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第37回「宿木」ふたたびの主人公論

 

 

 そのころ、後宮に藤壺と呼ばれる女御がおられました。明石中宮に気圧されるかたちで、お子も内親王(女二の宮)が一人おられるのみですが、中宮腹の女一の宮と変わらずに帝に愛され、華やかにお暮らしでした。

 

 しかしながら藤壺女御が亡くなり、女二の宮の行く末を案じた帝は、薫に降嫁させようと考えます。ある時雨の降る日、碁を打っておられた帝は薫を呼ばれ、勝負に掛け物をと仰せになります。三番勝負にお負けになった帝は薫に菊の花を賜ります。そのように結婚をほのめかされても、薫の心は浮き立ちません。今さらそんな俗人のようなことを、と思う反面、これがもし中宮腹の女一の宮だったら、と思い上がったことも考えるのです。

 

 そんなことから夕霧の大臣は、六の君の婿としてはやはり匂宮しかないと思い定め、匂宮の母である明石中宮に繰り返し訴えます。匂宮は夕霧大臣を窮屈に思っているだけで、六の君との結婚は嫌ではありません。一方では真木柱の娘である紅梅の姫君にも心惹かれています。そうこうするうち、その年は過ぎてゆきます。

 

 母女御の喪が明けた女二の宮は、もう薫の求婚を待つばかりです。帝の意を汲んで、それらしく振る舞う薫ですが、内心はいまだ大姫の面影を追い求め、身分の高い姫との婚儀を待ち望んではいません。一方の匂宮の六の君との縁談も進み、それが中姫の耳に入ります。聞かない振りをしていますが、不安な中姫は、やはり宇治を出るのではなかった、と後悔します。

 

 匂宮は中姫に対し、いっそう優しく接しますが、中姫の体調はなんとなく優れません。薫も中姫が気の毒で、今さらながら匂宮に譲ったことを悔しく思います。

 

 宇治の姫たちと似たような境遇で、気の毒に思って家に呼んだような女房も大勢いるのですが、格別に心に留める者はいません。大姫を偲んで朝まで庭を眺めていた薫は、女郎花には目もくれずに朝顔の花を手折り、中姫に届けます。匂宮は留守ですが、気分の優れない中姫への見舞いです。

 

 中姫の声は、やはり大姫によく似ていると感じられます。薫は、父の源氏が亡くなってから、今の六条院は夕霧大臣のもとで復興したけれど、大姫を喪った自分の心は親を亡くしたよりも癒やし難い、と泣きます。中姫もまた、これからの境遇を思うと、宇治に引きこもりたいと言われるのですが、それを押し留めて帰ります。

 

 六の君との婚儀の日にも、匂宮は中姫のいる二条城に留まっていたため、六条院から迎えの者が来てしまいます。後ろ姿を見送るにつけ、涙が溢れるのも情けなく思われます。老いた女房たちがあれこれ言い合うのも聞き苦しいのです。

 

 派手好きな匂宮は、やはり新婦の六の君に気を惹かれます。どうやら懐妊されているらしい中姫を大切に慰めますが、結婚三日目の儀式は華麗に執り行われます。

 

 その匂宮の様子に、我がことを重ねて眠れぬ薫は、馴染みの女房のもとで夜を過ごしますが、明けぬうちからさっさと出てしまう気のなさです。一方の匂宮は、昼の光に見る六の君の美しさに愛情を深めます。身分柄もあり、それからは六条院にいつくことになり、めったに二条院の中姫を訪れることはできません。

 

 そんなことから煩悶された中姫は、どうしても宇治に戻りたいものだと、薫に文を書きます。恋文をもらったわけでもないのですが、薫は匂宮が来ないときを見計らって、いそいそと中姫を訪ねます。中姫もまた、大姫の言に従って薫と結ばれていれば、と思わなくもないのでしょう。

 

