソフトさえあれば自宅でもできる作業だ。

 大阪に引っ越してからの僕は、いわゆるフリーランスとして映像制作の仕事に取り組んでいる。東京で勤めていた映像制作会社を辞めたとき、もうテレビ界には携わるまいと心に誓ったため、大阪ではテレビ番組以外の映像制作に狙いを定めた。東京時代の人脈を頼って大阪の映像制作会社を紹介してもらい、そこから企業用映像やCMなどの制作を何本が受注することに成功したわけだ。

 最初は正社員としての再就職も視野に入れていたが、大阪の映像制作会社はどこも関西ローカルのテレビ番組の制作に手を出していたから、なんとなく嫌な予感がした。正社員になると、おそらく業務命令としてテレビ界に強制連行されることだろう。テレビ局の上層部や一部の人気タレントに翻弄され、型破りなことに保守的であろうとする、あの奇妙な空気はもう二度と吸いたくない。

 だから、仕事を選べるフリーランスは都合が良かった。今のところ受注件数は不安定で、東京時代の月収を下回っているが、当面は貯金も残っており、なんとか生活していける。なにしろ、実家のため家賃がかからなくなったのだ。東京時代は月収の三分の一以上を家賃にとられていたのだから、こんなに助かる話はない。そのうち受注も安定して、収入も増えていくことだろう。

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 二杯目のコーヒーを飲みながら、編集作業に没頭した。こうやって一人で黙々と作業をするのは自分に向いている気がする。映像素材を見ていると、二次元の世界に吸い込まれていくような感覚になり、自然に集中力が高まってきた。

 しかし、すぐに現実に戻された。突然、襖が開いたからだ。

 「おう、おったんか」

 半袖のYシャツを着た父が遠慮なく部屋に入ってきた。クセのある白髪まじりの剛毛はいつもように整髪料でテカテカだ。会社から戻ってきたようだ。

 僕は驚きと緊張のあまり、言葉を発することができなかった。なぜか姿勢を正し、ノートパソコンを閉じてしまう。心臓が早鐘を打っていた。

 「なんや、おまえ。今ごろ起きたんか」父が眉間にしわを寄せながら言う。

 「え、なんで?」

 「髪が濡れとる。風呂であれしたんやろ」

 「ああ」

 「ったく、情けないのう。平日やのに昼に起きて、だらだらあれしよって」

 早速、嫌な気分になった。父は何度説明してもフリーランスという仕事のスタイルを理解してくれない。仕事とは毎朝決まった時間に会社に出勤して、夜に退勤するものだと思っている。だから、僕が自分なりにスケジュールをやりくりして、午後から仕事を開始したとしても、それが平日だったら寝坊の結果だと見られてしまう。家にいるだけで休みだと勘違いされてしまう。

 「いや、寝たのが朝方やったから、そんなに寝てたわけちゃうけど」

 咄嗟に口をついたのは、そんな子供じみた言い訳だった。父はよく寝る男は怠け者、あまり寝ない男は働き者という単純な価値観の持ち主だから、睡眠時間が長いわけではないということだけは伝えたいと思ってしまう。

 ああ、我ながら情けない。僕はやっぱり父の顔色をうかがっている。父の評価を気にしている。不惑直前にもなって、なんとまあ、卑屈な話だ。

 

 その後、父は僕の部屋を横切って奥の襖を開けた。そこは僕と亜由美が寝室として使っている同タイプの和室になっており、さらにその奥には大きな仏壇のある、これまた和室になっている。要するに、縁側に面した三つの和室はすべて襖で仕切られているだけだから、襖を外すと畳の大広間になるわけだ。

 これもまた、大正建築ならではの間取りなのだろう。廊下がないため、一番奥の仏間に行こうと思ったら、その前の二つの和室を通り過ぎないといけない。

 どうやら父の目的も仏間にあるようだ。僕の仕事場と僕ら夫婦の寝室を通過して、一番奥の仏間に入ると、仏壇の前で正座する。父は開けた襖をいちいち閉めず、用事が済んだら最後に閉める人だから、父の行動が僕からも丸見えだ。

