Interview:酒卷英一郎

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酒卷英一郎:昭和二十五年(一九五〇年)武州浦和に生まれる。水瓶座。十八歳頃より句作を始め、金子弘保氏の紹介で大岡頌司氏を始めとする前衛俳句作家たちを知る。大岡頌司氏に私淑して大岡氏唯一の弟子と認められる。編著に『大岡頌司全句集』(共編)、『安井浩司選句集』(共編)、『海辺のアポリア(安井浩司評論集)』、『安井浩司俳句評林全集』などがある。俳句同人誌「LOTUS」発行人でもある。

 

酒卷英一郎氏は大岡頌司氏唯一の弟子として知られる。大岡氏の多行俳句形式の継承者でもあり、自ら三行形式の俳句をお書きになっている。句集は刊行されていないが、生涯一句集で、処女句集で全句集の刊行を企図しておられるようだ。安井浩司氏の私的ファンクラブである「お浩司唐門会」を金子弘保氏とともに支えた人物でもある。今回は安井浩司、高橋龍氏へのインタビューに引き続き、大岡氏を最も良く知る酒卷氏に大岡俳句についておうかがいした。なおインタビューは鶴山裕司氏と田沼泰彦氏にお願いした。

文学金魚編集部

 

 

■前衛俳句について■

 

鶴山 今日は酒卷英一郎さんに、大岡頌司さんについてのお話をお聞きしたいと思います。

 

酒卷 どういったことをお話すればいいんでしょうか。

 

鶴山 基本はやはり前衛俳句でしょうね。前衛俳句の中にはいろいろな運動がありました。新興俳句はまた別ですが、富澤赤黄男、高柳重信がもちろん始祖的な位置を占めます。そのほかに永田耕衣系の流れがあります。耕衣さんの元からは安井浩司さんと河原枇杷男さんが出ました。あと弟子などの後継者という点では微妙ですが、加藤郁乎さんも大きな存在です。

 

酒卷 前衛俳句は大きく、金子兜太の「海程」系による社会性俳句の流れと、高柳重信の「俳句評論」を拠点とした、いわば言語派の流れがあります。このふたつの緊張関係のなかで育まれてきたと言っていいと思います。個人的には赤尾兜子にも注目していました。

 

鶴山 金子兜太さんはホトトギス系と比較すれば前衛なんですが、僕としては、晩年まで美学的・思想的に一貫した方を基本的に前衛俳人とカテゴライズしたいと思います。そうしないと範囲が広がり過ぎますから。そう定義すれば、かなり作家の数を絞ることができるように思います。

 

酒卷 ただ加藤郁乎さんは句集『牧歌メロン』以降、『出イクヤ記』を一応括弧でくくって、『佳氣颪』、『江戸櫻』と伝統俳句的な方向に回帰してしまうわけでしょう。

 

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鶴山 でも彼の場合、回帰の理由がわかるような気がします。郁乎さんのいいところは思い切りの良さでしょうね。「もうダメだ」となったときに、パッと方向を転換してしまう。確かに伝統俳句というか、江戸俳句の方に回帰したと思いますが、その回帰のしかたが極端でした。郁乎さんにはインタビューしてみたかったんですが、僕がまったくついていけないお話で煙に巻かれるんじゃないかという気がして、躊躇しているうちにお亡くなりになってしまった。

 

酒卷 加藤郁乎さんが岩波文庫で編集を担当した本が三册あります。『吉田一穂詩集』『芥川龍之介俳句集』『荷風俳句集』などですね。あの編集能力はすごいです。いわばまっさらな前衛から出発して、そのあと江戸俳文学考証に転じたわけですが、そういった着地点を選べる人はもう出ないんじゃないでしょうか。

 

鶴山 そうですね。郁乎さんは別格だと思います。処女句集の『球體感覺』は前衛俳句の中でもトップの出来でしょう。高柳重信の前衛性は初期の『蕗子』、『伯爵領』で表現されていると思いますが、ある程度理知的に理解できます。でも『球體感覺』には今でも一種独特のわからなさがあります。『球體感覺』の「昼顔の見えるひるすぎぽるとがる」は、要するに地口ですね。深い意味なんてありゃしない。でも名句なんだな(笑)。

 

酒卷 音ですね、音の柔らかさというか。僕はまだ勉強していないんだけど、加藤郁乎を理解するには、やっぱりお父さんの加藤紫舟をちゃんと読まなきゃならないんじゃないかな。紫舟さんは早稲田大学の英文学者なんですよ。

 

鶴山 ああ、それで窪田般彌さんにつながるんですね。

 

酒卷 紫舟さんは自ら句誌「黎明」を出しておられた。元々は会津の方です。僕は攝津幸彦を偲ぶ会の時に、攝津さんの句を朗読したテープを攝津さんの同僚の方々と作ったりして、それを会場で流していたんです。郁乎さんも会にいらしたんですが、僕に「あんた、東北だな」って不思議な質問をされました。なんでそういうことを言ったんだろうと考えたんですが、郁乎さんの出自(ルーツ)は会津だから、東北に親しみがあったんでしょうね。僕が吹き込んだテープに、東北的な訛をお感じになったのかもしれません。

 

鶴山 紫舟さんの世代の英文学者はどなたになりますか。

 

酒卷 安田章一郞さんだとか、深瀬基寛、安藤一郎、上田保さんとかですか。僕も紫舟さんの句集はちゃんと読んでいないんだけど、郁乎さんの『球體感覺』の抽象性は、お父さんの方から来ている面があるんじゃないかな。

 

鶴山 処女句集『球體感覺』と第二句集『えくとぷらすま』のレベルは、ちょっと尋常じゃなかったですね。

 

酒卷 安井浩司さんは『球體感覺』よりも『えくとぷらすま』を高く評価しておられますね。

 

鶴山 『えくとぷらすま』はもう句集じゃないですもの。全否定するか絶賛するか、どちらかしか道はないんじゃないですか(笑)。

 