 薫は匂宮への非難の言葉も交えながら、中姫を慰めます。中姫は宮への恨みは胸におさめて、ただ世を厭う気持ちから宇治へ帰りたいと、薫に同行を求めます。そればかりは匂宮の許しがいるが、自分には安心して託してくださることだろう、などと言いつつ想いをほのめかします。奥へ引っ込んでしまおうとする中姫に、それで宇治へはいつ頃、と機嫌をとり、御簾の下からその袖をとらえます。

 

 薫は中姫に迫りますが、いつものごとく自制して出ます。すでに明け方なのでした。やはり身重であられたらしい中姫を悩ませてはと反省しますが、それでも生きてはいけないほどに恋い慕う、あやにくな心なのです。かくも賢しげに悟り済ました様子であるのに、男というのは嫌なものです。大姫が亡くなったときには取り返しようもないことで、むしろこれほど心乱れなかった。匂宮が中姫のもとへお渡りになった、と耳にすると、胸がつぶれるように嫉妬するのです。

 

 放っておくことにさすがに気が咎め、二条院へ渡られた匂宮は、恨みがましい様子も見せない中姫をますます愛しく思します。が、その中姫から薫の移り香を嗅ぎつけて、疑念を抱きます。薫の振るまいが厭わしく、匂宮に甘えたいとすら感じていた中姫は、あらぬ濡れ衣に応える気も起きません。

 

 あらためての中姫の魅力に、親しく接する薫が心を動かされていないはずがないと、家捜しされますが、恋の証拠となる文などは見つかりません。不安な気持ちからそのまま二条院に留まられ、六条院へは文だけを日に何度も送られます。

 

 匂宮が二条院に留まっておられると聞き、薫はまた穏やかではありませんが、強いて気持ちを鎮め、衣料をお送りすることにします。匂宮ももちろん経済的な援助はされていますが、そう細々したことには気が回りません。華美な六条院とは比べものにならず、みすぼらしい姿の童もいるのを恥じておられる中姫の気持ちを汲んで、目立たないようにそっとお世話するのです。乳母(めのと)たちの中には、そんな薫と比較して世間知らずの匂宮を誹る者もいます。薫もまた何不自由のない貴公子ではありましたが、かつて宇治の八の宮邸に通ううち、不如意で寂しい生活というものを知ったのでした。

 

 中姫は、そんな薫の気持ちが心苦しく、姉さえ生きていればと思います。匂宮の足が遠のくことよりも、薫の懸想の方が悩ましいぐらいなのです。

 

 薫がまた二条院を訪ねますと、中姫は胸の痛みを訴えます。聞く者があるので、薫は思うにまかせて言いたいことも言えず、いつものように大姫への追慕を口にされます。

 

 「宇治の辺りに堂を建て、大姫に似た人形を作ったり、絵師に肖像を描かせたりして勤行しようかと考えている」と薫は言います。中姫は昔の物語や故事を踏まえ、禊ぎのためにその人形を川に流すといったこともあり得るのではないか、また黄金を求める絵師がいそうだ、と言います。

 

 「心に叶うものができるはずもありません。本物の花を降らせたという工人のような者があればなあ」と嘆息する薫に、「人形といえば、最近こんなことがありました」と、中姫は語りました。八の宮が昔、情けをかけた女の産んだ娘が訪ねてきた。自分たちとは育ちが違い、八の宮も子と認めなかったのだが、会ってみると驚くほど大姫と似ていた、と言います。中姫が自分を諦めさせるために言い出したのだろうと恨めしく思いつつ、薫はやはりその君に気を惹かれます。

 

 九月二十日過ぎ、薫は追憶のために宇治へ向かいます。弁の尼と語らい、中姫の今の境遇はさほど嘆くことでもない、なんと言っても悲しいのはやはり大姫のことだ、と泣きます。阿闍梨とは大姫の忌日のお経や仏像のこと、またこちらの寝殿を壊して堂を建てることを相談します。故人の思い出のある寝殿を思い切って壊し、作り替えることは仏道にかなっている、と阿闍梨は誉めます。

