ショートショート_No.010_cover_01「詩人と呼ばれる人たちに憧れている。こんなに憧れているにもかかわらず、僕は生まれてこのかた「詩人」にお会いできた試しがない。・・・いつか誰かが、詩人たちの胸ビレ的何かを見つけてくれるその日まで、僕は書き続けることにする」
辻原登奨励小説賞受賞の若き新鋭作家による、鮮烈なショートショート小説連作!。

by 小松剛生

 

 

 

 

格段とカフェ

 

 

 彼女は正直な嘘つきだ。

 と言ったら、矛盾していると指摘したくなるかもしれないが、僕にはそうとしか言いようがない。

 あいにく僕は嘘つきでも正直者でもない。

 

 

 どちらが言い出したかは忘れたけど、二人で奥多摩に行くことになった。

 僕らは電車を乗り継ぎ、バスに揺られ、40分ほど公道を歩いて、2時間ほど山野を散策した末、大樹に辿り着いた。息のあがっていた僕に彼女は涼しい顔で「疲れたね」と言った。

 

 それは大きなクスノキだった。

 巨人を見上げているかと勘違いしてしまうほどの大きさで、巨人そのものを見たことのない僕は巨人を見たような気分になった。枝葉の奥は昼間なのに暗く湿っていた。

 「ねえ、知ってる? アフリカにあった一番最初の樹の話」

 彼女はよく唐突に話を振ってくる。

 「何それ?」

 「あのね、アフリカのとある地方には地球上で一番最初に生まれた樹が最近まであったらしいよ」

 「まさか」

 「何でもその地方の言語には遠い未来や過去を表わす言葉がないんだって。だからそういう概念がない。どんなに昔の出来事でも『ちょっと前』になっちゃうし、どんなに先の話でも『もう少し後』になっちゃうんだって」

 「おもしろいね」

 僕は彼女の真似をして幹に手を当ててみた。ひんやりとして気持ち良い。

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 「でしょ? でもね、困ったこともあるの。政治家が公の場でマニフェストを語っても、そこの人たちは約束がすぐに果たされると勘違いしちゃうの。だから、その土地では民衆による紛争が絶えないんだって」

 「それは困るね。政治家たちは大変だ」

 幹に抱きつく彼女を見て、僕もそうした。二人が両手を広げてもお互いの指は触れそうもなかった。その樹はそれほどに大きくて太かった。

 「でね、そこに住む人たちによると、世界で一番最初に生まれた樹はついこの間まであったんだって」

 「それ本当?」

 僕が聞くと、彼女はパッと両手を放して「嘘だよ」と、はしゃぐように叫んだ。

 

 

              *

 

 

 もうひとつ。

 古いドイツの映画を観たときだ。

 彼女はクレジットが流れて館内が明るくなってもまだ泣いていた。

 化粧を直してお手洗いから戻ってきた彼女に僕は言った。

 「でも君、寝てたでしょ」

 「うん」

 喫茶店で僕はアイスコーヒー、彼女はそれにニューヨークチーズケーキを頼んだ。

 「途中を飛ばしているのによく泣けるね」

 「ねえ、知ってる?」

 「何を?」

 飲み物とケーキが運ばれてきて話は少し中断する。彼女は嬉しそうにケーキに捲かれたラップを剥いてゆく。

 「人の眠りってね、シーソーみたいに作用するの。起きている時は起きているスイッチに傾いていて、寝ている時は寝ているスイッチに傾いているの」

 「そう考えるとわかりやすいね」

 表通りでは休日を歩くカップルや子供連れの母親が買い物袋を提げている光景があった。僕は目の前のテーブルにしか興味はなかった。

 「そう。でね、寝ているスイッチが押されると脳がお休みモードに入る」

 「ああ、それは聞いたことがある。眠りは身体を休めるためじゃなくて脳を休めるためなんだよね?」

 「そう。でもね、一ヶ所だけそのスイッチが働かない部位があるの」

 「どこ?」

 「感情を(つかさど)る部位」

 彼女は得意そうにフォークで切り分けたケーキの欠片を口に運ぶ。一口もらおうかどうかで僕は悩んでいた。

 「でもそれがどうしたの?」

 「だからね、私は眠っていても映画の内容を肌で感じたの」

 「本当?」

 「嘘だよ」

 納得のいかない僕は彼女のチーズケーキをさっとつまんだ。

 僕は口の中に広がる甘い香りに。

 彼女は不満げに。

 お互いの頬を膨らませた。

 

