Interview:安井浩司

yasui_kouji_cover_02

安井浩司:昭和11年(1936年)秋田県生まれ、能代高校卒。高校生の時、青森高校の寺山修司、京武久美編集の10代の俳句同人誌「牧羊神」に参加。昭和34年(1959年)、永田耕衣主宰の結社誌「琴座」に同人参加。昭和39年(1964年)より高柳重信主宰の「俳句評論」同人。昭和48年(1968年)、加藤郁乎、大岡頌司らと俳句同人誌「ユニコーン」を創刊。俳壇と距離を取り、徹頭徹尾、俳句を〝文学〟として考え、その可能性を探究し続けている希有な俳句作家。作品集に『増補 安井浩司全句集』、全評論集『安井浩司俳句評林全集』がある。現在十七冊目の新句集を執筆中。

 

安井浩司氏は前衛俳人として知られるが、高柳重信系前衛俳句の代名詞である〝多行俳句形式〟に対しては若い頃から一貫して批判的である。実際、安井氏は一度も多行俳句を書いておられない。それは安井氏の師・永田耕衣から受け継がれた、重信系前衛俳句とはまた質の異なる俳句文学の前衛性であり、〝俳句の根源〟を探求しながら新たな表現領域を模索する姿勢である。今回は永田耕衣文学についてお話しをおうかがいし、最新句集『宇宙開』以降の安井文学についても語っていただいた。

文学金魚 詩部門アドバイザー 鶴山裕司 (インタビュアー)

 

 

■前衛俳句の総括について■

 

鶴山 『永田耕衣俳句集成 而今(にこん)只今(しこん)』は一巻本で出版されているんですね。

 

安井 ああ、これは最近出版されたんです(二〇一三年九月二十日 沖積舎刊)。栞を書いたものだから、沖積舎さんから送られてきました。中身の方は、すでに『而今』、『只今』の分冊で刊行されているわけですが。

 

鶴山 安井さんにお会いするのはほぼ一年ぶりですが、今回は安井さんの師・永田耕衣さんについてお話しいただければと思います。安井さんには過去二回、【大岡頌司 没後十年記念】 安井浩司、大岡頌司を語ると『【『安井浩司俳句評林全集』出版記念】俳句と批評について』というテーマでお話しいただきました。大岡頌司さんについては、今年に入って大岡さんの唯一のお弟子さんである酒卷英一郎さんにもインタビューさせていただきました。酒卷さんのインタビューのコピーは届きましたか。

 

yasui_koui_01

『永田耕衣俳句集成 而今・只今』

沖積舎

平成二十五年(二〇一三年)発行

 

安井 今日の午前中に届いて、急いで一回だけ目を通しました。あなたとお話しした時に、私がインタビューでお話しした内容に、多行俳句の実践者の方たちから反発があるんじゃないかと予想しましたが、まあその通りになりましたね(笑)。でもよかったんじゃないかな。いろんなことを考えるきっかけになると思いますから。

 

鶴山 僕もそう思います。昨年は『安井浩司俳句評林全集』が出るということでインタビューさせていただきましたが、本は実際にはインタビュー後に出版されました。『評林全集』は通読しましたがやはり面白かった。多行俳句や今日のテーマである永田耕衣さんにもつながりますが、安井さんが高柳重信死去直後にお書きになった『高柳重信の世界』(昭和五十八年[一九八三年]初出)あたりで、前衛俳句の総括はほぼ終わっているのではないかと思います。安井さんは重信俳句を文字通り「敗北の詩」として捉え、加藤郁乎の『えくとぷらすま』について、「近代の叙述様式から、なお一歩、念願の虚構完体に接近した」と論じておられる。それはまったくその通りだと思います。

 

安井 でも当時の私には、はっきりした結論に向かって書くといった意識はなかったですよ。

 

鶴山 だけど前衛俳句の渦中にいて、高柳さんや加藤さんの試みの限界を、ある程度正確に予測できていたのは安井さんだけだと思います。

 

安井浩司(評論集)_003

『増補 安井浩司全句集』

沖積舎

平成二十一年(二〇〇九年)発行

 