 

 亡くなった実父の柏木のこと、大姫のことなどを弁の尼から聞くついでのようにして、大姫に似ているという娘のことを訊ねます。八の宮の奥方が亡くなってすぐのことで、中将という女房だったと言う。子を産んでからは八の宮から面倒がられ、宮仕えを辞めて陸奥の守の妻となり、任国に下っていた。そんなことから懲りた八の宮は、聖のような生活に入られた、ということである。

 

 その娘の母は、八の宮の奥方の姪にあたる。弁の尼とも縁戚であり、薫は自分の意向をさりげなく伝えてほしい、と頼みます。夜が明けると、遅れて届いた京からの荷の絹や綿を阿闍梨と弁の尼に贈ります。帰り際に、深山木に絡みついた蔦の紅葉をちぎらせて、中姫へのお土産にします。

 

やどり木と思ひ出でずば木のもとの

  旅寝もいかに寂しからまし

 

 すると弁の尼が、

 

荒れはつる朽ち木のもとを宿り木と

  思ひおきけるほどの悲しさ

 

 と応えます。

 

 八の宮の深い仏道思想のもとに宿木のように寄っていた自身であった、という薫の歌に、このように八の宮と大姫を亡くした宇治の山荘を、荒れはつる朽ち木と応える弁の尼です。

 

 その宿木の紅葉が中姫のもとに届いたとき、ちょうど匂宮がいらしていた。「美しい蔦だね」と言い、薫からの文を取って読まれます。中姫の困るようなことは書かれていませんでしたが、匂宮はやはり嫌味を言いつつ、中姫の魅力の前にはどんな過失も許すだろう、などと思われます。姫に琴を弾かせ、歌を合わせるなどして仲良く過ごすのです。三、四日もそうしている匂宮に、業を煮やした夕霧大臣がわざわざ迎えに来て、強引に六条院に連れ帰ります。

 

 一月の末から、身重の中姫は苦しまれます。匂宮は方々で祈祷をおさせになります。愛情が深いことは知れていたものの、いまだ尊敬を受けるに至っていなかった中姫ですが、このときは明石の中宮をはじめとする各方面からのお見舞を受けます。

 

 薫の婚約者である女二の宮の裳着の式が近づいています。母を失い、頼りになる外戚のいない女二の宮のために帝が自ら世話をされるので、かえって羨ましいぐらいのあり様です。その式が終わり次第、通いはじめるようにとのことでしたが、薫は中姫の容態が心配で、それどころではありません。

 

 二月の初めに、薫は権大納言に昇進しました。自邸で祝うべきなのですが、中姫が苦しんでいる二条院と近いため、躊躇しています。すると(同じ源氏を父とする)兄にあたる夕霧が、その宴席を六条院に設けてあげます。大饗宴になりましたが、匂宮は中姫が気がかりで、宴が果てる前に二条院に戻ってしまいます。権家の娘で驕っておられる六の君は、それが気に入らず、恨みに思われます。

 

 その早朝、中姫は男児を産みます。多くのお祝いがあり、薫も嬉しく、安堵しますが、こうなっては自分が割ってはいる余地はなくなることだろうと思います。

 

 その二月の二十日過ぎに、女二の宮の裳着の式が行われ、その晩から薫が通って降嫁されます。まだ全盛である在位中から、帝自ら婿取りに向かわれたというのも例のないことでした。これを非難がましく言う者もいますが、薫の運命の素晴らしさには夕霧大臣も、「源氏ですら、薫の母宮をいただいたのは晩年になってからだった。自分もまた、誰も許さない落葉の宮を拾ったものだ」などと言われます。

 

 夕霧は口には出しませんが、薫の実父で自身の親友であった柏木のことも思い出しているに違いありません。柏木は、源氏の晩年に妻となった女三の宮と通じて亡くなり、その後、夕霧は柏木の正妻であった落葉の宮を自分のものとした。宮たちの降嫁をめぐる顛末が薫という人を生み、今ここで薫がまた降嫁を受けるというのは、因果として感慨深いものがありましょう。