 

              *

 

 

 「ねえ」

 夜風がカーテンを吹き上げて涼しい空気が部屋に入ってきた。僕と彼女は食卓を囲んでいた。僕は少し緊張していた。嘘だ。すごく緊張していた。

 「なーに?」

 返事をしながらも、彼女は僕の話よりも冷奴に添える生姜の配分に悩んでいるようだった。二人とも点けたTVはほとんど見ていない。

 「結婚しない?」

 風が止んで、めくれたカーテンはふわりと着地した。彼女は醤油をかける手を止めてじっとこっちを見た。

 「いいよ」

 「本当?」

 「嘘だよ」

 彼女は正直な嘘つきだ。

 興奮して思わず立ち上がりかけた僕はなんだか気が抜けてそのままぼーっと立ち尽くしていた。

 「醤油使う?」

 「使う」

 座りなおして、彼女からガラスで出来た醤油の小分け瓶を受け取る。つるりと光る絹豆腐に少しだけ垂らした僕は、ミョウガを用意して良かったなと思ったし、彼女もそう思っているかもしれない。

 

 

 TVのニュースではアフリカに頻発する紛争問題を取り上げていた。彼女は椅子の上にあぐらをかいて、新聞のテレビ欄を睨んでいる。

おわり

 

 

 

スノーマン・リベンジ

 

 その日、美和子が彼の部屋にあがるとソファーの向きが変わっていた。

 「ファソー」と呼んでくれ、と彼は言った。

 彼の言う「ファソー」は座ると壁側を見つめるような向きに模様替えされていた。

 こういうところが嫌なのよ、と美和子は心の中でため息をついたがそれを外に出さないように努める自分までは自覚できないでいた。

 そんな我慢をするのも今夜が最後、と決めていたからかもしれない。

 彼女は今夜、別れを告げるために彼の部屋に来たのだ。

 「何か飲む?」

 「いらない」

 彼女がもはやソファーではなくなってしまったファソーに腰かけてみると白い壁紙しか視界に入らなくなった。

 なるほど、これはこれでいいかもしれないが、彼の唐突すぎる試みを認めたくもないのであえて仏丁面になることにした。

 「あれ、ちょっとブスになったか」と後ろのほうで声がした。

 余計なお世話だ。

 

 