安井 高柳さん自身が「敗北の詩」という言葉を使っていたわけでしょう。これについては当時から、皆さんいろいろ意見があったわけです。ただ「敗北」という言葉を、真正面から捉えて書くことはなかなかできなかった。重信文学のポイントを「敗北」に置いて、それに接近しようとする人は、私が見る限りいなかったな。やはり重信さんへの遠慮があったんです。私は本人がそう言っている以上、何か意味があるんだろうと考えて、その秘密に迫りたいと思って「敗北」をキーワードにした高柳重信論を書いたわけです。あれによって、完全に重信文学の秘密を暴いているわけではないけれども。

 

鶴山 だいたい暴いていると思います(笑)。

 

安井 そうかなぁ(笑)。でも暴くとなれば、どうしても次のステップが必要になります。「敗北」の次のステップは何なのかということを、仮説であるにせよ自分の中で用意しないとそういった批評は書けないし、書いてはいけないですよね。当時それをはっきり掴んでいたわけではないですが、漠然としたものであれ、次のヴィジョンのようなものを予測したんでしょうね。それは私の夢みたいなものだろうけど、振り返ってみると、なにかそういった気がします。

 

鶴山 そうですね、批判のための批判になってしまうと意味がないです。

 

安井 当時は自分自身が、少し俳句に対して自信を持ってきた時期でもあったんです。優れた仲間からの刺激もありましたね。加藤郁乎や大岡頌司君もいたし、河原枇杷男君の仕事も高く評価していました。それに耕衣先生が、「敗北の詩」という思想では決して捉えられない、爆発的な創造力を内外に示し始めた時期でもありました。そういう状況が全部まとまって、自分を鼓舞してくれたんじゃないかなと思います。

 

yasui_koui_02

 

鶴山 全部ではないですが、多くの詩人は言葉を自分にとって都合のいい〝喩〟に転換してしまう悪い癖を持っています。重信は「敗北」とはっきり言ったわけで、これは戦いを挑んでも負けるだろうという彼の予感を示しています。重信さんは多行俳句を中心とした前衛俳句の戦いは、負けるだろうと予測していたと思います。ただ彼は次のステップを模索していました。長生きされたらそれが明らかになったかどうかはわかりませんが、重信さんの試みが、途中で終わってしまったのは確かだと思います。

 

安井 高柳さんは耕衣先生と並ぶ私の先生ですから、こういうことを言うと失礼になるかもしれませんが、前衛俳句が「敗北」に終わるかもしれないという予感めいた言葉は、彼がまだ「俳句研究」の編集をやっていた頃から洩らしていましたよ。一杯飲みながら、ちょっと泣き言めいたことを言っていました。ただ俳句作品に集中すると、高柳さんも加藤さんもじょじょに崩れが見え始めるんだな。耕衣先生だけが、最後まで崩れなかったです。

 

 

■永田耕衣について■

 

鶴山 僕は『永田耕衣俳句集成』は二冊本で持っていて、今回、安井さんに耕衣さんについてお話しいただくということで、『而今(にこん)』と『只今(しこん)』を読み直しました。後期の『只今』の方が圧倒的に面白かった。若い頃は自分に名句を求める目がありますし、耕衣さん自身も名句を詠もうとして詠んだという気配があります。でも『只今』はそういった名句意識を超えている。

 

安井 耕衣先生も若い頃は、なにか俳句に対して遠慮してるようなところがあったのかな。俳句に対して敬意を払い過ぎていたのかもしれません。

 

鶴山 耕衣さんは後期になると無茶苦茶でしょう(笑)。この俳人は尋常じゃないということがはっきりわかります。前期と後期、どちらが面白いのかと言えば、一人の俳句作家としては圧倒的に後期の『只今』ですね。

 

安井 百パーセントそうだと言い切る自信はありませんが、私も耕衣先生の後期俳句の方が面白いと思います。だいぶ前に『歳月の方法 永田耕衣論』(昭和四十八年[一九七三年]初出)を書きました。全句集『非佛』が出た時に書いた評論ですが、その中で「永田耕衣は、歳月の妙法を心得ている絶妙な、春の暮の仙人であり、また、カスミを食うとみせかけて、鯛を啖ったりビールを楽しんだりしていて、どうして絶対に、歳月においても、精神においても〈死〉とは無縁の詩人である。彼は、刻々と自己(・ ・)を捨て、刻々と自分(・ ・)を手に入れてきた。反復即創造とは、あまりに耕衣の胃袋的な弁証の技法であった」と書きました。耕衣先生は、晩年になるにつれて自在郷が旺盛になりました。好きなように俳句を書いたわけです。