酒卷 僕はそのあとの詩集『形而情學』が好きでしてね。リアルタイムで郁乎さんを知ったのは、『形而情學』が出てすぐの頃だったんです。

 

鶴山 郁乎さんは古典俳句に回帰したわけですが、その回帰の振り幅が尋常じゃなかったことは誰もが認めざるを得ないところです。あの極端なペダンティズムはほとんど逆前衛じゃないのかという気がします。

 

酒卷 澤好摩さんなんかは、郁乎さんはぜんぜん変わってないよと言うんです。澤さん流に、郁乎さんの一貫性を理解しておられるんでしょうね。

 

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『大岡頌司全句集』

浦島工作舎 平成十四年(二〇〇二年)十月三十一日 七月堂刊 編集 岩片仁次・酒卷英一郎・高橋龍・安井浩司 発行人 酒卷英一郎(代表)

 

鶴山 赤黄男・重信以降の前衛俳句で一貫性を感じ取れるのは、永田耕衣さんは別格として、加藤郁乎、安井浩司、大岡頌司、河原枇杷男、寺田澄史、岩片仁次、赤尾兜子、志摩聡、折笠美秋といった俳人たちになるんじゃないでしょうか。

 

酒卷 志摩さんは中京圏の文化に属しておられたようなところがあって、郁乎さんなどの東京圏の文化とはちょっと距離を置いておられましたね。同人句誌「Unicorn」の時も参加されてないんじゃないかな。ただ『汽缶車ネロ』は思潮社から出ていて、郁乎さんが「現代詩手帖」に紹介文を書いていたと思います。そういう意味では詩人の方にはけっこうなじみがあるかもしれない。

 

田沼 志摩さんはけっこう「手帖」誌に作品を発表していますよ。

 

酒卷 『黄體説』なんかは、要するに『聖三稜玻璃』の「囈言(たはごと)」の山村暮鳥風ですからね。

 

 

■大岡頌司について■

 

鶴山 前衛俳句が今も継続中の文学運動なのかどうかは議論がありますが、文学の現場なんていつの時代でも混沌としています。ただ重信から安井浩司さんに至る前衛俳句が、戦後俳句史において極めて重要な文学運動だったのは事実です。それはやはりある程度総括した方がいいと思うんですね。安井さんについては文学金魚で特集を組みましたが、大岡頌司さんについてもある程度それをやっておきたい。なぜ大岡さんなのかと言えば、極めて特殊な俳人に見えるんです。大岡さんは俳人ですが、非常に象徴主義的で、その入れ込み方がちょっと常軌を逸しているようなところがありました。大岡さんの句風を継承できるかどうかは微妙ですが、俳句の貴重な富です。酒卷さんは大岡さんの唯一のお弟子さんですから、その富について、もう少し掘り下げてみたいんですね。

 

酒卷 大岡さんから正式に弟子と認定されているかどうかは、私自身もよくわからないところがあるんですが(笑)。

 

鶴山 正式なお弟子さんですよ。酒卷さんは『大岡頌司全句集』の編集人でもあり、最晩年まで大岡さんをご存じの数少ない俳人でもあります。『全句集』の編集人は、酒卷さんと岩片仁次、高橋龍、安井浩司さんの四人です。大岡さんをよくご存じの俳人は、意外に少ないですね。酒卷さんが大岡さんに初めてお会いになったのはいつ頃ですか。

 

酒卷 最初に『全句集』の刊行経緯についてお話しておきますと、これはすでに高橋龍さんがどこかでお話なさっていたかもしれませんが、平成十年ごろから大岡さんの病状がいっそう悪化して、俳人関係者に呼びかけてお見舞い金のカンパを集めたわけです。発起人は岩片仁次さん、高橋さんら。それを大岡さんに渡しにお伺いした時に、ご本人から「せっかくならこのお金を新句集の刊行資金として欲しい」旨のご要望がありました。それが『全句集』に未刊句集として収録された『慫慂』だったわけです。高橋さんが大学ノート二册だかの、自筆の未刊ノートをお借りして判読するのですが、それが例の金釘流で、かなりご苦労なさったと思います。いくつかの曲折がありまして、結局既刊句集全册と併せての『全句集』上梓となったわけです。初期の『遠船脚』、『臼處』、『花見干潟』はオリジナルの他に端溪社の複刻版がありますが、その後の自社刊行の句集もせいぜい二百部どまりで、それも実際の印刷部数は判りません。ほとんど入手困難の句集がこうして纒められたわけです。おもに高橋さんが印刷所との面倒な折衝に当たってくださいました。私はまだ勤めがあったものですから。ほんとうに亡くなる直前に病床にお届けすることができました。高橋さんと岩片さん、おふたりの御尽力がなければ、未だに大岡さんの全句業がこのようなかたちで日の目を見ることはなかったかもしれません。ところではじめて大岡さんにお会いしたのは、大岡さんが越谷の蒲生のあたりに引っ越してこられて、何度かあのあたりを転々としたあと、春日部に最初の家を建てて腰を落ち着けられた頃ですね。

 

鶴山 印藝書肆端渓社を開業された頃でしょうか。

 

酒卷 そうです。『全句集』の年表で言うと昭和四十七年(一九七二年)です。私がお会いした頃は、まだ端渓社を始めるか始めないかの頃でしたから。安井浩司さんのファンクラブというか、サポーター的な役割を担った「お浩司唐門会」の金子弘保さんは、大岡さんが蒲生から春日部に転居されるときに引っ越しのお手伝いをしています。

 

鶴山 金子さんは、どこから重信系の「俳句評論」のグループに入ってこられたんですか。

 