 二人が交際を始めてから丸5年が過ぎようとしていた。

 最後に二人きりで出かけたのは半年前のこと、品川水族館に行った。

 彼はサメばかり追いかけていた。

 最後にセックスをしたのが3か月前、連絡は1週間に1度とればマシなほうなのかもしれない。

 数字は良い、いろんなことが客観的に見てとれる。

 「いちおう、紅茶入れたけど」と、また後ろで声がした。

 いい加減、仏丁面をするのも疲れたのでソファーから離れ、カーペットに座ってテーブルに置かれたブルドックの絵柄つきマグカップを一口すする。

 「ぬるい」

 「だって美和子は猫舌だろ」

 今度は彼女は見せつけるように盛大にため息をしてみせた。

 まったくもって余計なお世話だ。

 「お手洗い、借りるよ」

 「出て、すぐ右だから」との言葉に、「知ってるよ」と返す。

 「説明しなきゃいけないほど広い部屋でもないくせに」

 彼女は個室のドアを締めて鍵をかけ、デニムパンツのまま便器に座る。

 別に用を足したかったわけではないのだ。

 ――さて、いよいよ話をしなければ。

 別れはいつだって訪れるものだ。

 自分から別れを切り出すのであれば、それを彼に告げる責任が美和子にはあった。

 それは下校途中にわざわざ寄り道してつくった雪だるまがやがて溶けて消えてなくなるまで、毎日のように寄り道して見届けようとする行為にも似ていた。

 彼女は昔読んだ雪だるまの絵本、スノーマンの話を思い浮かべた。

 最後は溶けてしまう雪だるま。

 悲しきスノーマン。

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 「よし」

 決意を新たに彼女は水洗式トイレのバルブをひねった。

 ジャァと水の流れる音がしている場所をぼんやりと眺めていると、そこにキラリと光るものを見た。

 「あ」と短く叫んだときにはもう遅かった。

 左耳に手を添えると、案の上あるはずのピアスがそこになかった。

 身を屈めた拍子に外れてしまったらしい、なんてついてない。

 「サイテー」と部屋に戻りしな、彼に言った。

 「どうかした?」

 「ピアス、落っことしちゃった。ちょっと気に入っていたのに」

 「トイレに?」

 「トイレに」

 彼は少し考える仕草をしてみせたかと思うと、うんうんと二、三度うなずいてから口を開いた。

 「たぶん大丈夫だよ」

 「無理よ。それに万が一、取り出せたとしても一度下水に浸かったものを身につける気にはなれない」

 「たぶん」

 大丈夫だよ、と彼は言った。

 大丈夫じゃないでしょ、と美和子は言った。

 

 

 数十分後、二人は近所の商店街にいた。

 アーケードの中ほどにある小さな和菓子屋にて、彼はきんつば(・ ・ ・ ・)をふたつ買った。

 せっかくだから、と彼は言った。

 せっかくだからじゃないでしょ、と彼女は言った。

 お会計の際、初老の女性店員が無言でカウンターの中に何かを置いた。

 あ、と思わず彼女は叫びそうになるのをこらえた。

 それは先ほど落としたはずのピアスだった。

 彼も無言でそれを受け取り、あくまできんつば(・ ・ ・ ・)を包んでくれたぶんだけのお礼を言って店を出た。

 美和子は慌てて後を追った。

 

 

 「どういうこと?」

 部屋に戻ってきんつば(・ ・ ・ ・)を頬張りながら美和子は訊いた。

 きんつばのほのかな甘みさえ、こうなってくると納得いかなくなってくる。

 「わからない」というのが彼の答えだった。

 「とにかくこの部屋で何かを失くすと、あの店にそれがあるんだ。それに何かを買わないと店員さんもそれを返してくれない。何かしら買えば必ず戻って来る。理由はわからない。僕にも、きっとあそこの店員さんにも。そういうものだって納得するしかない」

 「失くしたものが戻ってくる」

 「そう、それに失くしたものでないといけない。例えば夕食用に刻んだキャベツが今はもうないからといって、あの店に戻ってくるかというとそうでもない。あくまでも意図的でなく、失くしたものでなければ戻ってこないらしい」

 納得するしかない。

 美和子は納得できなくて、不貞腐れたようにファソーに座った。

 白い壁しか見えなかった。

 ――彼がこの部屋でアタシを失ったとしたら。

 アタシはあのお店に戻されることになるのだろうか、いや、ありえない。

 結局その日、別れを切り出すタイミングを逃してしまうこととなった。

 

 

 そして次にそれを言うタイミングが来ることは二度となかった。

 「溶けない雪ダルマもあるみたい」

 「ん、何か言った?」

 「何でもない」

 彼女はソファーに座ってぼんやりとテレビを見ながら返事をした。

 あれからすぐに彼は「ファソー」の向きに飽きてしまい、それは「ソファー」へと戻ることになった。

 あの日以来、何か失くしたものがあるわけでもなく、和菓子のお店には足を運んでいない。

 たぶんだけど。

 あの現象はもう二度と起こらないような気がした。

 もうアレはその役目を終えてしまったのだ。

 だからもう起きやしないのだ、決して。

 そう、そういうの、何て呼ぶんだっけ。

 奇跡?

