オール讀物_No.012_01

 

 

 今月号の特集はオール様定番の「エロティックな誘惑」よ。このところエロ特集では常連の石田衣良先生も書いていらっしゃいますわね。でもね~、はっきり言うとちゅまんないのよ。アテクシ、「エロ、お嫌いですか?」と聞かれれば、「お好きですぅ」とお返事できるくらいはお・と・なよ。だけど中途半端なエロ小説を読んでると、いっきに老け込んじゃうような気がしますわね。一昔前は有名若手女優さんが、いつヌードになるかだけで90分引っ張れる映画もござーましたけど、もうそんな時代じゃありませんよことよ。

 

 オール様の読者層が、マンガやゲームやインターネットになじみがない、もっと言えば最新テクノロジー恐怖症(フォビア)の御高齢者の皆様に支えられていることはひしひしと感じますわ。心のどこかで読書はマンガより高尚だと思っていて、実際、マンガやアニメでは今ひとつ楽しさを味わえない世代よ。アテクシも、どんなエッチなことが書かれているんだろうってワクワクしながら森鴎外先生の『ヰタ・セクスアリス』をこっそり読んだ世代ですから、そういった心境はよくわかります。でもアテクシたちの世代はそんな読書を積み重ねて、小説にとってエロが手段であって目的ではないことを理解してきましたの。中学生のオナニーのようなエロ小説を読まされたんじゃたまったもんじゃないわ。ぷんぷん。

 

 小説にとって男女の性愛が重要な表現要素であるのは言うまでもありませんわ。エロスという要素を両極端に引き延ばせば、純愛か狂気に振れることになりますわね。極端(極点)を描こうとすれば純文学作品になっちゃって、これはこれで大衆小説好きには困ったことよ。でも作家様には、常に読者よりも高い認識を持っていていただきたいの。エロスのベクトルには常軌を逸したような純愛と狂気があると分かった上で、中庸な大衆小説を提供していただきたいのね。お馬鹿な大衆小説好きの読者はこんなものといったお作品が一番イヤですわ。オバサンなら「ドキドキしましたわ」と作家様に言って差し上げられるけど、それは「このレベルで小説家としてやっておゆきになるつもりなのかハラハラしましたわ」という意味かもしれませんことよ。

 

 エロスを書くのはどんな作家様でも勇気がいると思いますわ。でもエロ作家と言われてもかまわないという覚悟を決めなくちゃダメよ。全盛期の宇能鴻一郎先生は新しいポルノ小説の連載を始める際に、横軸に女子高生、女子大生、OL、若妻といった女性のタイプを並べ、縦軸に浮気、痴漢、SM、売春などのセックスの種類を並べて、編集者に今回はどのタイプの小説にする?とおたずねになったそうですわ。アテクシ、宇野先生の熱心な読者ではございませんけど、先生のほとんど退廃を感じさせる破れかぶれはよくわかりましたわ。あんな無茶をなさる作家様は、普通の人ではございませんことよ。

 

 『エロ事師たち』の野坂昭如先生も素敵でしたわぁ。野坂先生を大衆作家とお呼びするのははばかられますけど、エロスの両極点をご理解なさった上で、エンターテイメント小説もお書きになれる素晴らしい作家様でございます。谷崎潤一郎先生までさかのぼると、もう何も申すことはございませんわね。谷崎先生は本気でエロい大衆小説を書こうとして、なぜか純文学作家に突き抜けてしまったようなところがありますわね。中途半端なエロ小説を書きながら、中途半端な良識的社会コメンテーターの作家様なんて魅力ないわよ。アテクシ、女子高に講演に呼ばれて壇上に登るなり、マイクを直しながら「この形は卑猥だなぁ」とおっしゃった野坂先生になら、心からキャァァァって歓声を上げられるわ。

 

 昭和六(一九三一)年春、文藝春秋の菅忠雄が報知新聞の二階の応接間に野村胡堂、本名長一を訪ねてきた。

 「雑誌を創めることになったが、その初号から、岡本綺堂さんの半七のようなものを書いてくれないか」

 「綺堂先生のようにはできないが、私は私なりにやってみよう」

 と「簡単に」胡堂は引き受ける(野村胡堂「平次身の上話」より)。(中略)

