第七回 恋人たちの言葉

オルフェの鏡_07_01

 

 

 H・G・ウェルズはフェビアン協会の会員であった。協会は、知識人が清廉な生活を送ることで範を垂れ、急激な革命によってではなく、緩やかな改良によって社会を変革しようという社会主義系の組織である。だがウェルズはすぐに退会してしまう。一説には会員たちの政治的想像力の貧しさに、愛想を尽かしたからともいう。確かに、その作品群を一望すれば明らかなように、ウェルズの夢想は同時代人の遥か先をいっていた。

 

 ところでその想像力は、兄弟としての人類という問題にも及んでいる。

 

『公開謀議』という書物のなかでウェルズは、惑星を別々の政府によって統治される別々の国に分割することはまったく恣意的なことであり、善意の人々も結局最後には己れを知り、国家という現体制を放棄することになるだろうと断言した。諸国家とその政府はいずれ消滅するだろうが、それは革命の結果としてではなく、そのようなものがまったく人為的なものであることを人々がやがて理解するようになるからである。

(ボルヘス編『バベルの図書館 H・G・ウェルズ』より「序文」、土岐恒二訳)

 

 ウェルズの組み上げた空想科学小説のパラダイムからほとんど逸脱することなく書き継がれてきた多くの作品で私たちが目にするとおり、未来世界で地球を侵略しようとする異星人は国家を持っていない。彼らはただその惑星の人間というだけの存在、あるいは惑星そのものの化身ともいうべき存在であって、地球という有望な植民地の人類を、十把一からげに捕食する。このように一個の惑星という敵を迎えると、さすがの人類も存亡の危機を目前に日頃の憎しみを忘れ、国境を超えて徒党を組むのだが、どういうわけか最後に敵を追い払うのはいつも強大な軍事力を持った先進国の英雄、あるいはその書物が書かれた国(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)の英雄なのである。

 

 空想科学小説もまた幻想小説であるというならば、その幻想のなかでさえ人類は兄弟になることができない、ということになりそうだ。だがアベルとカインの霊を召喚するまでもなく、そもそも兄弟にそれほどの絆があると期待することが、すでに手の届かぬ幻想の領域の約束事であるようにも思われる。

 

 ではどうすればよいかといえば、恋人になることだ。恋人という関係こそ究極の幻想であり、それはやがてすべての現実を呑み込んでひっくり返ると、ついには幻想そのものから脱却してしまう。この幻想と現実の反芻運動は、トールキンが自然言語としての人工言語を作り上げた過程と似ているかもしれない。要するに、兄弟のための言語として模索された共通語に満たされなかった私たちには、恋人のための言語という俗語が必要なのだ。

 

「この男の腕の下や、瞳の奥で、ずいぶんお太陽(てんと)さまがでんぐり返りをされたんだなあ……」

(ジュネ『葬儀』平井哲之訳)

 

 俗語のなかでもとくにごろつきどもの、港湾労働者の、サーカス芸人の隠語に魅了される私たちは、そこからめくるめく暗喩の奈落に落ち、惑いながら、私/あなた/彼/彼女とその中間にあるすべてに憑依する。耳慣れない言葉が、ちょっとした言い回しが、そして狭い世界の底で腐りきって発酵している陳腐な意味が、いくら辞書を繰っても見当たらない真実をいとも簡単に白日のもとに曝すのだ。

 

 もちろん、文字通りに恋人を指す俗語も枚挙にいとまがない。恋人は一にして全であるために、いくら呼んでも呼びたりないということであろう。なかでも一夜限り、いや半日かぎりの恋人に関しては、幻想の性急さもあってかその呼び名が最も多彩で、宮武外骨が大正十年にまとめた『売春婦異名集』を見るだけでも優に数百を超える。鴨に干瓢、水汲に綿摘などなど、いずれも土地の香りと書物の記憶を帯びて妖しげに呼吸する名ばかりだ。

 

 だが俗語はむしろ恋人そのひとを呼ぶものというよりも、恋を縁取るものであるかもしれない。恋の入り口から出口まで、一挙手一投足に俗語はつきまとう。例えば寄席芸能を研究し、小説や随筆にも手を染めた正岡容が死の直前、昭和三十二年に上梓した『明治東京風俗語辞典』を繰ってみると、そこにはまさに俗語の嵐が吹いている。目に留まるまま、気ままに組み合わせて戯れるうちに、「愛し目を、交わすが早いか恋の半土左、鼻下長連のうんてれがん、一たまりもなく」などと、都々逸ともなんともつかないものをひねりたくなってくる。

