今月1日にアップした『金魚詩壇 討議&インタビュー No.006 安井浩司 永田耕衣を語る』関連コンテンツです。鶴山裕司さんの『No.004 安井浩司〈前衛俳句論〉(中編)』をアップしました。中編では主に加藤郁乎について論じておられます。

 

 読めば誰でもわかることだが、郁乎の『えくとぷらすま』は形式的にも内容的にも、もはや従来の文脈で言う句集(俳句)ではない。郁乎本人が『えくとぷらすま』を句集だと宣言しない限り、句集と認知することはできないのである。また読者(俳人たち)の認知も必要である。同時代のほとんどの俳人が、即座に『えくとぷらすま』を句集だと認めたのは驚くべき事態である。郁乎の『えくとぷらすま』によって俳句文学は、ある意味で自我意識文学の極北である自由詩と同等のレベル(「真の前衛風景」)にまで達したと言うことができる。

 

と、鶴山裕司さんは批評しておられます。俳句のモダニティは自我意識とのせめぎ合いによって生じたわけですが、それを一身に担ったのが前衛俳句運動だといふのが鶴山さんの論旨です。スリリングな批評は下編に続きます。じっくりお楽しみください。

 

 

【安井浩司 永田耕衣インタビュー関連論考】『No.004 安井浩司〈前衛俳句論〉(中編)』 ■