小松剛生さんの第1回 辻原登奨励小説賞受賞作『切れ端に書く』(第10回)をアップしましたぁ。小説という芸術形態は比較的底の固いものである(形式的にしっかりしている)と何度か編集後記で書きました。それは〝物語〟が小説の中心だということです。もちろんこの物語をなんらかの方法で壊す・崩すことはできます。しかしその場合でも、物語が前衛的と呼んでいい小説作品の〝仮想敵〟になっているのは確かなことです。

 

 語られることのない物語はどこに行くのか、それは所有者が墓場まで抱えていく。

 もし読みたいのであれば掘り起こすしかない。

 残念ながら、世にある素晴らしい物語のほとんどが語られることなく、文章になることもなく哀しい存在になって墓場で眠っている。

 それはこぼれないようにと、その人が両手でしっかりと抱えていたいような内容なのだろう、たぶん。

 けれどその人を救ってくれる人はどこにもいない。

 救われるのはいつだって何かをこぼす前の生きている人間だし、死者は何も語らない。

 哀しい。

 けれど、ときどきその事実はとても美しく感じられるから不思議だ。

 

魅力的な記述です。こういう文章を読むと、小説は作家による〝小さな説〟であるといふ解釈も可能だと思います。乱暴な言い方をすれば、物語性が希薄で、作家の内面をひたすら書いてゆく(深めてゆく)純文学小説は、小さな説という側面が強いわけです。

 

ただ私小説の書き方では250枚くらいが上限でしょうね。長編は書けない、あるいは魅力的な長編に仕上げるのが非常に難しい。また私小説的な書き方では、継続的に小説を書く(作家として活動してゆく)のは難しい。どこかで物語(プロット)の作り方を覚え、物語の力に沿って書いてゆく方法を会得しなければ、作家の小さな説など数作書けば本質的には尽きてしまう。

 

私小説的純文学作家であることに誇りを持つ作家はもちろんいた方が良い。しかしこれからの時代、そのような作家は数人で足りると思います。文学のように歴史の長いジャンルで何かが急激に変わることは考えにくいですが、従来の純文学の繰り返しが限界に近づいていることはひしひしと感じます。物語の終わりから物語を作り出す作家の力が求められているやうに感じます。

 

 

小松剛生 連載小説『切れ端に書く』(第10回) pdf 版 ■

 

小松剛生 連載小説『切れ端に書く』(第10回) テキスト版 ■