 

 だが言語史はさておき、喫緊の課題は、いま目の前にいる恋人とどのような言葉を交わすかということではあるまいか。私たちは恋人をほかの誰とも違う名で呼びたがり、二人のあいだでしか通用しないコードを織り上げる。乳児が言語以前の喃語で母親と心を通わせるように、恋人たちも喃語で囁き合うのだ。恋人たちの言葉は五感に直結している。手始めに恋人の名を呼べば、その名前には耳に心地よい音があり、清らかな文字があり、甘い舌触りがあり、掌の上で転がせばやわらかく、ほのかに匂う。

 

 「パーフェクト・センス」(デヴィッド・マッケンジー監督、2011)という映画があった。それは、ふとしたきっかけで広まりはじめた新種のウィルスが、ついに全人類に感染する過程と、その奇妙な病状の亢進を描くという、表面的にはすっかり食傷気味の空想科学映画に過ぎない。だがそういった映画では普通、感染の蔓延とそれへの抵抗が主軸となるのに対して、この映画では病気が発症した後、いかに人々がそれに順応してゆくか、という部分が主に描かれている。

 

 その病気にかかると、まずは嗅覚がなくなってしまう。最初の発作が起こると、人々はわけもわからず悲しみにくれ、涙が枯れるまで泣き続ける。そして発作が治まると、もう匂いがわからなくなっているのだ。匂いはもっとも記憶や感情と結びついた感覚であるから、匂いを嗅ぐことのできなくなった人々は、もはや以前と同じように世界を見ることができなくなる。

 

 次に訪れるのは味覚の喪失である。映画の主人公のマイケル(ユアン・マクレガー)はシェフなので、この際、味は度外視して、おもしろい食感のメニューを考案することで何とか店を潰さずにすむ。このように人類はとにかく強がって踏みとどまろうとするのだが、ついに聴覚までもが失われるときが来る。しかもこの発作は怒りの爆発を伴うので、マイケルは恋人のスーザン(エヴァ・グリーン)と別れる羽目になってしまう。

 

 こうなると、しまいには目が見えなくなるに違いない、と人々は恐怖に溺れる。政府も科学者も、すでにお手上げである。暴動すら、もはや虚しい。目隠しをしてその日に備える現実派も登場する。しかし、希望はない。そしてとうとう、その日が来る。幸い、マイケルはすんでのところでスーザンと和解する。そして二人は抱き合い、見つめ合い、それを最後に光を失う。触覚だけが残った。映画はこのような言葉で結ばれる。

 

もはや暗かった。だが彼らはお互いの吐息を感じたし、知る必要のあることはすべて知っていた。彼らは口づけし、お互いの頬を伝う涙を感じた。もしまだこの世界に見ることのできる者がいたら、彼らは頬を寄せ合うごく普通の恋人たちのように見えたことだろう。

(映画「パーフェクト・センス」より、拙訳)

 

 

 マイケルとスーザンという二人の主人公の平凡な名前は、彼らが人類の代表、恋人たちの代表であることを意味しているだろう。

 

 頬を寄せ合い、静かに涙を流して愛し合う恋人たちの姿は、仏教にいう六欲天の天人たちを思い起こさせもする。ほとんどの欲から解脱しつつある他化自在天の天人たちは、もはや愛する者に触れる必要さえなく、ただ見つめあうだけで子を成すことができるという。

 

 だがそれも幻想である。結局のところ、恋とは相手を所有したいという欲望に過ぎないのかもしれない。相手のために相手を愛する、などということは起こり得ないのかもしれない。恋に落ちたとたん、すべての言葉は矛盾を孕み、秩序は逆立ち、幸福の絶頂と悲しみの底には高低差がなくなってしまう。せめてそのときには、涙を流そう。涙は恋人たちの言葉の結晶なのだ。それは私たちの心をかぎりなく染めつづける。

 

白露も時雨もいたくもる山は下葉のこらず色づきにけり

(紀貫之、古今集、二五六)

 

 千年の昔から、繰り返し歌に詠まれてきた通りである。

大野ロベルト

(第07回 了)

 

 

 

【画像キャプション】

「幻想の兄弟たちは、世界の果てからやってくる……」

作者不詳「フラマリオンの版画」1888年初出

 

 

 

 

 

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