怪_No.005_01

 

 

 妖怪ブームではないか。何がきっかけなのだろう。おそらくブームというより回帰、揺り戻しというより単に思い出した感が強い。思い出すことで、また世界が少し違う見え方をする。懐かしいかどうかは別として、それは新しい見え方ではない。ではなぜ繰り返し回帰されるのか。

 

 怪の特集は、今回もふんだんである。出し惜しみや引き延ばしの気配がない。莫大な数の読者はいないかもしれないが、そうであれば離れてゆくこともないかもしれない。怪の読者は、世界が忙しい日常から離れた、違う見え方をすることを忘れたくない人々であろうから、怪という雑誌を必要とする。雑誌の方でそれに応えるあり方として、豊かである、というのは望ましい。

 

 本来的に苦しい雑誌というものはある。その主題で続けて出してゆけるとは思えないものだ。そういうものは最初から、すなわち創刊当初から終わりを見通しておくべきである。そうであれば各号がみっしりと意義深く、惜しまれながら終刊となっても記憶に残る。創刊するからには長く続けるべきだ、と考えるから苦しいのであって、時代を規定するものであってもよい。

 

 一方でニッチな業界誌は長続きして当たり前で、論じるほどのものではない。一番情けないのは、一般誌であるというポーズを保ちつつ、実際には利害関係のある業界に向けて徐々に視野が狭まってゆくジャーナリズムだ。何がよくないといって、このような雑誌は普遍の概念で人を騙す結果になる。一種の総会屋雑誌だ。

 

 今回の怪の特集は「狐」と「道」である。狐は古代的な存在であるが、それが今日に至るまでどのように生き延びているか。その象徴性の普遍と変容を追えば、そのまま日本民俗学的な研究にもなり得る。一方で、道は今日あるものがどのように古代の道に繋がってゆくかを見ればよい。前者は現代に狐を発見する愉しみに、後者は現代の道が古代の様相を帯びるという愉しみがある。

 

 現在の状況は、ニッチな志向が束ねられることで成り立っている。液晶画面に見入りつつ、隣りは何をする人ぞ、ということだ。見ているものがショッピングの価格比較でもエロ画面でも、現代詩のサイトでも妖怪のサイトでも、基本的に同値だ。マスであること、またはニッチであることへの感動も批判も、衒いもない。その束としての現在をそのまま受け入れるようになっている。

 

 このような状況で有望なのは、ニッチであることが業界や制度のそれでなく、個の本質に根ざしたものだろう、と思う。特異なもののようでも、それが人の認識や願望のひとつであるかぎり、普遍に通じる可能性がある。可能性に過ぎなくても、その差異は大きい。

 

 制度的なものほど、自らを普遍的なものに見せかけたがる。それが制度というものの定義だからだ。しかしそれが通用する時代は過去のものになりつつある。普遍的な顔つきの単なる業界の制度はその守備範囲の輪郭を露わにし、特異と見える個に潜む普遍性に人々は気づきはじめているのだ。

池田浩

 

 

 

 

 

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