 

 薫は大姫のことが忘れがたく、宮中の藤壺にわざわざ通って行くのが辛いので、女二の宮を引き取りたいと思います。母宮は喜んで賛同されますが、帝はまだお手元から放したくないご様子です。この薫の母宮と帝とは異腹の兄妹であり、帝から宮へのお手紙には女二の宮のことばかり綴られています。こんな立派な母と舅を持つ薫ですが、とりたててありがたくも思えず、宇治の御堂の造営が重大事なのです。

 

 若宮の五十日のお祝いに、薫はまた、匂宮の留守に二条院を訪ねます。もう結婚されたのだから、と気を許す中姫に、「気の進まない結婚の苦痛は想像以上です」と、薫は遠慮なくこぼします。中姫はたしなめつつも、これほどの光栄に浴しながら、なお大姫を忘れ得ぬ薫を嬉しくも思います。

 

 薫の求めに応じ、若君を見せてさしあげると、大変喜びます。自身の妻の女二の宮に早く子ができないか、などとは露とも思わない薫なのでした。こんな変わった人が帝の婿であるとは、公の方の能力はきっと非常に優れていたのだろう、と見るしかない。

 

 女二の宮が薫の邸に移られる前日、藤壺で藤花の宴が開かれます。さまざまな楽器が用意され、源氏が自筆で書き、女三の宮に与えた琴の譜が披露されます。柏木が夢に出てきて、子孫に伝えよとほのめかした笛も、この美しい機会にと夕霧が出してこられたらしい。

 

 帝に杯を奉るのを、夕霧大臣が自分ばかりではと薫におさせになります。返しの杯を賜り、拝舞されるのもたいへん立派で、身分にしたがって按察使大納言の下の座に帰られるのがお気の毒なくらいです。その按察使大納言(柏木の弟)は、自分こそが女二の宮の婿になりたかったものを、と悔しく思っておられます。

 

 その夜、女二の宮を自邸にお迎えします。妻として打ち解けて見る女二の宮は小柄であられ、上品で欠点とてありません。悪くない運命だったと得意になる反面、それで昔の傷が癒されることもなく、やはり御堂の造営ばかりに打ち込まれるのでした。

 

 四月の二十日すぎ、宇治に向かいます。造築中の御堂を見て、弁の尼のいる山荘に立ち寄ろうとしたとき、東男が大勢付き従った女車が橋を渡ってくるのに遭遇します。田舎者と見ましたが、それもまたこの山荘を目指して来るようです。誰かと問うと、前の常陸の守の娘がここに泊まって初瀬にお参りし、戻ってきたところだと言います。

 

 前に聞いた娘だろうと思った薫は、自分が来ていることを口止めし、車から降りてくる人を覗き見します。その頭のかたちや身体つきは、大姫によく似ています。疲れているらしく、伏せったままのその人をおいて、女房たちが栗など食べる物音が聞き苦しいのです。こんな身分の女たちは目に留めたこともない薫ですが、飽かず眺めます。

 

 呼び起こされたときの目つき、髪のあたりが大君にそっくりです。弁の尼に答える声は中姫にも似ています。これより低い身分であっても、これほど似ている人ならばどこまでも追いかけようと思うのに、この君はまさしく八の宮の娘ではないか、と涙がこぼれます。薫は弁の尼を呼び、仲立ちを頼むのです。

 

 ここまでが宿木の巻です。いよいよ源氏物語の最後の女性、浮舟が登場し、宇治十帖も大詰めを迎えます。この浮舟を挟んで、薫と匂宮との関係性、対立構造はいっそう顕在化します。

 