 いやいや、まさかね。

おわり

 

  参考及び引用

   『スノーマン』(レイモンド・ブリッグズ、評論社・1998年)

 

 

 

その姉弟がハットトリックを決める難易度

 

 ユカが一人暮らしを決意してから2年が過ぎようとしていた。

 決して有名ではない短大卒のOLという、どこにでもいそうな肩書きをもつ23歳の彼女には9つ年の離れた弟がいる。

 正直な話、かわいいと思ったことがない14歳のその少年はユカと似ておでこが広く、笑うと猫みたいに唇の端に三日月型のカーブを描く。

 ――君は日本一、不幸な少年なのかもしれない。

 女性ならばチャーミングに見えなくもないそれらの特徴を幼顔の男の子が身に纏うとなるとどうしてなかなか滑稽なものに見えてしまう。

 まあ同情こそすれ、さりとて愛着が増すものでもない。

 

 

 「ちょっと姉ちゃん、いま本田が蹴るところだろ」

 ユカがテレビのチャンネルをニュースに変えたとたん、それまで黙ってテーブルに肘をついていた弟が文句を言う。

 「ホンダだかトヨタだか知らないけど、ボールなんかいつでも蹴ってるんだからいいでしょ」

 「姉ちゃんはサッカー知らないからそう言うんだよ」

 その言葉を無視して彼女は明日の天気をチェックする。

 どうやら明日も暑くなるらしい。

 通勤電車の中でまた地獄のようなサラリーマンたちの汗臭さに耐えなければいけないことを考えると憂鬱になる。

 「姉ちゃんもういいだろ、早く。本田が」

 うるさい、と癇癪を起こしそうになるがここで怒鳴ってしまうとイジけていつまで経っても風呂に入らないというとても面倒な状況になるので、素直にチャンネルをサッカー中継番組に戻す。

 3日前は妖怪ウォッチというゲームの景品が品切れになっている事実に、コンビニエンスストアという公衆の場で涙目になっていた。

 幼すぎる、と我が弟ながら不憫に思う。

 アタシが一緒に暮らしているせいだろうか、とも思う。

 いや、世の中の姉弟すべてがこのような図式で生活しているわけではないだろう。

 きっと立派な弟だって存在するはずだ。

 

 

 「あああ」

 落胆した弟とテレビに映る映像が、どうやらホンダのキックが失敗したらしいことを意味した。

 そういえばどこかの作家が「この広い世界には、子供と両親が終始良好な関係を保っている美しく幸福な家庭だって――だいたいサッカーのハットトリックくらいの頻度で――存在する」と書いていたのをユカは思い出した。

 サッカーは知らないが、どうやらハットトリックというのは相当難しいのだろう、とその文章を読んでなんとなくそう思ったことを憶えている。

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 「ねぇ」

 「なんだよ」

 「ハットトリックって難しいの?」

 「はぁ? なんだよ急に」

 「いいから教えてよ」

 「そりゃ難しいよ、めちゃくちゃにね」

 ふーん、と興味のなさそうな返事をわざとしてやると、答えた当の本人は怪訝そうな表情を一瞬浮かべたが、またすぐテレビのほうへ顔を背けてしまった。

 やっぱりかわいくない。

 

 

 居間にいても面白いこともないので部屋に戻る。

 壁は薄いがいちおう姉と弟それぞれ部屋は分けられている。

 最近、弟の部屋の前を通り過ぎるたびに鼻につく精液の臭いが気持ち悪い。

 「2年か」

 一人暮らしをするのとハットトリックをするのとではどちらが難しいのだろうか。

 居間に戻ってかわいくない弟に訊いてみようかとも思ったが、やっぱりやめた。

 「うるせぇよ姉ちゃん」と言われるのがオチだ。

 「姉ちゃんはうるさいものなんだよ、弟よ」

 ひとりごとを言ってみる。

 部屋の電気を点けないままで自分の貯金通帳に刻まれた数字を確認する。

 ハットトリックを決める準備はできている。

 うるさい姉ちゃんがいなくなって寂しがるなよ。

 弟よ。

おわり

 

 

 参考及び引用

  『女のいない男たち』 著・村上春樹(二〇一四年 文藝春秋)

(第10回 了)

 

 

* 『僕が詩人になれない108の理由あるいは僕が東京ヤクルトスワローズファンになったわけ』は毎月24日に更新されます。