家を看取る日_No.004_cover_01その家は今から90年以上も前、大阪の外れに建てられた。以来、曾祖父から祖父、父へと代々受け継がれてきたのだが……39歳になった四代目の僕は、東京で新たな家庭を築いている。伝統のバトンを繋ぐべきか、アンカーとして家を看取るべきか。東京と大阪を行き来して描く、郷里の実家を巡る物語。

by 山田隆道

 

 

 

 

  第四話

 

 異臭の正体はすぐにわかった。錆ついたキッチンのシンクや調理台に、まだ洗っていない食器、生ゴミ、惣菜の食べ残しなどが大量に溜まっていたのだ。九月初旬の気候を考えると、これでくさくならないわけがない。

 ゴミ箱もパンパンに膨れあがっており、床にもゴミが散乱していた。コンビニ弁当やカップ麺のケース、空のペットボトル、ビールの空き缶、ドス黒く変色した正体不明の食材。小バエも無数に飛び交っている。まさにゴミ屋敷だ。

 鼻をつまんだまま、蓋の開いた炊飯器をのぞいてみた。気味悪く変色した腐敗物が目に飛び込んできて、思わず顔をゆがめてしまう。いったいどれくらい放置したら、あの白米がこんな姿になってしまうのか。

 犯人は父で間違いないだろう。

 僕と妹が家を出て、母が入院している以上、この家で暮らしているのは奴一人しかいない。父は団塊の亭主関白親父を絵に描いたような男だから、確かに家事をやっているところを見たことがない。見たことがないのだけれど、だからといって母がいなくなっただけで、ここまで生活が荒れてしまうのか。

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 一階には父の姿が見当たらなかったので、二階の寝室に向かった。階段も廊下もすべてがくさい。トイレはいつもよりくさい。あちこちに散らばった衣服や下着からも、得体の知れない臭気が発生している。ちょっと異常事態だ。

 寝室の引き戸が全開になっていたので、父の姿をすぐに確認できた。ベッドに寝転がりながら、テレビを見ている。たぶんゴルフだろう。

 「お父さん……」

 僕が声をかけると、父が顔だけを向けてきた。

 その瞬間、背筋がゾクッとした。乱れた髪、腫れぼったい目、赤黒くたるんだ頬、しまりのない口元。アルコールのせいだろうが、さっきまで病院で居丈高にふるまっていた父とはまるで別人のようだ。生気というか魂というか、とにかく父が父であるために必要な要素がすべて抜け落ちてしまったように見える。

 ベッドのヘッドボードには、ビールの空き缶が何本も並んでいた。灰皿に溜まったタバコの吸殻は日本昔話の白ごはんみたく山盛りになっている。

 「おう、なんや?」

 父は眉間に皺を寄せながら言った。ぶっきらぼうで威圧的な口調。そこだけはいつもと変わらない。僕の全身はいとも簡単に硬直した。もはや反射だ。

 「い、いや、どうしたんかなって……」おそるおそる切り出した。「家の中がめっちゃ散らかってて、なんか変やなって思ったから」

 「ああ」父は曖昧な返事をした。

 「キッチンのとこ、ゴミだらけやったけど」

 「せやな」

 「掃除とか洗濯とか全然してへんの?」

 「アホか、そんなんできるか」

 「けど、めっちゃくさいで?」

 「気にならん」

 「虫も飛んでたし」

 「そら、自然のあれや」

 「ごはんはどうしてるん? 弁当とかカップラーメンとかばっかり?」

 「そらそうよ。お母さんがあれやねんから」

 「外食したらええやん」

 「アホか! 男が一人でそんなんあれや、恥ずかしいわ」

 「恥ずかしい?」

 「そらあれや、ヤモメがやることや。一人で店なんか情けないやろ」

 あきれた――。僕は言葉を失った。父らしいといえば父らしいのだが、現代の感覚的には化石みたいな台詞だ。男のメンツだとか、一家の大黒柱だとか、そういう妙なプライドが全身に染みついているのだろう。

 ほどなくして、父がゆっくり起き上がった。缶ビールを握りながら、堂々とタバコに火をつける。くわえタバコのまま一階に向かったので、僕もそのあとを追った。タイミングを見計らって、父に用件を切り出さなければ。

 階段を下りる父の背中がいつもより小さく見えた。いたるところに散乱している衣類がしばしば通行を妨げる。父はそれらを乱暴に蹴飛ばしながら威風堂々と歩いた。衣類が不規則に飛び交うたびに、異臭がさらに拡散される。

 みっともない――。僕は小さく息を吐いた。

 

 一階のキッチンに辿り着くと、父は缶ビールを飲み干し、すぐさま冷蔵庫を開けた。中から缶チューハイを取りだすと、空になったビール缶にタバコの吸殻を捨て、その缶を適当に放り捨てる。床に転がった缶の飲み口から、灰まじりの液体がわずかにこぼれたが、それを気にする様子もなかった

