第四回 無言の実験室

オルフェの鏡_04_01

 

 

 前世紀、知性を証拠立てたものは距離であった。距離を保てば、何を言っても構わない。それどころか、言えば言うほど、よいのである。

 

 「あなたたちの文化はなるほど私たちの知ったことではない。だが私から見ると、ここのところはやはり野蛮と言わざるを得ない。こうしてみたらどうだろうか。もし、お厭でなければだが……」

 

 当然ながら、正しく高貴な人たちの意見を聞いたほうが出世するので、黙って従うことが流行した。そうこうするうちに、困ったことになった。自分の人生が、つまり、住んでいる場所や、愛する家族や、いつも話している言葉までが、すっかり遠のいてしまったのだ。もはや自分がどこにいるのかもわからないし、家族の表情も読めないし、舌はもつれるといった具合だった。錯乱して、外国語のように母国語を書いてみたりする。

 

Kodomo-gokoro no ayasisa ha

Syroyi koneko no tme kay na.

(北原白秋「思ひ出」ローマ字本)

 

 それは外国語を取り入れることで母国語を生まれ変わらせた先祖の成功譚を再現しようとする、遅れてきた人々の無様な足掻きであった。人間はそもそも無様な生きものだから、この試みは間違いではないし、まったくの無駄でもなかった。けれども、それは間違いなくひどい倒錯であった。たとえば南洋の島に暮して土着の住民の裸体を描きながら奴隷商人であった先祖の思い出に浸り、画布のうえに人類の命運を問いかけた画家などの場合に比べると、ずいぶんな自己卑下であった。要するに国語の改革者たちは常に、舌を抜かれた実験動物の様相を呈するのである。

 

 かくなる上は、開き直るに若くはない。絶対的な言葉にすがるのだ。

 

ジャン=ピエール・ブリッセの主要な思想はこうだ。《神である言葉はそのひだの中に、最初の日からの人類の歴史を、それぞれの国語の中に愚直な者たちも学者たちをも驚かせるほどであろうほど確かに反論の余地もなく、それぞれの民族の歴史を保存している。》一挙に、彼は言葉の分析によって、人間が蛙の血をひいていることを明らかにすることを許される。

(ブルトン『黒いユーモア選集』より

「ジャン=ピエール・ブリッセ」高橋彦秋訳)

 

 蛙の子は蛙だが、鳶が鷹を産むこともあると信じて、無限とも思える実験が繰り返されてきた。だがこれらの実験の結果は必ずしもきちんと整理されているわけではなく、おまけに研究者同士の不和によって故意に隠匿されたり、廃棄されたりすることもあったために、結局は実験の過程も無限と思える分岐を繰り返すほかはなくなり、バベルの塔ばかりが誇らかに屹立する仕儀と相なったのである。

 

 要するに言葉の本質は通じないところにある。スペインを訪れたフランス人にはときおり耳を通過する聞き慣れた単語という誘惑があり、海を渡った日本人には何一つ理解できないという謎がある。このように程度の差こそあれ、不可能があってはじめて可能があるのだから、「可能」の否定形としてしか「不可能」という言葉を作れなかったことは返す返すも残念だ。

 

 ヘロドトスによれば、エジプト王プサンメティコスは、二人の子供を羊の群れのなかで育てさせたが、その理由は、そうすると子供は自然と、最も古い文明の言葉を話すようになるからだという。つまり子供がただそこで生れたからという理由で、あるいはただその言葉を話す人に育てられたからという理由で話している言葉とは、太古の記憶を抹消する権力の言葉に他ならないのだ。

 

 権力の言葉によって本が書かれる。その本はひとつの建造物に集められる。その建造物はたいてい街のどの建造物よりも立派で、そこは図書館と呼ばれる。ボルヘスによれば人々は視力を失うまで、そこに収蔵されている本のうちに神の言葉を見つけようとして血眼になる。だがそんな言葉はどこにもないのだ。図書館は焼かれなければならない。ウンベルト・エーコが塔の形をした図書館を焼いたように。(秦の始皇帝もこのことを知っていた。この君主の野望は二つあった。国を壁で囲むことと、過去の書物をすべて燃やすことだ。)