 さてそれでは、ここまで読んできた中で物語の主人公は誰か、また主人公とは何かということを再考したいと思います。「宇治物語の二人の貴公子」であり「二人の主人公」といった表現もされることがあり、しかしそれは「主人公」という言葉の定義によるので、「二人の主な登場人物(男性)」というつもりの表現である、と言われれば、二人とも「主人公」と呼ぶのが適切かどうかに拘る必要はない、とも言えます。読者としてはもちろん、印象に残る二人の登場人物について語ろうとしているに過ぎないわけですから。

 

 ここで「主人公」について考察する理由は言うまでもなく、創作者の立場を前提に、作家の執筆を追体験するという文芸創作学科の講義ならではの目的があってのことです。主人公が誰かということは、実は読者にとってはどうでもいい。ある小説を読み、そこへ出てきたほんの脇役が心に残り、主人公のことなど忘れてしまう、ということもあり得るし、それもまた立派な読書体験です。

 

 しかし創作者にとって、誰を主人公として想定しているかということは、出たとこ勝負の結果論ではないはずです。なぜなら文学作品を完成させることは作家の思想を表現することで、主人公とは、主人公自身の認識や存在のあり様で、その作家の思想を体現するように担わされた者だからです。

 

 特異な例外として、すべての登場人物を等しく相対化し、超越的な神の視点から彼らを俯瞰するように描くという書き方も、観念的にはあり得ます。それが小説としてはあまり成功するとは思えないのは、小説最大の武器である内面の告白を活用できないからです。それぞれの登場人物に内面を告白させたところで、それらは相対化されていて、すなわち読者が感情移入できない。主人公の最大の利得である読者の共感を禁じているのですから、小説としての魅力は半減します。

 

 これらの登場人物の告白は、読者からすると距離感のある、芝居の台詞のように読めます。つまりこういった小説は多分に演劇的に映る。相対化されたそれぞれの内面が表層的に見えるわけです。読者はそのとき、神の視点から彼らを俯瞰することになり、それは観客の視点ということになります。舞台で演じる者がしばしば、神の視点を想定しながら観客に向かうというのは、このような構造からも納得がいきますね。

 

 ですから小説においては、内面を告白しているからといって主人公であるとは限らない。内面の告白は主人公であることの必要条件ではありますが、十分条件ではないのです。

 

 以上のようなことは、以前に、「薫が主人公である。なぜなら匂宮には内面が欠落しているから」と述べたことへの補追です。この「宿木」に至るまでに、匂宮の内面が少しずつ露出してきている。本来、浮気者であるはずの匂宮の中姫への愛と執着、薫への警戒心と嫉妬、といったことです。それではここへきて匂宮も主人公と化したと言えるのか、というふたたびの問題提起です。

 

 結論から言えば、それはない。なぜなら匂宮の内面、ようするにその愛情や嫉妬は、薫のそれと比して常に相対的に浅く抑えられているからです。それが常にそうである、ということは、作者の意図としてそうである、ということです。どんな印象を持つ恣意も許されている読者とは違い、作家は意図して主人公を主人公たらしめなくてはならない、少なくともその場合が大半です。それは作者が表現すべき思想を抱えているからで、そこが読者との、あるいは無責任な批評家や学者(失礼)との最大の違いです。

 

 主人公を主人公たらしめるには、では具体的には、どのような設定が必要になるのでしょうか。

 

 宿木の巻では、薫と匂宮のそれぞれが正妻を娶ります。二人とも周囲からの圧力に屈したかたちでの結婚ですが、その正妻への想いや扱い、すなわちどのくらい気持ちがブレるかということが、それぞれの貴公子の「深度」を試す結果になります。

 

 言うまでもなく、匂宮は新妻の六の君を結構、気に入ります。六の君の父である夕霧大臣のプレッシャーを鬱陶しく思う反面、それによって六条院に足止めをくらっても、わりかし平気です。

 