酒卷 金子さんは、元々はリロイ・ジョーンズとかの黒人文学が好きだったんです。ビート・ジェネレーション周辺のアメリカ文学ですね。京王線の明大前でジャズ喫茶「マイルス」を経営されていました。最初は安井、大岡さんとかではなく、「海程」同人で、「Unicorn」にも参画した島津亮さんなんかに入れ込んでいた頃です。以前、金子さんは渋谷のNHKの前のアパートに住んでいたことがあって、私は一度泊まりにいったことがあります。そしたら金子さんが、朝起きると、「酒卷くん、いい句ができたよ」と言って、「ここしかない死ぬな死ぬなとオートバイ」という俳句を口にしたんですね。金子さんは、「これはスゴイだろ」と言っていましたが、結局それは島津さんの句だったんです(笑)。(島津亮句集『記錄』所収。句集表記は「ここしかない・死ぬな死ぬなとオートバイ」田沼泰彦氏のご教示による)。この句がもろにビート・ジェネレーションの影響を受けているのは非常にわかりやすいですよね。金子さんはここいら周辺を出発点として高柳重信、加藤郁乎、金子兜太を知り、短歌では別ルートで寺山修司、岡井隆、塚本邦雄、春日井建さんなどの、いわゆる前衛俳句・短歌が好きになっていったんじゃないかと思います。

 

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鶴山 金子さんは俳句・短歌の実作者ではなく、尋常な熱の入れようではなかったですが、愛好者だったと言っていいんでしょうか。

 

酒卷 そうですね。田村隆一、清岡卓行、堀川正美らの現代詩もお好きでしたから。金子さんのジャズ喫茶「マイルス」には明大生が集まっていたんですが、そのグループの中の一人だったかなぁ、石川淳の小説『荒魂』から名前を取った、荒魂書店という古本屋を神田で始めた人がいます。そのビルの一室に「月刊漫画ガロ」の編集部があって、青林堂の創業者で「ガロ」編集長の長井勝一さんがいたんです。その荒魂書店で、私は初めて吉岡実や中上哲夫、中井英夫、天沢退二郎さんなどにお会いしました。発禁本の研究で有名な城市郎さんにもお会いしたなぁ。あの方は読売新聞社主の正力松太郎さんの秘書だったんです。

 

鶴山 実に怪しげな本を出しておられた印象の方ですが、元々は実業界にいらしたんですね(笑)。天沢さんはまだ「凶区」同人の頃ですか。

 

酒卷 「凶区」は一九七一年に二十八号を廃刊宣言号としているようですから、お会いしたのは、廃刊間もない頃でしょう。天沢さんと少し俳句のお話をしたんですが、「凶区」同人で俳句をかじっているのは彦坂紹男、秋元潔さんの二人くらいしかいないよとお話されていたのを覚えています。私は天沢さんの『時間錯誤』とか『血と野菜』といった詩集が好きだったんです。あの世界は今でもちょっとわからないところがあります。当時は同人詩誌「ドラムカン」も出ていて、吉増剛造さんなんかがスターでした。

 

 

■多行俳句について■

 

鶴山 初期の吉増さんの勢いはすさまじかったですね。大岡さんのお話に戻りますが、昭和四十七年に初めてお会いになったとすると、第四句集『抱艫長女』が出た頃ですか。

 

酒卷 ちょうど『抱艫長女』ができあがった頃です。

 

鶴山 大岡さんのお弟子は酒卷さんお一人で、安井さんのお弟子は豊口陽子さんお一人、郁乎さんはお弟子がいらっしゃらないですよね。それはどうしてなんでしょうね。

 

酒卷 「俳句評論」系の俳人たちの、一つの基本的なラインだったと思うんですが、めったに若手を誉めないんです。特に大岡さんはそうでした。安井さんも、今のお年になって若手に優しい視線を向けるようになりましたが、当時は厳しかったですね。それだけ彼らが目指していた俳句の水準が高かったんです。若手の作品は十分読んでいるんだけど、安易に誉めていい気にさせてはいけないという雰囲気がありました。高柳重信には啓蒙的な部分があって、若い人も大好きだし、それなりに若手の作品を評価はしていましたが。安井さん、大岡さんの世代で当時の若手の作品について言及していたのは、攝津幸彦さんの句くらいかな。

 

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大岡頌司句集『抱艫長女』自筆原稿(酒卷英一郎氏蔵)

 

鶴山 大岡さんは、処女句集の『遠船脚』(昭和三十二年[一九五七年])は一行表記でしたが、第二句集の『臼處』(三十七年[六二年])から三行表記の多行俳句になり、第六句集の『寶珠花街道』(五十四年[七九年])で一行俳句に戻りますね。

 

酒卷 『寶珠花街道』の初出は、実は三行表記だったんです。これは今日の一番重要な話になるかもしれないけど、鶴山さんが一昨年、安井浩司さんに大岡さんについてのインタビューをされましたよね(金魚詩壇 討議&インタビュー「No.002 【大岡頌司 没後十年記念】 安井浩司、大岡頌司を語る」)。あの中に「これはなかなか公にしにくい彼の言葉でね。私(安井)だけが知っている言葉だけど、〝安井、多行形式は面白くない〟〝そうだろ、やっぱり一行は面白いだろ〟って言ったら、大岡君は〝そうなんだなぁ、一行俳句には解きがたい謎がある〟って言いました」という安井さんの発言がありました。大岡さんが「多行形式は面白くない」と発言してからもう三十年以上の年月が流れていますが、大岡さんがそう言ったことを、さすがに安井さんは僕には伝えられなかったんだと思います。

 

鶴山 あの発言はずっと気になっていて、酒卷さんにご意見をおうかがいしたいと思っていました。大岡さんが「多行形式は面白くない」とおっしゃったのは事実だと思いますが、その解釈は様々でしょうから。

 