 父が缶チューハイに口をつけた瞬間、僕は無意識に言葉を発した。

 「何本目?」

 「あん?」父は飲みながら声を出す。

 「昼間からそんな飲むなんて珍しいやん」

 「アホか、珍しないわ」

 「ここんとこそんな感じなん?」

 「あかんのか?」

 「いや、あかんって言うか……ちょっと荒れすぎちゃうかなって。お母さんがこういときやからこそ、しっかりせ――」

 僕が言い終わらないうちに、父の表情が険しくなった。

 「親に向かってガタガタぬかすな、アホンだら!」

 今日一番の大声だった。思わず視線を外してしまう。

 しまった。余計なことを言ってしまった。正直、父の乱暴な物言いには腹が立つのだが、今はそれどころではない。心臓が早鐘を打つ。

 「ごめん」まずは素直にあやまった。

 「ふん、別にええわ」

 父がそう言ったので、少し気が楽になった。「あのさ……」僕は話を変え、ポケットから新幹線代の領収書を取りだす。「こ、これの件やけど……」

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 すぐに察しがついたのか、父は舌を鳴らした。いつもの不快そうな表情で「そこ置いとけ」と顎をしゃくる。その先は物置状態となった食卓だった。

 「うん、置いとくけど……。でも、清算はどんすんの?」

 「あとでやっとくわ」

 「いや、ちょっと急いでて」

 「なんや、今すぐ欲しいんかい」父が鋭い目で睨みつけてきた。「ったく情けないのう、おまえは。ええ年こいて、そんな金ないんかい」

 これにはカチンときた。思わず歯軋りしてしまう。本当に憎々しい。

 確かに四十前にもなって、帰省のたびに父に交通費を清算してもらうのは情けないかもしれない。しかし、元を辿れば父が言いだしたことではないか。

 父が経営するいくつかの会社の中には、僕が役員に名を連ねる会社、つまり税金対策として法務上だけ親族に収入を分配している会社もある。もっとも、だからといって役員報酬まで僕が得られるような、そんな喜ばしい話はない。あくまで父が勝手に作った僕名義の口座だから、その金は父のものだ。

 ただし、東京と大阪を往復する新幹線代に関しては、東京在住の役員の本社までの交通費として経費扱いできる。だから父は会社の経費を少しでも多く計上して計算上の利益を少なくしたい、つまり税金を安く抑えたいという理由で、いつの日からか僕に帰省の際の新幹線代の領収書を求めるようになったのだ。

 その経緯を考えると、僕は堂々としていれば良いのだろうが、なかなかどうして、そうはいかないから人間心理とは複雑だ。毎度のことながら領収書の清算をしている自分が、父に金をせびっているボンクラ息子のように見えて、卑屈な感情が湧き起こってくる。その脛かじりの贅沢さが情けなくなってくる。

 父は領収書を受け取ると、食卓に転がっていたセカンドバックから長財布を取りだした。そこに領収書をしまい、一万円札を四枚抜く。「ほれ」父は惨めな物乞いを見下すような目で、四万円を差し出した。往復の新幹線代は約二万八千円だから、あきらかに多い。「とっとけ」と父。これもいつものことだ。

 これを拒否するほど、僕に甲斐性はないから余計に屈辱感を覚えた。「ありがとう」絞りだすように言って頭を下げる。この瞬間はいつも気が重い。父と息子の関係が金銭支配によって成り立っているように感じてしまう。

 僕は四万円を急いでポケットにしまった。うしろめたさが大股歩きで襲ってくる。正直、ここから交通費を差し引いた額を目当てにして、このところ頻繁に帰省しているのは確かだ。母の見舞いという建前で蓋をしているものは、自分の中の卑しい部分、汚い部分。だから、この作業はいつも憂鬱なのだ。

 父は僕を見下ろしながら、不敵な笑みを浮かべていた。愚息の胸のうちをすべて見透かしたような、慧眼の迫力を感じる。少し胸が苦しくなった。

 

 父がトイレに入った隙に、裏口から家を出た。清算さえ済ませれば、もう実家に用はない。別れの挨拶もせず、黙って帰京するのはいつものことだ。

 庭の一角に石造りの植木棚があり、そこの植木と植木の間に手ごろなスペースが空いていたので、なんとなく腰をかけた。タバコに火をつけ、しばらく目をつむる。うしろめたさが混じった煙をゆっくり吐き出すと、すべてが溶けてくれたような、そんな都合の良い感覚になった。肩と腰がやけに重い。

