ショートショート_No.009_cover_01「詩人と呼ばれる人たちに憧れている。こんなに憧れているにもかかわらず、僕は生まれてこのかた「詩人」にお会いできた試しがない。・・・いつか誰かが、詩人たちの胸ビレ的何かを見つけてくれるその日まで、僕は書き続けることにする」
辻原登奨励小説賞受賞の若き新鋭作家による、鮮烈なショートショート小説連作!。

by 小松剛生

 

 

 

 

気まずいポテトサラダの作り方

 

 「ツバメは誰に教わるわけでもないのに巣の作り方を知っている」

 (ひろし)にそう説いてくれるボクシング部主将の平中さんは、真剣な表情で二つの鼻の穴にティッシュを詰め込んだ。

 ハウスダストに弱いアレルギー体質らしく、安い民宿の古ぼけた建物なんかに泊まると鼻炎がひどくなるらしい。

 「人間だって同じだ。闘うことは動物の本能なんだから、良いパンチを打とうとするなら身体に任せちゃえばいいんだ。だから力を抜く。理想のイメージを頭に、まるで本棚に本をしまうようにそこに置いて、あとは身体に任せてしまえば自然と良いパンチを打てるようになるよ」

 六畳半の狭い部屋の割にはやけに広いテラスで、平中さんは楽しそうに鼻水をずずっと飲み込んだ。

 夜の河口湖は暗く冷たく目の前に大きく横たわっていて、また明日もあの周りを走るのかと思うとその場から急いで夜行バスの切符を買いに、走りに行きたいくらいだった。そのほうが速く走れそうだ、と寛は思った。

 「この一週間、ボクシングのことだけを考えよう」

 そう言い切ってしまえる平中さんのことが、寛は嫌いではなかった。主将と同級生の長谷川さんや原田さんらは、その練習量の多さにひたすら文句を言うことのほうにむしろ汗を流していた。

 「ボクシング馬鹿め」

 そう言って同級生に揶揄(やゆ)される平中さんは決まって「そうかもな」と満足気にうなずいていた。

 同じ屋根の下では世の大学生代表とも言うべき、テニスサークルの合宿と銘打った宴会団体が泊まりに来ていた。しばしば彼らの楽しくてしょうがない笑顔と廊下ですれ違うとき、寛は人生について考えた。

 「明日も早いからはやく寝なさい」

 部員選手らに伝えに来る二輪(にわ)さんではあったが、この後彼女らはさんざん夜更かしをした挙句、早朝練習の始めだけ参加するとまた部屋に戻って惰眠を貪ることを部員の誰もが知っていた。寛は化粧をしているときの彼女たちと、寝ぼけ眼で不機嫌そうに挨拶を交わしてくる素肌の彼女たちの、なんというか、違いに驚いた。そんなとき、やっぱり人生について考えた。

 午後のジム練習が終わると至福のひとときがやってくるが、そこはボクシング漬けを自称するに恥じないイベント、チームミーティングの時間帯が設けられていた。

 「こんなことをするために大学に入ったんじゃない」

 同期の黒沢が部屋で泣き叫ぶようにして身を悶えさせようとした。小さな身体と尋常ではない疲労のせいで、残念ながらその精一杯の抵抗から迫力は微塵も感じられなかった。

 「静かにしろ」

 「うるさい」

 「テレビの音が聴こえないだろ」

 「出てけ」

 下級生に一通り辛辣な言葉を与えて満足したらしい上級生たちは画面の中で多彩なパンチを繰り出すオスカー・デ・ラ・ホーヤに視線を戻した。

 ――明日の朝、また地獄のランニングが始まる。

 そう思うと寝なければいけないのになかなか寝付けなかった。人間とは追い込まれてくると可能な限り本当に何でもやるらしく、寛は大量の羊たちが柵を飛び越える姿を想像したり、睡眠導入剤が含まれていると誰かの知ったかぶった聞きかじりの意見を参考にバファリンを飲んだりと試してみたが、眠気は一行にやってこなかった。

 蒸し暑い夜だった。

 ――このまま寝ないでいようか。

 一旦そうやって諦めてしまうとずいぶんと気持ちが楽になり、ついでだから食堂の冷蔵庫に何か食糧が入っていないか覗いてこようという気になった。布団かから抜け出て黒沢の顔をまたぐ際に彼の細い足を蹴ってしまい、少しだけ申し訳ない気持ちになったがそれもすぐに忘れる。