酒卷 昭和五十二年(一九七七年)に立風書房から『現代俳句全集』全六巻が刊行されましたね。その第五巻で、当時の中堅・若手俳人十名の中に大岡さんが「俳句評論」から選ばれたわけです。俳句全集やアンソロジーなどを組むときはたいていそうですが、俳壇の勢力図のようなものが反映されるわけです。各同人誌の代表、また各結社の主宰は、同人、結社の大きさなどに応じて、自分のところから若手俳人をピックアップして推薦してゆきます。永田耕衣は、あの時点では当然かもしれないけど、河原枇杷男を入選させた。重信は「俳句評論」から大岡頌司を入選させたものだから、安井さんの席がなくなっちゃったわけです。あの『現代俳句全集』で大岡さんが選ばれ安井さんが落選したことが、その後の二人の歩みを大きく分ける出来事になったんじゃないかと思います。安井さんはあそこでのコンプレックスのようなものをバネに大きく飛躍をしたんだろうし、大岡さんは一息ついてしまったのかもしれない。

 

鶴山 高橋龍さんも、酒卷さんと同じような意味の発言をされていました(金魚詩壇 討議&インタビュー「No.003 【大岡頌司 没後十年記念】 高橋龍、前衛俳句の時代を語る」)。ただ立風書房版『現代俳句全集』が刊行された当時、大岡さんは多行俳句で安井さんは一行俳句でしょう。「俳句評論」の総帥であり多行俳句の実践者だった重信は、大岡さんを選ばざるを得なかったんじゃないでしょうか。大岡さんは多行の継承者だったわけですから。

 

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酒卷 大岡さんじゃなかったら、折笠美秋さんになっていたかもしれません。『現代俳句全集』が出た時に、大岡さんは僕に「あそこに自分の作品の八割くらいが載っている」とおっしゃいました。多行俳句形式の実践者がすべて寡作だとは言いませんが、特に大岡さんは寡作の方でした。それまでのご自分のアンソロジーが『現代俳句全集』でできあがっちゃったわけです。大岡さんが「安井、多行形式は面白くない」と発言されたのは、『現代俳句全集』が刊行されてから以降のことじゃないかと思います。大岡さんがそうおっしゃったということは、僕にとってはものすごくショックでしたが、今思うとそれはあくまで大岡さんのお考えだと思います。僕は句集『抱艫長女』のリアリティのようなものに心から震撼させられた者ですから、今でも三行俳句形式の方が一行形式よりも謎があって、俳句としてリアリティがあると思っています。もしそうじゃなければ一行に帰還しちゃうわけですから。大岡さんが何をお考えになっていたのかは正確にはわかりませんが、初出は三行俳句形式だったのを一行形式に直して『寶珠花街道』を発表し、また『全句集』収録という形になりましたが、最後の『慫慂』(平成十二年[二〇〇〇年])まで多行俳句形式を封印された。『慫慂』でふたたび多行俳句形式に戻るわけですが、かつての三行俳句形式ではなく、高柳重信の多行俳句形式の代名詞である四行表記になっているわけです。

 

 

■大岡俳句の象徴性について■

 

鶴山 『慫慂』について安井さんは、「あれは高柳重信を擬(もど)いた遊びですよ。作家はお世話になった先輩に向けて書くことがあるでしょう。オマージュというか、恩返しみたいなものかな」とおっしゃっています。それについても酒卷さんにご意見をうかがいたいと思っていました。

 

酒卷 遊びではないと思うんですよ。すでにそのような余裕は大岡さんに残っていなかったはずです。大岡さんは、多行俳句形式から一行俳句に回帰したわけですが、多行俳句形式を実践しないで「俳句評論」にいられるのかどうかという葛藤があったと思います。実際、重信が亡くなることをもって「俳句評論」は終刊となるわけですが、その前に実は「俳句評論」を退会しているんです。大岡さんは晩年に「晩節をまっとうできなかった」ということをおっしゃっていたので、僕は『慫慂』でようやく晩節をまっとうできたのではないかと思っています。その意味では、安井さんのおっしゃる「恩返し」がはじめて叶ったのかもしれません。

 

鶴山 大岡さんが『慫慂』で、そうとうに言語的と言いますか、作品レベルの圧を上げようとした気配は読み取れます。ただ肉体と精神の衰えなんでしょうか、初期の多行俳句のレベルまでには圧が上がりきっていないように思います。

 

酒卷 俳句には「一行で立つ」という言い方がありますが、比喩的に言うと多行俳句形式はそれを横に寝かせちゃうわけです。一度寝ちゃうと逆になかなか立ち上がれないということはあると思います。

 

鶴山 そうすると酒卷さんは、大岡さんの多行俳句に惹かれてお付き合いをされるようになったわけですね。

 

酒卷 さっきの話に戻れば、当時、金子弘保さんが安井さんと大岡さんの俳句をフォローするんだ、バックアップするんだということをおっしゃっていて、その流れに何の疑いもなく乗っていったという面はあります。

 

鶴山 重信さんとはお会いになりましたか。

 

酒卷 一度だけお会いしたことがあります。母岩社から重信最初の全句集が出たときに、金子さんと代々木上原のご自宅を訪問して本に署名していただいたんです。ほんの三十分か一時間しかいなかったと思いますが、重信さんはしきりに「一句の中には必ず何か仕掛けがあるんだ」ということをおっしゃっていました。私はまだ学生で、入学した翌年に東大安田講堂攻防戦が起こったので、ちょっとダブっていたんです。重信さんの全句集は本当に楽しみで、まだ出ませんか、まだ出ませんかって、私は発行所にしょっちゅう電話をかけていたんです。するとある時、重信さんご本人が電話に出られて、「東大生であんたと同じようにまだ本は出ないのかって電話してくる人がいるよ」とおっしゃった。その東大生は夏石番矢さんだったらしいです。

 

鶴山 大岡さんが重信さんと知り合う前に出した処女句集『遠船脚』は別として、第二句集『臼處』、第三句集『花見干潟』の多行俳句のレベルは尋常ではないと思います。この頃の大岡さんの圧のかけ方は、余人を寄せ付けない高さがあるんじゃないでしょうか。

 