 父は線香をたむけて仏壇に手を合わせた。黙祷後、僕に視線を送る。

 「おい、今日はおばあちゃんの月命日やぞ。おまえもおつとめせい」

 「ああ」

 「俺も朝はころっと忘れとってな。会社で気づいたから戻ってきたんや」

 それだけのためにか――。僕は唖然とした。

 祖母が亡くなったのは五年前の三月九日だから、七月九日の今日は月命日ということになる。確かに、父は昔から先祖の月命日の朝は「おつとめ」と称して必ず仏壇に手を合わせる人だったが、それをたまに忘れただけで会社からわざわざ戻ってくるとは驚きだ。そこまで重要なことなのか。

 正直、僕としては面倒くさくてたまらない。なにしろ、栗山の月命日は祖父母だけでなく曾祖父母も含まれるので、全部で四日もあるのだ。

 「新一、なにやっとんじゃ。はよ線香をあれせい」

 父が催促する。僕が仕事中であることなど夢にも思っていないのだろう。

 「今ちょっと仕事中やから、あとにするわ」

 「嘘つけ、起きたとこやろ。はよあれせい」

 「いや、このパソコンで仕事してるから」

 「なにをごちゃごちゃ言っとんじゃ。すぐ済むことやろ。はよあれせい」

 ダメだ――。話が通じない以上、父に逆らえるわけがない。

 僕は泣く泣く仕事を中断して、仏壇に手を合わせた。時間的にはたいしたことではないのだが、せっかく高まったモチベーションが一気に萎えてしまう。

 鍵のない襖一枚で仕切られた和室、しかも奥の部屋に向かう通路にもなっている和室を使用している以上、こうやって仕事中に邪魔が入るのは珍しいことではない。これまでにも、仕事中の緊張感を何度もぶち壊されたことがあった。

 おつとめを終えると、気を取り直して仕事を再開した。けれど、今度はなかなか気持ちが入っていかない。父が仏間の掃除を始めたり、仕事関係の電話や探し物をしだしたり、とにかく家に居座ったまま会社に戻ろうとしないからだ。

 さらに、ほどなくして赤の他人まで仕事場に入ってきた。

 「えらい、すんまへんなあ」

 子供のころから知っている法衣姿の老人。近所のお寺の住職さんだ。

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 彼はインターフォンも鳴らさず、勝手に人の家に入ってきては、当然のように僕の仕事場と夫婦の寝室を通過して、ずかずかと仏壇に向かった。そして、慣れた手つきで仏壇に線香をたむけると、手を合わせて朗々と読経を始める。

 「南~無阿~弥陀~仏~、南~無阿~弥陀~仏、南~無阿~弥陀~仏~」

 聞き慣れたリズムが耳に響いた。僕は大きく溜息をつく。まったく、この遠慮のなさはなんなのだ。我が家にはプライバシーというものがないのか。

 これもまた栗山家では昔からの日常風景だ。曾祖父母と祖父母それぞれの月命日になると、昼下がりに近所の住職さんがやってきて仏壇前で本格的な読経を行うことになっている。つまり、現在はこれが月に四回もあるということだ。

 僕が物心ついたときにはすでにそういう習わしがあったから、少なくとも四十年は続いているのだろう。この住職さんは当時から変わっておらず、栗山家とは密接な関係にあるため、今となってはまるで自分の家かのように堂々と栗山家の敷居をまたぐ。僕の記憶では昔から老人風情のままだから、年齢は不詳だ。

 読経は三十分も続いた。その間、もちろん仕事は進まない。

 ようやく住職さんが帰ったので、僕は玄関と門扉の鍵を締めることにした。栗山家のみならず、この町の古い家はどこも施錠に疎いため、こういう無礼なことが起きるのだ。僕が子供のころなんか、祖母の留守中に近所の老婆が勝手に家に上がり込んでいて、平気な顔で祖母の帰りを待っているなどといことも珍しくなかったが、今はプライバシーとセキュリティーを重視する時代だ。

 ところが、その後もクリーニング屋がインターフォンを鳴らし、酒屋が門の外から大声を出し、キッチンエールやダスキンまで門扉を叩くから、てんで仕事にならなかった。百年近くも同じ場所に建ち続ける家では、長い年月をかけて築いてきた様々な付き合いがあるため、それだけ訪問者も多くなる。

 やっぱり、どっかの会社に入るべきかもな――。

 僕は口の中でつぶやきつつ、在宅仕事をあきらめた。今日のところは、近所のファミレスかネットカフェの個室にでもパソコンを持ち込むしかないだろう。梅田に行けばレンタルオフィスもあるだろうが、その費用が馬鹿らしい。