 廊下を歩いているとどこかの部屋から笑い声がした。きっとあのサークルの連中が泊まっている部屋からだろう。

 寛は彼らのことを羨ましく思う反面、どこかしらの優越感を感じずにはいられなかった。それが幼さ故の醜い感情だとわかってはいたが、その気持ちを抑えることは難しかった。今もそのどうしようもない愉悦に浸っていたとき、誰かの影が視界に入った。

 「何やってんですか」

 台所にいたのは平中さんだった。

 大きなボウルにたっぷりと入ったジャガイモを潰している。そばにはマヨネーズの容器がある。

 「何で起きてるんだよ」

 眉をひそめた平中さんは、小石を間違って噛んでしまったかのように苦々しい表情を浮かべていた。それでも作業の手は止まらず、ぐちりぐちりとマッシャーで押し潰されたジャガイモは何か気味の悪い生き物のようにうごめいていた。

 「ポテトサラダを作ってるんだ」

 「なんで?」

 「寝られなくて、腹が減ったから」

 誰にも言うなよと大きな背中で応えると、またジャガイモに真剣な目を向けていた。まな板のうえに置かれていたもう一つの小さなボウルには水が張られていて、玉ねぎときゅうりのスライス、ニンジンの小口切りにされているものが浮いていた。

 「美味しそうですね」

 「俺、料理できないけどこれだけは得意なんだ」

 うちの親がいつも作ってたからな、と恥ずかしそうに普段よりもずっと小さな声で言った。

 ――ツバメは誰に教わるわけでもないのに巣の作り方を知っている。

 寛の頭の中をその言葉が通り過ぎていった。

 やがて料理は完成した。

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 平中さんは寛のために皿に山盛りのポテトサラダを用意して、プチトマトも添えてくれた。二人してそれを食べた。

 「誰にも言うなよ」

 もう一度、平中さんは念を押した。

 弾まない会話と一緒に、少ししょっぱいポテトサラダをひたすら口の中に放り込む。河口湖の冷たい風を受けて、食堂のレースのカーテンがふわりと舞っていた。

 

 寛は昔の記憶に浸るとき、なぜか深夜に食べたそのポテトサラダの味も一緒に思い出すのであった。

おわり

 

 

MOYOUGAE

 

 部屋の模様替えは、彼女にとって神聖な行為だった。

 誰もそれを阻むことはできないし、誰の指図も受けない。

 

 

 この部屋に越してきて、彼女は多くの模様替えを行ってきた。

 机をひとつ西側から南側の壁へ移動させるだけの小さな模様替え。

 ほとんどの家具をまるごと移動させ、床のワックス掛けから洗濯機の掃除まで済ませる大きな模様替え。

 カーテンを新調することを模様替えと呼ぶことだってあった。

 その数、実に32回。

 

 

 模様替えをしている最中、彼女は下着だけの姿で部屋を歩き回り、近所の目も気にせずにベランダで煙草を一本だけ吸う。吸い終わったらまた中に戻って神聖な行為へと戻る。

 彼女が今ここで模様替えを行っていることは誰も知らない。

 それが、いい。

 ある宗教の信仰には安息日に煙草を吸う行為すら禁忌とされていたりする。彼女には特に何かを信仰したりする気持ちはこれっぽっちもないが、そんな厳粛な信仰と同じように、彼女の模様替えの際には他の行動は許されてはいないのだ。

 

 

 一本の電話によってその神聖さが汚されそうなときもある。

 「ねぇ、今暇?」

 「暇よ」

 「遊ばない? 今、中目黒にいるんだけど」

 「悪いけどそれはできない」

 「何で? 仕事だらけの毎日で疲れてるとか?」

 「確かに仕事だらけの毎日だけど、遊ぶ体力を削られるほど老けてはいないわ」

 「ならいいじゃない」

 模様替えを行っていることは誰にも悟られてはならない。

 それがルールだ。

 ときどき変な人がいて「そんなルールに意味なんてないじゃないか」と文句を言う光景を幾度となく見てきた。

 彼女に言わせれば「当たり前」だ。

 意味のあるルールなんてこの世にはほとんどない。

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 ルールや規則というものは意味のない縛りだからこそ、そこに意味が生まれるものなのだ。