酒卷 『臼處』はまだ助走というか、過渡的な作品集だと思いますが、でもあそこですでにノスタルジックな言語世界を作り出しているわけです。晩年、大岡さんがご入院される前でしたが、豊口陽子さんが大岡さんにお会いしたことがないというので、私と二人で大岡さんの家を訪ねたことがありました。いろんなお話をしたんですが、別れ際に大岡さんが、「あんたたちの句は幻想的な句だろうけど、僕の句はリアリズムなんだ」とおっしゃった。ガツンと頭を殴られたような気がしましたね。私は大岡俳句こそ、言語で作り上げたロマネスクの世界だと思っていました。言ってしまえば幻想性だと思っていたんだけど、そうじゃなかったんですね。

 

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大岡頌司句集『寶珠花街道』特装版見返し墨書(酒卷英一郎氏蔵)

 

鶴山 大岡さん的な象徴主義を、マラルメなどと比較しても理解できない理由は、今おっしゃられたリアリティ、具象のせいでしょうね。

 

酒卷 田沼さんは『臼處』の評釈を書いておられて、あの句集で表現されているのは瀬戸内海文化であり、半農半漁文化の反映であるということを明らかにしておられますが、それはその通りじゃないかと思います。また『臼處』には加藤郁乎さんの『碾記』というあとがきが付いています。これを読むと、ほんのちょっとしたフレーズの中に、加藤さんが大岡さんのことを百二十パーセント理解していることがわかります。「これが言葉だけから成り立つてゐるものと信じ切るまでには、或ひは旋頭歌以來の八潮の路を經驗しなければならないかも知れない」などと書いておられる。大岡俳句の世界を理解していないと書けない文章だと思います。

 

鶴山 郁乎さんは恐ろしく勘のいい人ですからね。

 

田沼 私は必ずしも『臼處』を具象としては読んでいないですよ。『臼處』を具象として読んでしまうと、たとえばあの中に出てくる「母」は実在の母ということになってしまうでしょう。でも大岡さんは、実際には産みの母親を見ていないわけです。もしかするとあの「母」は継母かもしれないけど、そうだとすれば、大岡さんは「継母」と書いたと思います。だから『臼處』に出てくる「母」はフィクションなわけです。でも大岡さんが一行じゃなくて多行形式を選んだのは、言葉自体は具象なんだけど、言葉によって描かれた世界を抽象化しようとする意図があったからじゃないかと思います。一句全体としては抽象なんだけど、使っている言葉は具象だということをわからせるために、多行にしたんじゃないでしょうか。多行は一行の文字数が少ないですから、言葉というか、単語が目立って見えますからね。

 

酒卷 それはよくわかります。具象から倒立したロマネスクというのかな。

 

 

■高柳重信と加藤郁乎との関係について■

 

鶴山 安井さんからお聞きしたんですが、大岡さんは郁乎さんの弟子のように見えた時期があるそうですね。

 

酒卷 大岡さんは、ちょっと言葉が適切かどうかわかりませんが、高柳重信と加藤郁乎に、お稚児さんのように可愛がられた時期があるんです。重信さんも郁乎さんも大岡さんの才能を認めて本当に可愛がったんだな。これは大岡さんからお聞きしたんですが、ある時、重信に「おまえ、加藤郁乎のところに行っただろ」と詰問されたことがあったそうです。それまでさんざん食事なんかをご馳走してもらっていたわけですが、重信は大岡さんに「今食べたものを出せ」とむちゃなことを言ったらしいです(笑)。そのくらい愛憎が入り乱れていたようです。

 

鶴山 重信さんもそんなことを言うんですね。

 

酒卷 本当に可愛がっていた弟子には、そういうことをするんですよ。

 

田沼 『臼處』の時代は大岡さんも加藤さんも「俳句評論」の同人だったはずですが、総帥の重信さんを差し置いて郁乎さんにあとがきを頼んじゃったわけでしょう。

 

酒卷 そういうことです。

 

鶴山 そうすると大岡さんもそうですが、安井さんも含めて、重信ではなく加藤郁乎の方に寄っていくというか、新しい俳句の可能性を見出したのが同人句誌「Unicorn」の創刊ということになるわけですか。

 

酒卷 そうです。「Unicorn」創刊は加藤郁乎の、重信の「俳句評論」に対するクーデターですよね。関西系の若手、「海程」系の俳人を含めて、呉越同舟と言いますか、大同団結を目論んだわけです。でも結局は四号雑誌で終わってしまい、しかもその四号全册に郁乎さんは俳句を一句も出していません。自由詩と評論だけですね。四号の奥付を見ても、これで終わりだとは書いてないですし、創刊前からいろいろな内部分裂の兆候があったんでしょうね。

 

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鶴山 同人誌というものは、「Unicorn」のような空中分解が本来の姿だと思いますよ(笑)。

 

酒卷 花田清輝風に言えば、いろんな考えや方向性が激しくうごめいている運動体であれば、四号くらいで空中分解するのかもしれません。坪内稔典さん、攝津さんを中心として創刊された「黄金海岸」もそうでした。まさしく安井さんのおっしゃるように「動いている時だけが風景」なのかもしれません。

 

鶴山 あの時期の郁乎さんは辛い時期ですね。句集『牧歌メロン』が出版される直前で、その前に詩集『荒れるや』がありますが、文字通り荒れていたかもしれない(笑)。ポスト『えくとぷらすま』はほぼ不可能なんじゃないでしょうか。

 

酒卷 私は郁乎さんは、詩集『形而情學』でそれをやったんだと思います。

 

鶴山 そうかもしれませんが、やはり前ではなく後ろに倒れたという意識が郁乎さんにはあったんじゃないでしょうか。

 

酒卷 安井さんはそのあたりのことをよくご存じで、いつだったか『牧歌メロン』には、人名や事件なんかも含めて、「Unicorn」創刊から終刊にいたる秘密が詰め込まれているとおっしゃっていました。

 

鶴山 大岡さんは『牧歌メロン』をかなり厳しく批判したそうですね。郁乎さんから「君は文体というものがわかっていない」と言われたそうです。

 

