妄想彼女

フジテレビ

土曜夜 11:40

 

No.088_TVドラマ批評_01

 

 

 理想の彼女がいる、という設定のブログで人気を博し、本が売れた28歳の男(の子?)。現実のカップルをバカにして、独りの方がよほどいいと言っている。独りといっても理想の彼女を妄想する方がいいということで、つまりはリアルな女は妄想にかなわない、と言っているだけだ。孤独を愛しているわけではないし、それに耐えられもしない。

 

 つまりは今の若いコ、ということだ。結局はどっちつかずに映るが、いつの時代にもティピカルな性格、すなわち大多数とはどっちつかずで中途半端なものである。そうでなければ、そもそも大多数になるはずもない。ただ、妄想彼女というタイトルのブログをやっていることで、少しだけ極端にずれていた。この主人公の見どころといえば、それしかない。

 

 で、妄想の中にいた彼女が現実に現れる。そこからドラマが始まるので、かなりチャレンジングであるかもしれない。見どころを失い、彼女ができたところから始まるのだから。ブログの人気はがた落ちになり、ドラマの視聴者もつまらなくなったところから観始めるのである。

 

 妄想彼女のブログにアクセスしたくなるのは、そこに狂気が垣間見えていたからだろう。ロングヘアの鬘を女に見立てて抱きかかえて路上でキスするとか、一緒に食事しているつもりで「あーん」して食べさせる身振りをするとか。確かにちょっと目が離せない。

 

 そしてやはりこの種の狂気は、小説や映画の世界では素晴らしい描かれ方をする可能性があるが、あまりテレビ向きではないのかもしれない。テレビは常に口実として、向日性を求めるのだ。エゴの狂気を孕んだ男(の子?)がまっとうな感受性を獲得してゆく。その過程を描くため、という前提があって初めて「治癒前」の様子を晒せるわけである。

 

 それをそもそも「治療不能」、あるいは人の「なれの果て」として捉えるのは、テレビの仕事ではない。現実化した妄想の彼女は、彼を治癒させるための存在である。彼を甘やかしつつ成長させる。これはドラえもん以来のテレビの伝統であるが、ドラえもんと違い、彼女は現実化した時点で妄想としての魅力を失い、「なんかウザい」存在となる。

 

 しかしもはや彼は、「妄想彼女」のブロガーには戻れない。独りで妄想に浸る者を指差して笑う側になってしまったのだ。それは成長と言えば成長だし、後退であるとすれば後退でもある。が、社会化されることに意味がある、という前提で成長物語を描くのがテレビだ。

 

 なぜならテレビは、テレビを観る大多数に照準を合わせなくてはならないものだし、その大多数には社会性が備わっている、と信じざるを得ない。テレビを観るのが少数派になりつつあり、つまり若い人の大多数はこのドラマの主人公と同様に、個別的なネットの世界に生きようとしているのかもしれない、といったことが妄想なら、テレビは救われるが。

田山了一

 

 

 

 

 

妄想彼女 昔のグルメガイドで東京おのぼり観光

 

 

■ 予測できない天災に備えておきませうね ■