 いらいらして、ときどきクッションにパンチをぶつける。

 別に空手やボクシングを習っていたわけではないから、それは力をこめただけの塊がブラウン色の布生地を、拳の形に凹ます程度である。

 「なんとなく行きたくないの、そういう時ってあるでしょ」

 「わからなくもないけど」と電話の向こうではまだ名残惜しそうな声が聴こえる。

 「こんなこと、親友のあなただから言うのよ。他の人であれば用事があるって適当な嘘をついてすぐ電話を切るわ。でもあなただったらわかってくれると思って」

 「わかったよ、オーケー」

 こんなとき、たいてい「あなたは特別」というような殺し文句を出せば納得してくれるものだ。

 

 

 ――なんて単純な世界なのかしら、あの友人の生きている場所は。

 ときどきそんなふうに思う。

 親友というものが存在し、友情というものが存在し、愛情というものが通用する世界なのだろう、おそらく。

 残念ながら(別段彼女自身は残念とも思ってはいなかったが)、彼女にとってそれら目に見えないものたちは作り話(フィクション)なのだ。

 ちなみにさきほどの電話で「親友」という枠内に収まる友人は彼女に45人いる。

 彼女の親友になるのはとても簡単なことだ。

 中身が紙だらけの重いかばんを彼女の代わりにもってやったり、突然の雨降りの際に彼女をそのアパートまで車で送ってあげたりするだけでいい。その上で電話番号を交換すればさきほど言っていた「親友」になることができる。

 もっともその「親友」ですら彼女の模様替えを犯す権利などあるわけはないのだが。

 

 

 33回目の模様替えは、いらなくなった折り畳みベッドを粗大ごみに出し、本棚の横に作業机をもっていくことで完了した。

 インスタントの紅茶を飲んで一息ついてから、幾分すっきりとした部屋の中を見渡してみて、彼女は今回の模様替えが成功したことを確信する。

 網戸越しに吹く6月の風が心地良い。

 あいにくと現時点で寝るための家具は部屋にはない。

 ソファーが届くのは来週だ。

 彼女はフローリングに(じか)に寝っ転がり、羽毛布団をかける。

 素肌にあたる柔らかい感触をもってして、誰にもばれないように、何かから隠れるように彼女はこっそりと、そそくさと眠りに就く。

 ――あとで電話してくれた友人に謝ろう。

 模様替えを終えたばかりの彼女はそんなふうに、少しだけ感傷的になったりもする。

 この世に数ある物語のうち、模様替えに関する物語はこうして幕を閉じるのだった。

おわり

 

 

 

そのボールはハヤシライスではありません

 

 僕にとって愛とは、「愛する人」とキャッチボールをするといった対話的なものじゃないんです。

 むしろそれは遠く「どこか」に向けてボールを投げることにあります。

 僕はその「どこか」に「誰か」がいることを直観的に知っている。

 それは理屈じゃない。

 そしてその「誰か」は僕に「愛される人」です。

 もちろん「愛される人」は僕がボールを投げたという状況、その事実を知りません。

 にもかかわらず「愛される人」はその事実を本人でさえ知らない領域において許してくれます。

 なぜか。

 それは僕と「誰か」が絶対的に分かり合えないからです。

 人は理解できない対象が近づいてきたとき。

 「徹底して抵抗する」

 もしくは。

 「無視する」

 ことしかできません。

 無視することはこちらの接近を諦めて放っておくことになる、つまり近づくことを「誰か」は許します。

 けど決して僕が投げたボールを受けとってくれるわけじゃない。

 その「誰か」は僕がボールを投げたという事実を知らないんですから。

 

 

 ……だから僕はいつもグラブを持ち歩くことにしてるんです。僕を愛してくれる人が投げたボールをいつでも受け取れるように」

 そう言って彼はテーブルの上にキャッチャーミットを置いた。

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 「愛、ねぇ」

 アタシは彼の置いたグラブを手に取りながら、今日の晩御飯を何にしようか考えていた。

 決めた。

 ハヤシライスにしよう。

 「うん、そうね」

 アタシがうなずくと彼は嬉しそうに笑った。

 時計が。

 8時を告げた。

おわり

(第09回 了)

 

 

* 『僕が詩人になれない108の理由あるいは僕が東京ヤクルトスワローズファンになったわけ』は毎月24日に更新されます。