 

鶴山 初期の耕衣さんを読むと、変わった俳人だなぁとは思いますが、すごく変わっているとは感じないです。ただ同時代の俳人たちは、耕衣さんの王道を歩むようでいて、本質的にそれを外れてゆくような資質をちゃんと感受していたんじゃないでしょうか。西東三鬼などは、耕衣さんに批判的だったわけでしょう。

 

安井 耕衣先生は三鬼に対して直接的には批判めいたことを書いていませんし、大人になってからの節度ある付き合いでしたが、決して馬が合うという間柄ではなかったかな(笑)。ただ耕衣先生は三鬼的なあり方については、どこかで違和感というか、批判的な感覚を持っておられたと思います。

 

No.016_BOOKレビュー_01

『安井浩司評林全集』

沖積舎

平成二十六年(二〇一四年)発行

 

鶴山 耕衣さんはあまりポレミックな方ではなく、他の作家をはっきり批判されることは少なかったですね。でもどうも同時代の俳人たちから煙たがられていた気配があります(笑)。

 

安井 それはねぇ(笑)。だって富澤赤黄男からして、「耕衣はどこかいぶかしい」という意味のことを言ってたでしょう。重信さんは「俳句評論」を立ち上げる時に、いの一番に耕衣先生を特別同人として迎え入れました。あれは富澤赤黄男は、ちょっと気になったんじゃないかと思います。耕衣先生は、当時の新興俳句に対して、あまりいい発言をしておられなかったですしね。確か「新興俳句はキザだ」って言ったのかな(笑)。

 

鶴山 ただ安井さんは耕衣さんの弟子だったから、重信の新たな俳句形式(多行俳句)を中心に据えた前衛俳句運動に、批判的な目を持てたんじゃないですか。酒卷英一郎さんとお話しした時に、前衛俳句には重信と金子兜太の流れがあると総括しておられました。言語派と社会派(内容派)の区分けだと理解したんですが。

 

安井 重信の前衛俳句は、言語派というよりも、モダニックな美意識に支えられた俳句運動だったような気がします。

 

鶴山 自由詩の世界になぞらえると、「荒地」派が重信系で、「列島」や新日本文学系が金子さんの社会性俳句系に近いのかなという気がするんですが。

 

安井 私らが自由詩の世界を外から見ると、「荒地」派の方が金子兜太の社会性俳句に近い気がします。

 

yasui_koui_03

 

鶴山 ああなるほど。社会性俳句は、社会と作家(私)の対峙を重視した文学運動だったということですか。ただ社会性俳句は形式よりも表現内容を重視した運動だったのかもしれませんが、詩のように短い表現の場合、時間が経つと表現内容が、具体的に何とつながっていたのかわからなくなってしまう面がありますね。

 

安井 いや、そういった政治的な社会性とも、ちょっと違う面を金子さんの社会性俳句は持っていた。当時の社会性俳句は非常にポピュラーで、みんなが飛びついて実践してみようとするような、大衆的で親しみやすい文学形式であり、内容表現だったんです。ところが高柳重信が始めた新興俳句系の「薔薇」は、非常に自尊心が強くて、俳句の意味内容はよくわからないけど、高邁な理想のようなものを表現しようとしていた。だから当時の俳壇では、重信さんたちの「薔薇」などに惹かれる人は非常に少なかったです。現在よりもさらにマイナーな存在としてしか認知されていなかった。ただ私や大岡頌司は、一般受けする俳句世界はどうしてもイヤだったんだな。だから重信さんの方に行くのは半ば必然だったんです。

 

鶴山 特に若い頃はそうですが、作家は新しい表現形式に惹きつけられがちです。当時、重信さんの前衛俳句が魅力的だったのは、今振り返ってもよくわかります。でも耕衣さんの俳句は、基本的には従来の俳句形式の中に留まりながら自在でした。そういう世界を若い頃から見ておられた安井さんには、重信系の前衛俳句の限界がわかったんじゃないでしょうか。