 かくして外出の準備を始めた。なにもしていないのに疲れを感じる。

 「おい、どこ行くんや」

 僕が家を出ようとすると、父に呼び止められた。

 「ちょっと近所に行くだけやけど」嫌な予感がする。

 「急ぎのあれか?」

 「いや、急ぎってわけちゃうけど」

 「せやったら、ちょっと会社まで車で送れ」

 「はあ? なんで?」

 「今日は仕事も暇であれやから、もう戻らんでええと思っとったんやけどな。なんやさっき社員から電話があって、急に戻らなあかんようになったんや」

 「ああ、そう。けど、なんで俺が送るん?」

 「ビールを三本もあれしてもうたんや」

 あ、呆れた。このわずかな時間に、しかも昼間から酒を飲んだというのか。それで車の運転ができなくなったから、息子の予定や事情も考えずに、いきなり命令口調で「送れ」と言ってきたのか。なんとまあ、横暴な。

 当然、断ろうと思ったものの、父の前で強い口調になれない僕は、断るための正当な理由を考えてしまう。コンちゃんなら、どうやって断るのだろう。

 「行くぞ」父はすでに了承済みかのような態度で、顎をしゃくりながら僕を急かした。「会社までのちょっとしたあれや。どうっちゅうことないやろ」

 確かにどうってことはない。家から会社までは車で十五分だ。仮編集は今週中に仕上げれば良いわけだから、今は一分一秒を惜しむような状況ではない。

 感情ではなく、理屈で考えた結果、僕はいつのまにか首を縦に振っていた。ガレージに向かう父の背中に引き寄せられるように、足が勝手に動いてしまう。

 だからといって、心中は決して穏やかではなかった。煮えたぎるような負の感情が胸の奥にじわじわ広がり、なんだか息苦しくなっていた。

 

 ガレージには二台の車が並んでいた。僕のキューブと父のグロリア。以前は母の軽自動車もあったのだが、もう運転できなくなったので処分した。

 父がグロリアの助手席に乗り込んだ。

 「こっちの車で行くん?」僕は運転席のドアを開けながら訊く。

 「これを会社に停めとかんと、どこも移動でけへんやないか」

 「けど、酒飲んでるやん」

 「二時間もあれば抜ける」

 「俺はどうやって帰ればいいん?」

 「電車であれしたらええがな」

 そんな無茶苦茶な……。だったら、おまえが電車で行けよ。

 けれど、父が不機嫌そうな表情で「はよ出せ!」と言った瞬間、すべての不満がぼやけてしまう。咄嗟にシートベルトを締め、発進の準備をする。

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 ああ、最悪だ。これからの道のりが地獄としか思えない。

 父を助手席に乗せて運転する。それは僕にとって修羅場を意味している。父は昔から他人の運転に対して黙っていられない性質で、助手席に乗ると「もっと左に寄れ!」「ブレーキが遅いわ!」「ちゃんと周りを見ろ!」などといった厳しい命令をいちいち発してくる。ハンドルの回し方にしろ、車線変更やバックのやり方にしろ、車の運転には人それぞれのクセや特徴があるものだが、父はそういうものを一切認めず、自分流を他人に押しつけるところがあるのだ。

 だから、僕としては父が隣に乗っていると運転しにくくてしょうがない。いつ怒鳴られるかわからないから、教習所の検定試験みたいに全身を硬直させながらハンドルを握ることになってしまう。普段から乗り慣れているキューブならまだしも、不慣れなグロリアの場合はなおさらだ。

 その日の父も、以前と変わらず口うるさかった。僕が発進させた途端、いきなり「アクセルが急や、アホ!」という罵声が飛んでくる。

 ほどなくして、前方の対向車とすれ違うことになった。普段ならどうってことない状況だが、父を乗せていると思うと心音が一気に高鳴ってしまう。

 「おい、もっと左寄れ。まだあれできんぞ。心配せんでええ!」

 こちとら心配など一ミリもしていなかったのだが、父の声を聞いているうちに手に汗がにじんできた。簡単なことなのに、さも難しい運転をしているかのような錯覚に陥る。僕は深呼吸を繰り返しながら、グロリアを左に寄せた。