酒卷 郁乎さんは『えくとぷらすま』から『形而情學』、『牧歌メロン』へと、ホップ・ステップ・ジャンプしていったわけですね。『牧歌メロン』は分裂しながら、まったく新しい方向性を打ち出しているわけでしょう。『牧歌メロン』の後は『出イクヤ記』、『微句抄』、『佳氣颪』と、またリセットしてリスタートしているわけです。

 

鶴山 微かに苦笑して、それまでの郁乎を出て行くというタイトルですからね(笑)。そういうところは郁乎さんは正直で、俳句作家としては珍しく、一貫した作家性を感じ取れる由縁だと思います。「Unicorn」以降、大岡さんと郁乎さんは、ゆっくり袂を分かってゆくわけですね。

 

酒卷 「Unicorn」が終刊したあと、大岡さんと安井さんは重信の「俳句評論」に戻ったわけです。どういう思いで戻ったのか、重信がどういうお灸を据えたのかはわかりませんが。安井さんは耕衣さんの「琴座」同人でもありましたから、まだ帰る場所があったわけですが、大岡さんは他の同人誌、結社に所属していませんでしたから、仕方なく「俳句評論」に戻ったという面があるんじゃないかな。

 

鶴山 俳句の世界には結社誌と同人誌がありますが、同人誌は結社誌の変形という面が強いですね。つまり主宰格の俳人がいて、その人が「うちは同人全員平等の同人誌にするから」と言って同人誌になっているという面があります。でも主宰格の俳人がいないと物事が動かないのは結社誌と同じです。とすると、一人の俳人が複数の結社誌や同人誌に所属するのは何も問題ないことなんですか。

 

酒卷 基本的には問題ないですが、主宰同士が反目し合っている場合などには、本人は肩身が狭いでしょうね。反目と言っても文学的に反目し合う場合と、俳壇政治的に反目する場合がありますから。

 

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大岡頌司墨書(酒卷英一郎氏蔵)

 

鶴山 そうすると耕衣さんは「俳句評論」の特別同人だったわけですから、安井さんが「俳句評論」の同人になるのはまったく問題がなかったということですね。

 

酒卷 そうです。重信さんは当時編集長だった総合誌「俳句研究」で、五十句競作を企画したわけですが、その後に、重信が中心になって赤尾兜子、佐藤鬼房、鈴木六林男、林田紀音夫、三橋敏雄さんらと六人の会を結成するわけです。あれはあれで、俳壇を再編しよう、作り替えようという重信さんの試みだったと思います。

 

鶴山 重信さんは有能な俳壇政治家でもありましから、長生きしていれば朝日、読売新聞俳句欄の選者くらいやったんじゃないかと思いますよ(笑)。

 

酒卷 重信さんには啓蒙者の側面がありましたからね。重信の文章は、いっけんやさしいでしょう。実は奥が深いんだけど、ペダンティックな文章ではないですよね。

 

鶴山 全三巻の『高柳重信全集』を読んだときに、俳壇にこんなに頭がいい人がいるんだと驚嘆しました。ただ俳壇は頭がいいだけじゃダメなんだな。重信さんの限界は頭が良すぎたことだったかもしれない。俳壇に本当に必要なのは、高浜虚子や山口誓子や永田耕衣のような化け物かもしれない(笑)。

 

酒卷 重信さんは「俳句評論」の同人に対して、しょっちゅうもっと他ジャンルの作家と交流しなきゃいけないと発破をかけていたそうですが、大岡さんも寺田澄史さんも志摩聡さんも、みんなペダンティックでしたからね。

 

 

■『臼處』の頃ついて■

 

鶴山 そうですね。重信さんのような政治ができる俳人は、「俳句評論」同人からは現れなかったと思います。大岡さんは第二句集『臼處』から多行俳句になるわけですが、ここには重信の影響があるんでしょうか。

 

酒卷 『臼處』は昭和三十七年(一九六二年)刊行ですが、その前の三十三年(五八年)に、創刊されたばかりの「俳句評論」に同人参加しているんですね。大岡さんの奥さんが、七回忌の時にお作りになったアルバムがあるんです。その中に寺山修司の葉書が収録されています。寺山さんが、大岡さんを高柳重信に紹介したんですね。その頃大岡さんは、しきりと山口誓子を読んでいたわけですが、寺山さんは誓子ばかりじゃなくて、中村草田男や加藤楸邨を読んだ方がいいと書いた上で、一度高柳重信に会ったらどうかと書いているんです。

 

鶴山 その頃寺山さんは、もう天井桟敷を立ち上げていましたか。

 

酒卷 まだです。早稲田大学を休学して、ネフローゼで入院していた頃です。当時大岡さんは、上京して、蒲田のマシュマロ工場に住み込んでいましたから、寺山さんが入院している病院に見舞いに行ったりしていたんじゃないかと思います。

 

鶴山 大岡さんと寺山さんは、寺山主宰の同人俳誌「牧羊神」以来の付き合いですよね。

 

酒卷 「牧羊神」や「蛍雪時代」の俳句投稿欄などを通して、大岡さんと安井さんらが知り合ったんです。大岡さんが「俳句評論」に同人参加した昭和三十三年(一九五八年)頃は、金子兜太さんの社会性俳句がだいぶ盛り上がっていた頃ですが。

 

鶴山 すると重信の前衛俳句を知った上での『臼處』なわけですね。でも大岡さんはやっぱり優秀だな。重信のエピゴーネンにはなっていませんね。

 

田沼 大岡さんの処女句集『遠船脚』は、山田喜七さんがお金を出して刊行されたわけですが、大岡さんは「あとがき」で「寺山修司の筆蹟と私の筆蹟が似てゐたことから、この句集をまとめるはこびになつた」と書いています。山田さんが『遠船脚』の原稿を見て、これは寺山修司の作品に違いないと思ったようなんです。でも類似点は筆蹟だけだったのかなとも思います。作品内容的にも大岡さんと寺山さんには似た面があったんじゃないでしょうか。

 