 

安井 そうねぇ(笑)。でも原点を確認しておくと、多行俳句を初めて意識的に実践したのは高柳重信だからね。

 

鶴山 安井さんは「重信即多行俳句」と書いておられますね。

 

安井 高柳重信の周りには、私を含めた若い俳人がたくさんいたわけですが、一杯飲むと、重信さんは必ず「俳人はぞれぞれ、自分詩の中に、自分独自の様式を持たなければならない」と言っていました。漠然と今までの俳句を繰り返していたんじゃダメだということです。実際重信さんは四行で俳句を書いたわけですが、若い俳人たちは、言葉はちょっと悪いけど、重信さんのそういった思想や実践に、すごく踊らされてしまった部分があると思います。大岡頌司君はもちろん、寺田澄史や志摩聡も、それぞれに表記法を工夫したわけです。表記法を工夫するのが悪いとは言わないけど、ちょっと急ぎすぎたんじゃないかなぁという気がします。大岡君は三行で俳句を書き、一行に戻り、最後は四行で書いたわけですが、それを見ていても、重信さんの思想や方法を取り入れるのに、性急過ぎたような気がします。もちろん大岡君は三行で俳句を書いて、それなりに面白い世界を作ったわけですから、それはそれで素晴らしいことだと思いますけどね。ただ私が求めた俳句世界とはちょっと違うな。

 

鶴山 耕衣さんの遺伝子が〝ちょっと待てよ〟と言ったんですよ(笑)。

 

安井 そうなんだろうな(笑)。

 

 

■俳句の故郷について■

 

鶴山 大岡さんもそうですが、本気で多行俳句にのめり込んでいた時期の俳人たちの作品は面白いです。ただ続かない。継続的に、しかも自在に書いてゆくことができない。それは俳句作家にとってはとても辛いことです。ちょっと乱暴な言い方になりますが、俳句は結局は五七五に季語の形式に戻るでしょう。これについては議論の余地がなくて、誰が考えてもそうなると僕は確信しています。それに対して重信さんのようにマイナスの面を作る、あるいはプラスの面を作ることもできると思いますが、結局は俳句の原点に戻ってくると思います。形式や内容面でのプラス・マイナスを作ってその強度を試そうという試みは、やはりそれぞれの俳句作家にとって、一回限りの試みで終わるような気がします。

 

安井 耕衣先生は「俳句には故郷(ふるさと)がある」と書いておられます。俳人である限り、その故郷を消すことはできないし、結局はそこに帰らざるを得ないんだという意味のことを再三書いておられる。じゃあその故郷ってなんだということになると、面倒くさい議論になってしまうけど、俳人であれば、俳句の故郷が何であるか直観的にわかると思います。

 

yasui_koui_04

 

鶴山 俳句界ではこのところ目立った流行(トレンド)はないですが、短歌界では口語短歌が全盛期を迎えています。穂村弘さんらを筆頭に、俵万智さんよりもさらにゆるい口語短歌が主流になっています。今に始まったことではないですが、短歌は俳句に比べて形式的にゆるい文学です。現代の口語短歌を読んでいると、これは本当に短歌なのかなぁと思って指を折って数えてしまうんですが、ちゃんと五七五七七になっていたりする。うまいもんだなぁと思いますが、さらっと読んだ時は、短い自由詩というかアフォリズムですね(笑)。

 

安井 口語短歌に限りませんよ。俳句界でもこれが俳句なのっていう作品が増えています。そういった作品に対して誰も批判もしないから、どんどん〝俳句のような作品〟が、俳句界にクラゲのように漂い始めています。川柳と似たような感じの作品です。俳句じゃなくて、ちょっとした機知をひけらかした川柳でも平気なんだな。そういった傾向が俳句界には見られます。そんな作品でも、よく読むと五七五で季語があったりするわけです(笑)。

 

