小原眞紀子さんの『文学とセクシュアリティ 現代に読む源氏物語』(第040回)をアップしましたぁ。今回は『源氏物語』第五十二帖『蜻蛉(かげろう)』の読解です。『宇治十帖』の第八帖に当たります。浮舟が川に身を投げ自死してしまいます。小原さんが書いておられるように、『四十九日の法要が行われるまでが浮舟の失踪とその死にまつわる話、ということになります。この「蜻蛉」の以降については、薫と匂宮という二人の生者の現世でのあり様を示す物語』です。

 

小原さんは『蜻蛉』について、『単純に傷つき、嘆き悲しむ匂宮ですが、それだけに立ち直りが早い。・・・かといって薫の方が浮舟に対する愛情が深い、というわけではありません。・・・ただ、薫にはそのような自身の痴態に対する自省の念と分析する心があります。・・・ここにあるのは、浮舟などの女性たちを挟んで自身の利害や内面を見つめ、他の男と精緻な駆け引きをし、自身のエゴをなだめようとする男たちの揺れ動く心情でしかない。女への執着があるからには恋愛と呼ぶことはできますが、この古代の物語の正確な描写は、雑で陳腐な形骸である「恋愛」という現代の概念に対し、それはいったい何なのか、という問いをつきつけるのです』と批評しておられます。この心理の揺らめきを、小原さんは古井由吉を例にして日本独自の純文学の概念から読解しておられます。

 

『日本文学固有の「純文学性」とは、すなわち自我のあり様です。外部が存在しない「肥大化された自我」というものが、日本文学作品における純文学性の本質であります。・・・日本文学とは・・・源氏物語をむしろ特別な総括的文学作品として、随筆、日記というプロットのないテキストの集積で形成されている、と言えます。・・・古井由吉の“男”と“女”は他者同士ではない。他者なのですが、互いに浸食し合い、自他の区分があやふやになってゆく。自我に向かい、他者を巻き込んでそれに耽溺しながら、自我の輪郭が溶けてゆく。それはやがては“男”と“女”ではなく、ありやなしやの“生”と“死”に接近するのです』と小原さんは批評しておられます。じっくりお楽しみください。

 

 

小原眞紀子 『文学とセクシュアリティー 現代に読む源氏物語』(第040回) ■