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酒卷 お二人とも、大きく言えば初期は少年俳句ですからね。

 

田沼 一種の望郷詩ですね。

 

酒卷 寺山さんの方が多少、劇的ではあります。身振りも手振りも大きいですが。

 

鶴山 『臼處』の次の『花見干潟』あたりで、大岡さんの多行俳句はピークに達するように思います。

 

酒卷 『花見干潟』収録の何句かは、それまで日本文学が到達していなかったレベルにあると思います。「もしも/もしもと茅屋根の/百の雫を軒として」、「妹がひとりの引潮の/潮干の徑を/朝へ歸らむ」、「現は夢のけむりぐさ/すてた山椒に/乳母ら捨てらる」、「今は花なき花いちじくの/日は龍宮の/杖のつりざを」、「落日はいま/靑き棗の/日中を撮む」とかね。

 

田沼 『花見干潟』では韻律がかなり飛んでいますね。次の『抱艫長女』でまた元に戻る。

 

鶴山 大岡さんの多行俳句は象徴主義的ですが、唯物主義的でもあります。最後のところ、観念が物に集約されるところがあります。自由詩の詩人なら物を使っても、もっと観念的になってしまうでしょうね。これは自由詩人と俳人との資質の違いかもしれませんが。

 

酒卷 『抱艫長女』のあとがきの「硯西略記」で大岡さんは、「ウシアに關する永遠の桃花戰爭。俳句にとつて〈實在〉とは何か。この宿題をかたはらに、わが鐡屋久藏の、櫓西亞國漂流譚への興趣は、そのまま、俳句の樣式的な饋還性へと漂流して行つたと言ふのが本當かも知れない」と書いています。ウシアは確か、哲学用語で存在といった意味です。

 

田沼 大岡さんは、そういう言葉をどこから持ってきたんでしょうね。生前、散文は誰から学んだんですかとお聞きしたら、花田清輝や石川淳だとお話しておられましたが。

 

酒卷 それは安井さんも同じじゃないかな。あの世代の特徴かもしれません。

 

鶴山 大岡さんと安井さんは似ているけど決定的に質の違う俳人という気がします。乱暴に言うと密教的な観念性が共通していないこともない。安井さんの句集で言うと『密母集』(昭和五十四年[一九七九年])のあたりです。でも安井さんの場合、密教的観念性は一過性のものでしかなかったことがすぐに明らかになります。でも大岡さんの場合、譲れない観念の核のようなものがあるように思います。ご自身でもどうしようもなかったのかもしれませんが。

 

酒卷 大岡さんの『利根川志圖』(昭和五十年[一九七五年])などが典型的ですが、あれは幕末の医者・赤松宗旦が書いた『利根川図志』を俳諧的に読み解いている句集なんですね。あの方法論は極端に言うと、「俳句評論」系の俳人の伝統なんです。最初の試みは重信の『伯爵領』になると思いますが、一種の言語自治領ですね。河原枇杷男の『烏宙論』も埴谷雄高の『不合理ゆえに吾信ず』です。

 

鶴山 多行俳句の実作者はおしなべて寡作ですね。一句集、百から百五十句くらいでしょう。あれは作家としては、相当フラストレーションが溜まるというか、苦しいんじゃないでしょうか。

 

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大岡頌司墨書(酒卷英一郎氏蔵)

 

田沼 大岡さんからお聞きしたんですが、リーチをかけるような多行俳句の創作のしかたをしていたようです。彼は三行形式だったわけですが、一、二行目が思いついて三行目が思い浮かばないとか、二行目がしっくりこないときに、壁にべたべた欠落のある句を貼っておくそうなんです。それがあるとき思い浮かんで一句ができあがる。埋まるまで何年もかかることがあるとおっしゃっていました。でもそういうやり方をすると、数は書けないですね。

 

酒卷 それは多行俳句の典型的な一つの書き方ですね。

 

 

■ユダヤについて■

 

田沼 話はちょっと戻りますが、なぜ大岡さんが安井さんに「安井、多行形式は面白くない」とおっしゃったのか、私なりに考えてみたんですね。確かに多行俳句の実践者から見れば大岡さんの発言はショッキングなわけですが、大岡さんには大岡さんなりの展望があったんじゃないでしょうか。大岡さんは一行俳句に戻る頃からユダヤの話を始めますよね。大岡さんは、お母さんが彼を産んですぐに亡くなったりしていますから、常に出自に引き寄せられるようなところがあったと思います。自分の人生の出自という意味だけじゃなくて、言葉の出自を含めてですね。そういうことをいろいろ考えて行った上で、大岡さんは仮説としてのユダヤに行き着いたんじゃないでしょうか。その出自への興味を、一行俳句で書いて行こうとしたんじゃないか。大岡さんはユダヤの話をするときに、いつも「これは秘匿しておくべきことなんだけど」というような話し方をしていました。そんな秘密の事柄を書く時には一行形式がふさわしかったんじゃないか。それが大岡さんが安井さんに、「一行俳句には解きがたい謎がある」と言った意味というか、真意なんじゃないかという気がします。多行では言葉が切れるわけですから、単語とか観念が際立ってしまいますよね。でも一行では言葉や観念が混交するわけですから、大岡さんが考える秘密、秘匿のようなものが表現しやすかったんじゃないかと思います。

 

酒卷 大岡さんの一行俳句は普通のそれとはやっぱり違いますが、そうか、一行俳句で謎が露呈してきているのかもしれませんね。隠そうしているけど、露呈してきているようなね。田沼さんがおっしゃったユダヤ性が一番良く出ているのは、私は『糊北日記』(昭和五十六年[一九八一年])だと思います。

 

鶴山 大岡さんのユダヤ傾倒と言いますか、執着のお話をしましょうか。そもそもなぜユダヤなんですか。

 