鶴山 ただ短歌には、〝短歌霊〟のようなものがあるような気がするんですよ。一九六〇年代の現代短歌の時代からそうですが、作家が短歌霊さえ掴んでいれば、形式は崩れていてもかまわないという傾向がありました。でも俳句は〝俳句霊〟と〝形式〟が一体化していると思います。五七五に季語の俳句定型を外すにしても、それもまた形式の内じゃないでしょうか。耕衣さんの作品を読んでいてもそう思うんです。耕衣さんは言葉と思想が一体化しています。すごく説明しにくいんですが、特定の思想があるのかと言えばない。言葉と形式が、そのまま思想になっているようなところがあります。

 

安井 それが立派なんだよ(笑)。俳句を形式と内容(思想)にはっきり分けることはできないけど、なにか俳句の骨格のようなものが、耕衣先生の中で明確にできあがっているんです。その骨格に、永田耕衣という作家の肉や血管を複雑に添わせてゆくんだな。まず俳句の骨格があるんです。

 

yasui_koui_05

安井氏書斎に置かれた永田耕衣墨書作品と写真

 

鶴山 耕衣さんは後期になると意識的に連句を試み始めますが、あの展開の仕方は無茶ですねぇ(笑)。

 

安井 あれを読むと、どうしたらいいのかなと思うでしょう(笑)。私も最初に読んだ時に、困ったな、どう扱っていいのかなと思いましたもの。でもそれがまた読ませるんだな。次から次に読ませてしまう力を持っている。結局はこちらは読者にならざるを得ないところがあります。学びたい力を持っていますね。

 

鶴山 耕衣さんは「雲古(うんこ)」という単語がお好きでしきりに使っておられますが、ウンコのように言葉を吐き出さなければ俺は終わりだといったような感じです(笑)。マンネリズムだと批判できないこともないんですが、ああいった形で言葉を紡ぎ続けられたのは、耕衣さんと西脇順三郎さんだけじゃないでしょうか。

 

 

■東洋的無について■

 

安井 私もそう思います。何かの評論で書いたことがあるけど、耕衣先生と西脇さんの二人だけが、晩年の風景ができあがっていると思います。やっぱり仏教的というか、東洋的な無の思想のようなものが彼らの文学を支えているのかな。道元とか白隠とかね。それはあの世代の特徴かもしれません。西東三鬼に「枯蓮のうごく時きてみなうごく」という句があるでしょう。これはすごい句だと私は思っているんです。ただなぜすごい句なのか何十年も考えているんだけど、まだ掴みきれない。技術的に言えば「うごく」が二重になっていて、それはどうかなという意見があるかもしれないけど、そんなことは関係なく、この句にはどんな作品も寄せつけないような存在力があると思います。ところが最近耕衣先生の文章を読んでいたら、三鬼の「枯蓮」の句を取り上げていたんです。耕衣先生は一撃の下にこの句を読み解いておられる。この句は仏教的な世界観によって支えられているんだと書いておられるんですね。そうかぁ、永田耕衣はそうやって読むんだなぁと思いました。

 さあ、そうすると、長年三鬼の「枯蓮」の句を読みあぐねている安井浩司はどうなんだって考え込んでしまいますね(笑)。三鬼の「枯蓮」の句で表現されているのは虚無ではない。でも誰にも何も言わせない、すべてゼロに還元してしまうような力がこの句にはある。もし本当に俳句を書くなら、そういうふうな俳句を書かなければならないと思います。ぐちゃぐちゃ言っちゃいけないんだよと思うんです。でもどうやってこの世界に到達すればいいのかわからない。だからちょっと悩んじゃっているんです(笑)。この句をすべて禅的な無で読み解いてしまうと、耕衣先生の亜流になっちゃうしね。

 

yasui_koui_06

 

鶴山 耕衣さんは教師であり反面教師でもありますからね(笑)。耕衣さんに学ぶべき点は多いですが、耕衣的な無の思想はほぼ彼一人だけのものです。耕衣さんに倣って無とか道元とか言い出すともう危ない。安井さんは「耕衣の文学に思いを寄せた瞬間から、その人は捨てられるのである」と書いておられますが、それはまったく正しいと思います(笑)。

 

安井 耕衣先生の弟子になった瞬間から、弟子は捨てられるんです(笑)。また捨てられたと思った方が、耕衣先生の文学をよく理解できる。

 

