大篠夏彦さんの文芸誌時評『No.020 文學界 2015年01月号』をアップしましたぁ。井上荒野氏の『はやくうちに帰りたい』、綿矢りさ氏の『履歴のない女』、西村賢太氏の『無銭横町』を取り上げておられます。
『はやくうちに帰りたい』と『履歴のない女』について、大篠さんは『不安な人間精神は、純文学と呼ばれる芸術形態を貫く基本的主題である。・・・しかし・・・現在、純文学作家たちは不安な精神をなだめる術を持っていない。・・・ネット社会の交流は衝突よりも、個々の人間にとって居心地よく都合のよい疑似社会を作り出しているのである。人はそれぞれが作り上げたヴァーチャル・ソサイエティで自我意識を思う存分肥大化できる。だが肥大化した自我意識を相対化する方途が見つからない』と批評しておられます。
でも西村さんの私小説だけは安定しているんだなぁ。その理由を大篠さんは、『人間の自我意識(内面)を書きながら、西村氏がそれを相対化できているのは私小説のパターンを踏襲しているからである。ただ西村氏がかつての私小説のパターンをなぞっているとは言えない。明治末以降、綿々と続く私小説作家たちの中で、西村氏ほど確信を持って自我意識の肥大化と相対化を描いた作家はいないのである。その意味で西村氏の私小説はメタ私小説である』と批評しておられます。
そうなんだなぁ。西村さんは日本の私小説研究の第一人者と言ってもよい作家です。その気になれば大学で講義することもできるでせうね。同じことが繰り返されているようで、西村さんの私小説は従来のそれとは質が違うのです。メタ私小説という大篠さんの評価は不肖・石川も正しいと思います。
大篠さんはまた、『乱暴に言えば確信はどんなものでもよい。文学においてはその強度が試されるからである。文学という芸術形態において、核のない生成はあり得ないのだ』とも書いておられます。石川も同感です。芸術作品は出たとこ勝負のやうなところがあります。この手の本は売れないと言われていても、大ヒットすることがあるのです。ただその場合、作家の強い信念が背景になければ、宝くじに当たったような一時的な盛り上がりで終わってしまうのが常です。
■ 大篠夏彦 文芸誌時評 『No.020 文學界 2015年01月号』 ■