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 レースのスカートを手に入れたおんなのこは、さんぽに出ます。さんぽは絵本の見返しから始まっていて、装飾の文様が道行きを示すという、絵のあるテキストの愉しみの本質がいきなり示される。こみねゆらの絵は、おんなのこのレースのスカートそのもののように繊細だ。

 

 繊細であって、なおかつ誇り高い勁さも備えている。おんなのこは、何があっても泣くもんか、と歌いながら歩いてゆく。この自立した幼い女の子のモチーフは、江國香織の作品にときおり登場する。それは『長靴下のピッピ』などのプレテキストを踏まえているかもしれないし、そうでないかもしれない。わかっているのは、それがいつも変わらず、実は女の子の夢だということだ。

 

 おんなのこには親がいない。すなわちしがらみがない、これも江國香織の理想とする女の子像だ。女の子たちはたいてい、しがらみによって期待される像を演じさせられている。そこをどうやり過ごすかこそが戦略であり、テーマであるとも言える。しかしそれは社会的な戦いなどではない。

 

 この絵本の物語を要約すると、もぐらとへびに出会って、それから高飛車なお皿を家に連れ帰る話ということになろうが、それでは肝心なところを見落としてしまう。おんなのこに最初に声をかけるのは、車に乗ったお皿である。問答無用でその車に乗れと命じられるが、おんなのこは拒否してさんぽを続ける。しつこく呼びかけるお皿は、立派なお屋敷のお皿だ、と言うばかりだ。

 

 おんなのこは、お皿は自分のことを語ってないと言う。自身の社会的階級を示すばかりで、自分自身のことを述べてない、という意味である。これでわかるように、お皿が乗っていた車は、社会の意だ。問答無用でそれに乗れ、と言われて、おんなのこは拒否したのである。

 

 自分自身のこととはすなわち、何を欲しているか、ということだ。もぐらは土中の家のカーテンを欲し、へびは赤ん坊のおくるみを欲している。いずれも不要物としか思えないが、彼らから求められれば、おんなのこはレースのスカートの後ろ側を切り取って気前よく与える。なぜなら、それがおんなのこというものだからだ。

 

 おんなのこのお尻は剥き出しになるが、自身の目に入る前側さえあれば満足だ。言うだけ野暮だが、ここにはもちろん性的なメタファーを感じる。求められるに応じて、おんなのこはすぐにレースのスカートに鋏を入れる。社会的コードに沿って自分の価値を高めるといった、処女の計算はしない。では警戒心のない、ただのあばずれかというと、そうではない。家の戸締りに気を遣ってもいる。

 

 お皿は、立派なお屋敷ではもう使ってもらえないのだと訴える。社会的コードに寄りかかっているお皿のプライドは割れやすい。連れて帰ってほしい、というお皿の望みもまた、おんなのこは聞き入れる。家庭を守る女性の象徴であるお皿とエプロン(前だけになったスカート)を手に入れた、と彼女は思う。そう、おんなのこというものは求められるまま与え、失うものなど何もないのだ。

金井純

 

 

 

 

 

 

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