 依頼から締切までの日数は、一週間から十日しかなかった。

 昭和六年三月五日、「オール讀物」創刊号の広告が、一面の下半分という大きさで報知新聞を飾った。

 吉川英治、佐々木味津三、直木三十五、子母澤寛、菊池寛、そしてこの九月末までNHK朝の連続テレビ小説で話題となった柳原白蓮の「妖姫白縫譚」と並んで、野村胡堂「金色の処女」が紹介されている。いわく「関八州にその名を謳われた捕物の名人銭形奇談――将軍家光を呪う父娘の運命は?」

(「『銭形平次七不思議』烏兎沼佳代」)

 

 しばらく前から野村胡堂先生の『銭形平次』や岡本綺堂先生の『半七捕物帳』シリーズが手軽な文庫本で読めるようになりましたの。今号には烏兎沼佳代先生が胡堂先生についての短いエッセイをお書きになっておられます。それを読むと現在では考えられないような簡単で乱暴な依頼で胡堂先生は『銭形平次』シリーズを書き始められたようです。それだけ大衆小説の需要が高まっていたのでしょうね。また芥川賞・直木賞が創設されるのは昭和十年(一九三五年)でございます。現在にまで続く文壇システムは芥川賞・直木賞の創設から始まったと言って良いので、胡堂先生が『平次』を書き始められた昭和六頃は、今とは違う大局主義的な作家様の人選が行われていたことが烏兎沼先生の文章からわかります。

 

 烏兎沼先生は「時代が胡堂と平次親分を求めているのか、胡堂ブームは確実に広がりつつある」と書いておられます。でもそれは胡堂先生だけではありませんわね。綺堂先生の『半七』や池波正太郎先生の『鬼平犯科帳』もそれなりに読まれていますし、安部公房先生や太宰治、三島由紀夫先生などのお作品などもロングセラーになっております。現役作家様のご本の売れ行きは純文学はおしなべて低調で、大衆文学でもドラマや映画とタイアップしなければなかなか売り上げを伸ばせなくなっています。読者の興味が過去の作品に向かいがちなのは、そこに今では失われてしまった安定があるからですわ。現在の不安な状態をなだめるように、読者の目が過去の安定したお作品に向かっていると言っていいと思いますの。

 

 初めて読むと、まず、「あれ? 銭を投げないの?」と不思議に思う。(中略)次には、「捕物なのに犯人を捕まえないの?」と不思議な銭形ワールドに引き込まれてゆく。

 銭を投げない回は八割以上、犯罪者を許す回は七割以上との統計がある。

 胡堂の学生時代の専門は法律で、帝大で近代法に新風を吹き込んだことで知られる牧野英一に師事した。当時から法律が刑罰主義であることに反感を抱き、「取締るのに刑罰ではなく、なにか新しい法律ができたらいい」と願い、「ただ罰することだけが犯罪の解決ではなるまい」という気持ちをもちつづけてきた。

(同)

 

 「ただ罰することだけが犯罪の解決ではなるまい」というのは胡堂先生の根本的な思想ですわね。そこには次第に息苦しさを増してゆく当時の世相に対する、胡堂先生の違和感が込められていたのかもしれませんわ。権力が大義を振りかざせばかざすほど、反体制勢力も別の大義を掲げるようになるのが世の中の常よ。立場が代わり、時代が変わってしまうとどちらが正しいかは一概には言えなくなるのよ。また戦後の混乱期に起こった犯罪は、今とは違う質のものがおおございましたわね。胡堂先生は「大岡裁きの面白さ、旧約聖書のソロモンの伝説、でいこうとなった。犯人を逃がしてやるのが主眼です」とおっしゃいましたけど、銭形ワールドは抑制された勧善懲悪世界なの。

 

 胡堂先生を始めとする大衆小説作品が広く読者に愛されたのは、それぞれの作家様がなんらかの形で世の中の変化を捉えていたからだと言ってもいいと思いますわ。それは宇能鴻一郎先生や川上宗薫、団鬼六先生といった、いわゆるポルノ作家の先生方も同じね。彼らの作品は時代を捉えており、また作家先生方には書いてはいけないことをギリギリの抑制で書くという攻撃性がございましたわ。オール様に限らず大衆小説誌ではソフトポルノと時代小説が二大トレンドと言えるほどよく特集されます。でも現代を捉えなければ文学としての要件を満たせませんことよ。時代小説を書くにはお勉強が必要だけど、ポルノ小説は簡単そうに見えるわね。でも実際は難しいわ。下手をすると作家様の力のなさが赤裸々に暴かれてしまうのよ。

佐藤知恵子

 

 

 

 

 

銭形平次捕物控傑作選 1 金色の処女 (文春文庫) 半七捕物帳〈1〉 (光文社時代小説文庫)

 

 

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