 それによる中姫の不安や嘆きを掬いとる立場に、薫は居場所を定めます。薫の宇治志向は、あくまで大姫の面影を追い、宇治に堂を建てることに熱中して正妻のことなど二の次、というところに顕著です。もちろん薫もまた作者によって理想化はされず、正妻となった女二の宮を少しは自慢に思ったり、でも、これがもし明石の中宮の愛娘の女一の宮だったら、とあらぬことを考えたりするのですが、それらは現世の社会的な栄達として思うことであって、彼岸にまで続くような深い愛情とは別の話です。

 

 中姫をも感激させる薫の大姫への変わらぬ執着、宇治志向こそ、薫を「主人公」たらしめるものです。ではその「深さ」、根深さはどこから生じるとされているのでしょうか。

 

 薫の宇治の姫への執着は、もとはと言えば世を厭うて、八の宮に私淑したところから発生しています。その薫の厭世観の原因は、元をただせば自身の出生の秘密にある。それは癒しようもなく、彼が生きているかぎり続く根深いコンプレックスです。生きているかぎり逃れようもない、だから薫は彼岸を志向するのです。その現世的な象徴の場が宇治であった、ということです。

 

 これと同じコンプレックスを抱えていたのが、もう一人の歴然とした主人公、光源氏でした。彼は生まれ落ちると同時に生母を失い、それへの執着がすべての彼の深い恋の源流となっていました。

 

 薫にとっては父が源氏ではないこと、源氏にとっては母が失われていたこと、その父性と母性の欠落が好一対となり、彼らを紛れもない主人公にしています。(繰り返しますが、こんな深層レベルでの呼応を踏まえて、別人が宇治十帖を書くなどあり得ません。)

 

 主人公を主人公たらしめるものは、彼らが生まれ落ちたと同時に抱えたコンプレックス、それによる執着の深さであり、「宿世」と呼ばれるものです。源氏も薫も作者によって「あやにく」な性格とされ、その説明のつかない執着の深さを保証するものとは、彼らの歴史、伝記的な時間軸です。

 

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 主人公以外の存在もまた内面を有するし、その限りにおいては読者の共感も得ますが、主人公に比して根深く掘り下げるほどの時間軸を有していない。読者それぞれが自分についてはそのような時間軸、物語を有していることを思うと、主人公以外の各登場人物はその「浅さ」において、いわば人間存在以前である。その意味で、すべての脇役は「人型」であると言えます。

 

 薫の出生のコンプレックスは仏道への精進として姿を変え、父の代わりとして八の宮、仏の代わりとしての大姫、その代替としての中姫、そしてまさに大姫の「人型」としての浮舟を求める、というように展開します。すなわち主人公自身、自らの執着の「深さ」の中に留まっていることはできず、「浅さ」へと展開することで小説世界を生きてゆくことになる。

 

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 それゆえ、たとえば匂宮の「浅さ」は、主人公である薫の、単なる引き立て役というものではありません。

 

 宇治に出向いた薫は、深山木に絡んでいる蔦(宿木)の紅葉を手折らせ、中姫への贈り物とします。それを目にした匂宮は、「美しい蔦だ」と言い、また嫉妬心を燃やす。夕霧大臣からむりやり六条院に引き戻されるほど、中姫のもとに留まろうとするのは、匂宮のこの嫉妬心から熾される情熱からと言えます。その情熱は浅くはありますが、中姫の心を動かすには十分なものです。中姫は、いざとなったら薫が宇治に連れて帰ってくれると頼りにして、それが本道であると認識していても、現世に留まるかぎりは匂宮が恋人であり、彼の魅力には抗い得ません。

 

 薫の心がいわば宇治の深山木なら、匂宮はそこに絡みつき、俗世である京まで運ばれてきた美しい宿木(蔦)の葉です。主人公の歴史から生まれた深い執着がなければ小説は成立しませんが、小説の魅力、読む愉しみはそこに絡みつくリゾーム状のディティールにある、ということがしばしばです。華やかに展開する宿木の葉の色に、多くの読者も、また登場人物の中姫もまた、幻惑され続けてやまないのです。

 

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(第37回・了)

小原眞紀子

 

 

 

 

 

 

 

 

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