鶴山 ただ世代的なものがあるんでしょうかね。耕衣さんも西脇さんも、彼らがとらわれていた東洋的無のようなものを、一切説明していないんです。説明しても説明になっていない。

 

安井 説明できないんだろうな。でもそういうものは確かにあるんだと思います。私自身も、そういった説明できないぼんやりした無のようなものを、掴もうとしてまだ掴み切れていないという実感があります。去年、『宇宙開』(平成二十六年[二〇一四年]三月 沖積舎刊)という、ちょっとキザなタイトルの句集を出しましたけど、宇宙と言っても今流行の宇宙論とかそういうものではなくて、言い当てられないものを何とか表現したいと思って付けたタイトルなんです。そういった掴みきれない何かを求め続けている限り、私もまだ俳句を書くことを許されているのかな、という思いはありますけれど。

 

No.014_BOOKレビュー_01

安井浩司最新句集『宇宙開』

沖積舎

平成二十六年(二〇一四年)発行

 

鶴山 耕衣さんの無は撞着的でしょう。「ある」と書くと、次の瞬間には「ない」と書きたがる(笑)。

 

安井 じゃあほんとうに「ない」かと言うと、どうしようもない何かがそこに「ある」んです。「雲古」なんて下世話な物だけど、それが大変な世界であったりするわけですからね(笑)。

 

 

■俳句「第二芸術論」論について■

 

鶴山 安井さんの初期に、『もどき招魂』という重要な評論集があります(昭和四十九年[一九七四年] 端渓社刊)。安井さんの俳句と評論がぴったり一致しているわけではないですが、安井さんにはどこかで俳句と一体化しなければならないという意識があったように思います。でも耕衣さんはそういう手続きがなくて、ご自分は俳句そのものだと思っておられたんじゃないでしょうか。

 

もどき招魂

『もどき招魂』

端渓社

昭和四十九年(一九七四年)発行

 

安井 そうですね。私は俳句と自分の間に、何か埋めなければならない隔たりがあると感じていたけど、耕衣先生にはそれがないんだな。

 

鶴山 耕衣さんが、なんの前提もなく、俳句と一体化できた最後の世代かもしれませんよ。

 

安井 そうするとさっきの三鬼の「枯蓮」の句なんかも、三鬼と俳句が一体化した作品なのかな。作家と俳句作品の間に距離がないんだな。

 

鶴山 戦後の桑原武夫の俳句「第二芸術論」が、意外に当時の若い俳人たちに大きな影響を与えたんじゃないでしょうか。

 

安井 もちろんですよ。桑原さんの「第二芸術論」によって、俳句を作る側と俳句との間に、あっという間に距離ができてしまったと思います。だから当時の俳人たちは、自分と俳句の間にできた距離をどう埋めるのかを考えたと思います。それぞれが夢中になって仮説を作って距離を埋めていったんですね。高柳さんの前衛俳句(多行俳句)もそうですし、私の「もどき論」もその一つだったと思います。加藤郁乎の試みもそうですね。

 

yasui_koui_07

 

鶴山 ただいわゆる戦後の〝前衛俳句〟の流れは、安井さんで最後だと思います。俳句形式を変えることで新たな表現を産み出そうとした試みは、重信さんの多行俳句から郁乎さんの『えくとぷらすま』でほぼ尽きている。『えくとぷらすま』は俳句と呼べないような表現にまで達していて、あれはあれで魅力的ですが、どう考えても先はありません。異質だったのは永田耕衣系の流れで、俳句の根源をおさえながら新たな表現地平を模索した。安井さんは耕衣さんの弟子であり重信系の前衛俳人でもありますから、安井さんの作品を読むと、俳句伝統(根源)を踏まえて新たな表現を模索すると、どういった化学変化が起こるのかよくわかります。耕衣さんにはなかった未知の表現地平に踏み出す姿勢があるわけですが、それも安井さんと、同じく耕衣さんのお弟子だった河原枇杷男さんで一区切りかもしれません。根源俳句から前衛に至る表現の振れ幅が集約されているわけですから。

 

 

■河原枇杷男について■

 