 

 そのように書物を失ったときこそ、はじめて、私たちは笑うことができる。その笑いを擬声語で表現すると、おそらく次のようになる。

 

esperruquancluzelubelouzerirelu

(えすぺるこんくりゅうずりゅべるうぜりるりゅ)

morrambouzevezengouzequoquemorguatasacbacquevezinemafressé

(もらんぶうぜゔぇざんぐうずきゅおくもるがたさっくばっくけゔぇじんぬまふれっせ)

morderegrippipiotabirofreluchamburelurecoquelurintimpanemens

(もるでれぐりっぴぴおたびろふれりゅしゃんびゅるりゅれこけりゅらんたんぱねまん)

(ラブレー『ガルガンチュアとパンタグリュエル 第四の書』)

 

 これは紛れもなく自由の呱々の声だ。だがココットの声が魅惑的でありながら恐ろしいのと同じように、この呱々の声も私たちに警戒させる。あまりもの自由を前にすると、人は尻込みする。

 

 私たちはやはりプロメテウスの子孫として、縛られていなければならないのだ。緊縛は冷静さを目覚めさせる。そのとき渇望するのが書くことであるなら、やはり書かなければならないだろう。書くことは自由の終わりであると同時に始まりなのだから。

 

当時のわたしは、別の言語が存在し得るとは、ひとりの人間がわたしには意味不明の単語を口にすることがあり得るとは、想像することもできなかった。

(クリストフ『文盲』堀茂樹訳)

 

 私たちはみなそこから出発する。もうすこし遡るなら、「ひとりの人間がわたしに意味の通じる単語を口にすることがあり得るとは」想像もできないところから。しかしその驚きはすぐに忘れ去られ、気づけば未知の言語に対する怒りとか、その奥に潜んでいる恐懼とか、あるいは秘密めいた言語を読み解くことができるようになった優越感とか、その奥に潜んでいる恐懼とか、あるいは見ず知らずの人と意思の疎通を図ることができることの単純な喜びとか、その奥に潜んでいる恐懼とかに次々と出会い、混乱のうちに最期を迎えるのだ。つまり神にすがろうにも、私たちは鎖に四肢を繋がれていて、なおかつ、神を見上げようとするその瞬間に、神は消えてしまうのだ。

 

 それにしても、私たちの心を古代の遺跡に掘られた幾世紀もまえの訪問客の名前のように世界に刻みつけ、それが風雨に浸食されてすこしずつ磨耗してゆく悠久の美しさを眺めさせてくれる言葉というものが、同時に私たちの心の有様を永遠に隠匿してしまう錠前になるとはなんという神秘だろうか。

 

 この事実に絶望する人を私たちは責めるべきではない。だがどうせなら、そこに愉楽の種を見つけるべきだ。すべてが初めから明らかな世界と、破るべき錠前を与えられる世界とでは、どちらが幸福か言うまでもない。たとえその錠前が、決して破り得ないことがわかっていたとしても。

 

 マスターキーが存在しないとなると、もはや私たちにできるのはそれぞれの国の職人たちがどのような鍵を作ったのかを探る、物見遊山の旅に出ることくらいだろう。その職人というのは、必ずしも王家の禄をはむような、お高くとまった御用達の連中ではない。むしろ市井の誰でもない人々、誰であってもそれを嗅がずには済まないような、その国ならではのごく当たり前の空気を醸成している、普通の人々のなかに、彼らは混じっているのだ。

 

 それでは、彼らに会いにゆくとしよう。

(第04回 了)

大野ロベルト

 

 

【画像キャプション】

「すべての権力はやがって燃え上がって灰となる……」

トマス・コール「帝国の衰退」1836年

 

 

 

 

 

北原白秋歌集 (岩波文庫) 黒いユーモア選集〈1〉 (河出文庫)

 

ガルガンチュア―ガルガンチュアとパンタグリュエル〈1〉 (ちくま文庫) 文盲: アゴタ・クリストフ自伝 (白水Uブックス)

 

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