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 そのとき、門扉が開いた。

 「あれ、お兄ちゃんやん」

 妹の典子が目を丸くしながら入ってきた。僕が「おう」と返事をすると、典子の表情が険しくなる。「うわあ。お父さん、またやったんかー」

 視線の先には、粉々に散らばった植木鉢や花瓶の破片があった。

 「またって、どういうこと?」

 「ああ、お兄ちゃんは知らんのか。お父さん、最近変なんよ」

 「いや、それはわかるよ。家中くさいし、めっちゃ散らかってたし」

 「ええ、やっぱりー。さすがに十日はあけすぎたかー」

 「十日?」

 「お母さんが入院してから、お父さん一人やん。だから、わたしもちょっと心配で、最初は三日に一回くらいのペースで様子を見に来ててん。掃除とか洗濯とかをやったり、ごはんを作り置きしといたりね。けど、このごろ忙しくて、十日くらい来られへんかったから、どうなってんのかなあって思ってて……」

 そうだったのか。恥ずかしながら、典子の献身を初めて知った。

 夫の実家で舅姑と同居中の典子は三歳の息子と一歳半の娘を授かっており、普段はその育児やらなんやらで忙しい日々を送っている。それにもかかわらず、こうして父のことまで気にかけているとは、さすがしっかり者の妹だ。

 「しかも、それだけちゃうねんでっ」典子は少し語気を強めると、無残に散らばった瓶の破片のそばに歩み寄った。「お父さん、ちょくちょく一人で暴れてるみたいやねん。ゴルフのクラブとかで、色んなものを壊しまくってんのよ」

 「はあ?」

 「わたしも暴れてるとこを直接見たわけちゃうけど、こないだも破片が散らばってたから、お父さんに訊いたんよ。そしたら『俺がやった』って」

 「なんで?」

 「さあ。それは教えてくれへん。ほっとけ、の一点張り」

 「ったく、なにしてんねん、七十前のジジイにもなって!」僕は大袈裟に声を荒らげた。それまでの鬱憤がここぞとばかりにあふれてくる。「みっともない親父やのう。外ではあんなに偉そうやのに、お母さんがおらんようになっただけで、ここまで無茶苦茶になるんかい。ひどすぎるわ、ほんま!」

 「よっぽどショックやったんちゃうかな」

 「そんなん、みんなショックやろ。けど、物にあたるって最低や」

 「相変わらず、お父さんには厳しいんやから」

 「お互いさま。向こうがチンピラみたいに恫喝ばっかりしてくるから、こっちも情がなくなんねん。正直、ちょっとくらい弱ってくれたほうが助かるわ」

 「けど、お父さんが本当に弱ったらどうするつもりなん?」

 「え?」

 「これがきっかけで一気に老け込む可能性もあると思うよ。そうなったとき、お父さんはこの家で一人やん。わたしもしょっちゅう来れるわけちゃうし」

 「そんなん知るか」

 「お兄ちゃん、長男やろ」

 「ああ、そういう長男やからどうこうっていう、古い考え方は嫌いやねん。時代がこれだけ個人主義になってんのに、昔の家長制度みたいなんをいつまでも引きずんのはナンセンスやろ。東京でそんなん言うたら笑われんで」

 「けど、現実問題があるやん」

 「現実問題?」

 「実際、親がどっちも死んだときのことを考えてんのかなって。だって、この家はわたしたちに相続されるわけやん。そうなったとき、お兄ちゃんはどうするつもりなん? しかも、うちの場合はこの家だけちゃうねんで。他の不動産もあるわけやから、相続税とか固定資産税とかの問題も出てくるし」

 典子が訴えるような視線を送ってきた。僕は途端に言葉を失ってしまう。

 確かにその通りだ。僕がどれだけ現代的な理屈を振りかざして自由を主張したとしても、そういう相続などの現実問題は必ず降りかかってくる。

 もちろん、少しくらいは考えたことがあった。考えたことはあったのだが、いつも結論を先送りにしてきた。栗山家の一人長男として生まれた以上、そこから逃げられないことはわかっていながら、それでも逃げてきた。

 沈黙に耐えきれなくなり、なかば勢いで結論を出した。

 「……売るしかないやろうな」

 一瞬、典子が目を丸くした。僕は一気呵成にまくしたてる。

 「だって、俺らが住むのは無理やろ。東京で仕事してるし、亜由美と子供らのこともあるし……。それに大正十一年築やぞ? 南海トラフでも起こったら一発でアウトやから、貸すにしても建て替えとかリフォームとかで金かかってしゃあないやん。だったら、土地ごと売って家は取り壊すしかないと思うけどな」