安井 枇杷男の話しが出たから言うけど、私は今でも枇杷男の俳句が気になるんだな。ある意味、枇杷男の俳句に怯えているわけだけど、その理由を自分で考えると、結局永田耕衣に怯えているのかな、という気がします。枇杷男が耕衣を引き継いでいるから、彼の俳句に怯えるのかなと思うんです。

 

鶴山 それは僕にはよく理解できないです。

 

安井 だけどさ、私や大岡君、それに前衛俳句に携わった俳人を含めて、同世代で河原枇杷男に勝てる作品はあったかな。やっぱり枇杷男には勝てなかったんじゃないのかな。

 

鶴山 まさか。過大評価ですよ(笑)。枇杷男さんの俳句は、素人俳句愛好者からノンプロの俳人、それに小説家などを含めて確かに受けがいいです。でも枇杷男さんの俳句を継承することはできないと思います。

 

安井 それは私も同じで、自分の俳句を継いでもらいたいとは思わないです。だから弟子はいらないしね。

 

鶴山 それは伝統継承的な俳句文学において、唯一無二の詩人でありたいということですよね。そういった気概を含め、安井文学は継承可能な面を持っている。だいたいですね、作家は本質的に、書かなければ生きている実感が湧かない人間なんです。晩年まで書き続けられない作家は、その文学的方法論に決定的な欠陥があります。

 

安井 だけど河原枇杷男の名前を出すと、みんな死んじゃうようなところがあるんじゃないかな。安井浩司の名前を出してもあんまり死なないけどね(笑)。

 

鶴山 ちょっと気が弱くなっておられるんじゃないですか(笑)。ただ一貫した文学的姿勢を保てた世代は、これもまた安井さんや枇杷男さんの世代で終わりじゃないかと思います。俳句に限りませんが、短歌や自由詩、小説の世界でも、作家の輪郭がはっきりしていたのは一九八〇年代くらいまでだと思います。その後の世代の仕事の評価は流動的です。もしかすると一九八〇年代以降の作家の仕事は、将来の人たちから見るとすべて消え去るかもしれない。まだ試験期間中だとも言えますが、ずいぶん長い試験期間ですね。かれこれ三十年近く、何の決定的評価も下せないような流動的状態が続いています。もちろん詩人や小説家と呼ばれて現世を楽しく暮らしたいだけなら、こういった厳しい見方は不要なんですが。

 

安井 まあどんな作家でも、心の中に幻影の敵のようなものを抱えているわけだけどさ(笑)。だけど枇杷男は、うまく俳句の中庸のような場所で立ち止まったような気がするな。

 

鶴山 だって数冊しか句集を書いていないんですもの。あの冊数なら、ボロが出ないかわりに突出した凄みも出ませんよ。安井さんの仕事は質・量ともに枇杷男さんを上回っています。

 

安井 枇杷男に「野菊まで行くに四五人斃れけり」という句があるでしょう。あれは名句ということになっていて、私も盛んに名句だと持ち上げたわけだけど、実は耕衣先生の句を下敷きにしているんですね。耕衣先生の句に「四五人」があってそれを元に作ったんだな(笑)。

 

yasui_koui_08

 

鶴山 枇杷男さんは文字通り、途中で「斃れ」ちゃったような気がします。安井さんは『評林全集』で、耕衣さんの「夢見て老いて色塗れば野菊である」を引用しておられます。「野菊まで行くに」は名句かもしれないけど、それは枇杷男さん一人だけに収斂する句です。結局「野菊」まで行けなかったわけでしょう(笑)。否定形の文学は最後のところ弱いですよ。晩年まで書き続けて、すべてを「野菊である」と肯定しなくっちゃ(笑)。

 

安井 耕衣先生は関西弁からなにから、自在に俳句に取り入れることができるんですね。耕衣先生は九十七歳まで生きられたんだよな。そういう先生を持っているんだから、私ももう少し頑張って長生きしなきゃならないですね(笑)。

 

 

■安井文学の今後について■

 

鶴山 耕衣さんは「死を以て逃亡と為す葱の国」、「逃亡も夢なり夢なり葱の国」といった形で連句をなさいますね。いくらでも言葉が湧いてくる。また連句を行う俳人は多いですが、耕衣さんの場合、まったく見たという感じがしない。写生からものすごく遠いところで句を詠んでおられる。写生から遠いという点では安井さんも同じなんですが、耕衣さんは泥の世界で、『宇宙開』などが典型的ですが、安井さんはもっと透明な世界に行こうとしておられるように感じます。耕衣さんより観念的ベクトルが強いと言うのかな。