酒卷 一種の言語インターナショナリズムというか語源論ですね。日本語を音で解体しちゃうわけです。そうすると外国語とのいろんな共通点が見えてきます。大岡さんのご自宅に遊びに行くと、私が座るか座らないうちに、「ユダヤがわかった」と言ったお話が始まります。ユダヤの前は卑弥呼だったり黄道だったりしたわけですが。黄道は天体の軌跡のことです。『糊北日記』の「あとがき」で、「大菩薩嶺とおぼしきあたりの山の端に三日月が入らんとして兜狀の奇景をみせていたのは昨年一月の廿日頃であった。月の軌道の計算は專門家でも難しいとあるから、また何時あの夜の景觀に再會できるか分らないが、あの夜以來わたしの事物の實在性に卽した言語觀は一層厄介なものになったことだけは慥で、最早こざかしい方法論やなみの抒情では追つかぬところへ己が俳句を追込んでしまったようだ」と書いています。大岡さんはこの時、天体の動きの中に、決定的なものを見てしまったと思ったわけです。

 

田沼 大岡さんが日本人の出自、日本語の出自がユダヤにあると考えていたのは確かですね。

 

酒卷 在野の日本・ユダヤ同祖論はけっこう眉唾ですけどね(笑)。よく大岡さんがおっしゃっていたのは、更科蕎麦の更科は「サラセン」だと。それに青森に戸来(へらい)という場所があって、戸来はヘブライに由来するという説があるんですね。音だけ取り出せばそういう解釈も可能になるんです。戸来にはなぜか十文字の墓があって、それはキリストの墓だと言う人もいます。大岡さんとはちょっと違いますが、高柳重信も自分の家系の伝承を文学的に活用しています。重信は『偽前衛派――或いは亜流について――』で白米城伝説について書いています。重信の祖先は戦国時代に伊勢の国の城主で、豊臣秀吉の兵糧攻めにあったらしい。城の生命線は滝からの水だったんですが、それを秀吉は絶った。しかし城主の大宮某――これは重信の『伯爵領』の登場人物です――は、滝から白米を流して水に見せかけたという話です。この話はどうも眉唾なようで、重信の論は、そこから秀吉軍になぞらえられる俳句伝統派に対する、偽前衛派である大宮某の戦いの方に進んでゆきます。この重信の白米城伝説をさらに大岡さんが文学的に展開しています。最後の句集『慫慂』の「「あとがき」に代えて」で「高柳重信が僞前衞派で語る白米城傳説の阿坂山にエッシャーの瀧を斡旋した向もあったが意外やヘブライ語の山羊が望見できる此頃である。その贖罪の崖より投ぜられたカモシカの如きがやがて繪馬となりゆく時空混淆には遙か地名學的な思性の埀鉛が必要であるが、あの靑柳にバカ貝ならぬ山羊が顯れている如く、かのタカヤナギにも誇りたかい高楯のごときが匿されているのだ」(全文)と書いています。タカ・ヤ(ナ)ギで山羊となり、これはユダヤ教の燔祭、贄だと。「「あとがき」に代えて」は大岡さんが、ご自身の遺言だと言って私や豊口陽子さん、攝津幸彦さん、高原耕治さんなどに、色紙に原稿用紙の升目を書いてマジックペンで全文を書き写して贈ってくださったんです。内容の判断はともかくとして、大岡文学にとっては重要な文章だと思います。

 

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大岡頌司氏近影 昭和四十五年(一九七〇年)十月十日(酒卷英一郎氏蔵)

 

田沼 大岡さんは母親がすぐ亡くなって、早くに故郷を出たこともあって、帰る場所というか、自分の大元になるような定点が希薄なんでしょうね。

 

酒卷 『抱艫長女』のあとがきに出てくる大岡さんと同郷の鐵屋久藏なんかもそうですね。鐵屋久藏は幕末の漂流民の一人ですが、大黒屋光太夫やジョン万次郎が漂流民のスターだとすれば、歴史にほとんど名前を留めていない人です。でも大岡さんは、そういった無名の人の方に惹かれていっちゃうんだな。生地川尻の地名考からすべてはスタートしているんですが。

 

田沼 鐵屋久藏探求は、大岡さんにとっては父探しだったのかもしれませんよ。

 

鶴山 ユダヤに興味はお持ちでしたが、大岡さんはヘブライ語を勉強していたわけではありませんよね。

 

田沼 大岡さんに、ユダヤは何で勉強したらいいんですかとお聞きしたら、中公新書の村松剛さんの『ユダヤ人――迫害・放浪・建国』を出してきたことがあります。ヘブライ語とかはぜんぜんわかっていなかったですね。

 

酒卷 大岡さんのユダヤへの興味は、ご自分でも言っておられましたが、邪馬台国探しのようなものだと思います。邪馬台国がどこにあったかについては九州説と近畿説がありますが、それ以外にも島根説もあります。そういった真偽定かでない事柄を、直感によって立証しようとするのが大岡さんのユダヤだったと思います。

 

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田沼 ただ邪馬台国はオフィシャルな議論になりますが、大岡さんは、日本人、日本語の起源がユダヤだというのは、タブーだと言っていましたね。日本は天皇制の国なんだからと。だから論文なんかにはできないので、文学化しなくちゃならない、俳句で表現しなければならないとおっしゃっていました。

 

酒卷 そういったミスティシズムが大岡さんにありましたね。大岡さんは、ある程度のところから中へは入れてくれない人でした。ここまではいいけど、ここから先は来ちゃダメだよというのが、割とはっきりあったように思います。寺田澄史さんもそうですけど、大岡さんも本作りにおいては職人でしょう。職人の人懐かしさと同時に、どこか頑固で気難しいところがあったように思います。

 

鶴山 ユダヤのお話まで来ると、大岡論もいよいよ深部に入ったような気がします。でも大岡さんのユダヤは学問的なものではないですから、あとは評論などで解釈を深めてゆくしかないかもしれません。大岡さんや前衛俳句については、また機会を捉えて議論させていただきたいと思います。今日は長時間ほんとうにありがとうございました。

(2015/03/15)

 

 

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