 すると、それはそれで父が怒声を発した。

 「危ない! 寄りすぎや、下手くそ!」

 もう嫌だ――。頼むから黙っててくれ。

 こういうとき、若いころなら父に反論したこともあったのだが、今は我慢して聞き流すようにしている。いくら僕には僕なりの方法があるだとか、それで日常的に車に乗っているのだから信用してほしいだとか、そういう理屈をこねたところで、父は納得する人ではない。「おまえは俺の車をこすったからな」と、僕が免許取りたてのころの古い話を蒸し返してきて、鼻で笑われたことが過去に何度もあった。だから、もう無駄な言い争いはしたくない。腹が立つだけだ。

 ほどなくして、前方に父の会社が見えてきた。よし、解放まであと少しだ。

 狭い道路の左岸に面している会社の前には一台分の車庫スペースがあり、父はいつもここにグロリアを駐車している。だから、僕は車庫スペースを少し通り過ぎたところでブレーキを踏み、ギアをバックに入れた。

 すると、ここで予想外の出来事が起こった。すぐうしろに大型のワゴン車が迫っていたのだ。このままバックすると衝突してしまう。

 あ、ハザードを忘れていた――。だから、うしろのワゴン車はグロリアが停車することを予測できず、ここまで接近してしまったのだろう。道幅が狭く、車一台の通過がやっとだから、うしろから追い抜くこともできないはずだ。

 なんで今日に限って、こんな凡ミスを……。僕は小さく嘆息をついた。よほど精神が錯乱しているのか、普通のことが普通にできない自分が嫌だった。

 「なにやっとんじゃ、アホんだら!」案の定、父の怒声が響いた。

 僕はますます混乱した。ああ、冷静な判断ができない。身動きもとれない。やばい、お父さんにしばかれる――。子供みたいな不安が込み上げてきた。

 僕はバックミラーに映るワゴン車をにらみつけた。自分のミスのくせに、ワゴン車が憎々しい。「おいっ、下がれよ!」苛々が口をつく。

 しかし、ワゴン車は下がる気配がなかった。それどころかクラクションを鳴らしてくる。父の顔が鬼に見えた。あわわわ、めちゃくちゃ怖い。

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 結局、僕はグロリアを前進させた。しばらくすると少し道幅が広くなり、そこでワゴン車を追い抜かせる。これでようやく人心地ついたかと思ったが、現実はさらに地獄が続いた。いったん怒りに火がついた父は、僕が気を取り直して再び車庫入れに向かう最中も容赦なく厳しい言葉を浴びせ続けてくる。

 「たく、アホが! おまえはハザードも知らんのか! いきなり止まったら、うしろの車も怒って当然やろが! ようそんなんで運転しとんな、ボケ!」

 僕はそれにも耐えながら、黙って運転を続けた。けど、頭が痛い。全身が熱くなってきた。そのせいか、いつものようにハンドルをさばけない。車体の感覚もわからない。おかしい、今までどうやって車庫入れをしてきたのだろう。

 「危ない!ぶつかるわ、アホ!」父の怒声がさらに大きくなった。心臓が飛び出しそうになる。「どこに目えつけとんじゃ、下手くそが!」

 その瞬間だった。

 僕の頭の中でなにかが切れる音がした。

 「ああああああ!」

 気づいたら、わけのわからない声を出していた。

 「やかましいんじゃ、さっきから!」

 ブレーキを踏み、ハンドルを強く叩く。

 「横からごちゃごちゃ言われたら、普段できることもできへんやろ! 俺には俺のやり方があんねんから、黙って任せろや! だいたい自分が勝手に酒飲んで運転できんようになったんやろ! それで人に運転させてるんやろ!」

 無意識だった。ただただ勢い任せだった。呼吸が荒い。手も震えている。

 僕は自分を失った気がした。自分が壊れた気がした。

 ルームミラーに妙な色をした人間の顔が映っていた。それが自分だと気づくのに少し時間がかかってしまう。十二色の色鉛筆では描けない色だった。

 一方の父はまったく表情を変えていなかった。いつものように眉間にしわを寄せ、険しい目つきのまま「もうええわ、かわれ!」と吐き捨てる。

 ますますカチンときた。「勝手にせえ!」僕は思わず捨て台詞を残して、車を降りた。それでも腹の虫がおさまらなかったので、ドアを乱暴に閉める。

 そこからは二度と振り返らなかった。あてもなく早足を続け、とにかく父から離れることだけを考えた。よく知っている町なのに、近くの駅までの道がわからなかった。どこかで曲がるはずだったけど、そのどこかがわからなかった。

(第10回 了)

 

 

* 『家を看取る日』は毎月22日に更新されます。

 

 

 

 

 

 

 

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