 

安井 観念という言葉が適切なのかどうかわかりませんが、耕衣先生の場合も、作品から観念を外すわけにはいかない。耕衣先生自身がおっしゃっていることですが、観念があることで救済される面が確実にあります。耕衣先生は生の現実の中に深みが生じるのは、確固たる観念があるからだと再三再四書いておられます。自分はそういう俳句を書くんだとね。

 

鶴山 観念と言っても俳句思想と言ってもいいんですが、現役で一貫した思想を感じ取れる〝俳句文学〟を書いておられるのは、ほぼ安井さんだけですからね。

 

安井 確かに周りを見回しても、刺激や叱正を受けるような友達がいなくなってしまったなぁ。それは俳句の世界だけじゃないですね。前衛という意味では、私たちにとって現代詩は先生のような存在だったわけだけど、最近ではアンテナに引っかかってくるものがなくなってしまった。現代詩はだいじょうぶなのかな(笑)。

 

鶴山 だいじょうぶじゃないです(笑)。日本には短歌、俳句、自由詩の三つの詩のジャンルがあって、なぜか自由詩のプレステージが高かったです。それは自由詩が無茶な前衛的実験を繰り返して、新たな表現地平をこじ開けてきたからですね。でも現代詩と呼ばれた自由詩の時代もまた終わってしまった。前衛であり続けることができなければ、自由詩は短歌、俳句に比べて、読者も実作者も圧倒的に少ないマイナーなジャンルになってしまう。前衛であり続けることができなければ、自由詩はかなり危うい状況に立たされるでしょうね。

 

安井 現代詩が戦後の詩の前衛を牽引して来たのは事実だから、また新しい動きが現れるんじゃないかと、今でも期待はしているんですけどね。

 

鶴山 抒情詩は普遍的なものだけど、自由詩のアイデンティティはやはり各時代の前衛性にあると思います。でも自由詩の世界でも現役の前衛詩人がほとんどいなくなってしまった。短歌、俳句、自由詩のジャンルを問わなければ、安井さんが最後の前衛かもしれない。

 

安井 私はこれからどこに向かって進んでゆくのか、自分自身でもよくわかりませんけどね。米代川の河口付近で生まれたので、たゆたって海に流されてゆくのかもしれませんよ(笑)。

 

yasui_koui_09

 

鶴山 ああ、そういう原体験は大きいかもしれませんね。最近、安井さんの句には「父」がよく登場します。中期の『密母集』あたりは「母」がすごく多かったわけですが。

 

安井 ちょっと遠慮してたんだけど、今は書くようになりました。なぜなのかということはうまく説明できませんけど、平気で「父」と書けるようになってきた。

 

鶴山 「父」は書きにくかったですか。

 

安井 うん、書きにくかったです。何か書いてはいけないような感覚がありました。でも最近、「父」を書くことで、かなり救済されるような部分を自分でも自覚するようになってきたんです。今まで、親父の書を掛けたことがなかったけど、最近、床の間に掛けて眺めるようになりました。親父は俳人で書家だったですから、親父の書を掛けて対話しているんですよ。親父も悩んでいたことは悩んでいたんだなぁとか思ったりします(笑)。親父は私の俳句の師ではありませんけどね。

 

鶴山 最新句集『宇宙開』の最後の句は、「消えるまで沙羅(シャーラ)を登りゆくや父」ですものね。『宇宙開』は『汝と我』(昭和六十三年[一九八八年])から続いた『句篇』六部作最後の作品集ですが、そうすると次の句集で安井さんはまた大きく変わるかもしれませんね。新句集のタイトルはもう決まっているんですか。

 

安井 決まっているけど、まだ秘密です(笑)。

 

鶴山 非常に楽しみです。今日はどうもありがとうございました。

(2015/08/12)

 

 

c‘縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。

 

 

 

 

安井浩司「俳句と書」展 【バーゲンブック】 増補 安井浩司全句集

 

 

 

■ 予測できない天災に備えておきませうね ■