 典子はしゃがんだまま、年老いた日本家屋を見上げていた。悲しむような、憐れむような、それでいて愛おしそうな、なんとも言えない表情だった。

 「そっかあ、取り壊すんかあ」典子がしみじみと言った。「大正十一年生まれの家ってことは九十歳オーバーやんな。確かおじいちゃんより年上だったもん」

 「ああ、おじいちゃんが生まれたんはこの家やからな」

 「そうそう。昔おじいちゃんが言ってた。この家に産婆さんが来て、取り上げてもらったんやって。確かお父さんも同じ産婆さんやったと思うで」

 「そうなん?」

 「考えたらすごいよね。めっちゃ長生きやん」

 「よぼよほやな」

 「今でも登れるかな? 瓦屋根」

 「ああ、子供のころ二人で登ったなあ」

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 僕が苦笑すると、典子も懐かしそうに微笑んだ。祖父母と父母、そして僕らの人生の多くが、この家に刻まれている。この家に包まれながら、栗山家の人々は長い年月を過ごしてきた。みんなの家は、みんなの親だ。

 「取り壊すんかあ」

 典子がもう一度つぶやいた。僕の中に今さら罪悪感が芽生えてくる。

 「反対か?」

 「いや、わたしにはどうすることもでけへんし」

 「まあ」

 「けど、お母さんの気持ちはわかるなあって」

 「お母さん?」

 「前にお母さんが言っててん。もしこの家を取り壊す日がきたら、わたしはたぶん号泣すると思うって。家族が死ぬのと同じくらい、悲しくなるんちゃうかなって。なんかわかるわ、その感じ。家ってさ、たぶん生き物やねん」

 そこで典子は立ち上がり、大きく背伸びをした。腰を左右にひねる。

 瓶の欠片は、いつのまにか一箇所に拾い集められていた。典子は物置からホウキと塵取りを取り出してくると、慣れた手つきで掃除の仕上げを始める。

 僕は無性に気まずくなった。いやはや、なんという罪悪感だ。この状況で情緒的な話はずるい。答えははっきりしているのに心が揺れてしまう。

 さっさと東京に帰ろう。そう思ったものの、掃除に励む典子を見ていると、なかなか行動に移せない。「な、なんか手伝おうか?」思ってもいないことを、つい口走った。うしろ髪が抜けそうなほど、強く引かれている感じがする。

 すると、典子はすかさず提案した。

 「じゃあ、食器洗い。それくらい手伝ってよ」

 ああ、やっちまった。小さく舌打ちした。

 

 不承不承、家の裏口に戻った。中に入ると、またも異臭が襲ってくる。

 適当に食器洗いを済ませたら、あとは隙を見て帰ろう。典子が言うように、確かにこの先のことは考えないといけないのだが、どのみち結論はひとつしかないのだ。情緒的なことを理由に、亜由美と子供たちの人生を狂わせるわけにはいかないのだから、その結論に向かうプロセスを考えるしかないだろう。

 息を止めながら廊下を歩くと、なにやらキッチンから物音がした。おのれ、クソ親父め。まだいるのか。頼むから二階で寝ていてくれ。

 廊下の端から、顔だけでキッチンをのぞいた。父の背中が見える。

 父は一人でインスタントラーメンを作っていた。散らかった調理台のわずかなスペースに、使った形跡のある包丁とキャベツの残骸が転がっている。

 小学生でも作れるような簡単な料理ではあるが、それでも僕にとっては生まれて初めての光景だった。なにしろ、あの父がキッチンの前に立っているのだ。これはちょっとした事件だ。栗山新聞があったら一面扱いだ。

 父はぎこちない手つきで小さな鍋と格闘していた。ほどなくしてコンロの火を止め、ラーメン鉢に鍋の中の物をゆっくり流し込む。「あちっあちっ」情けない声を出しながら、両手でラーメン鉢を持ち上げると、僕のほうに体を向けた。

 次の瞬間、父の表情が一変した。

 「おう、新一か。びっくりしたー」

 珍しく高い声を出し、照れたような笑みを浮かべる。悪戯がばれた子供みたいに焦りと動揺が混在した、複雑でブサイクな笑顔だった。

 「ちょ、ちょっと腹がへっててな。ほら、あれや。誰もおらんから、ラーメンでもあれするしかないやろ。味噌ラーメン好きやしな」

 父は問わず語りに言葉をつないだ。なにをそんなに焦っているのか。

 僕が戸惑いながら立ち尽くしていると、父は「ちょっとどいてやー」とおどけた口調で言って、ラーメン鉢を食卓に運んだ。食卓は物置同然の雑然とした状態だったが、わずかな空きスペースを陣地にして麺をすすり始める。

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 僕は思わず目を逸らした。父を見ていられなかったのだ。

 心音が一気に高鳴った。なんだろう、この不思議な感情は。胸の奥底からふつふつと湧き起こってくる、生まれて初めての感情に面食らい、そして戸惑ってしまう。勘弁してくれよ、お父さん。照れ笑いなんかすんなよ。

 あれ、おかしい。胸が痛くなってきた。乱暴で傲慢な父を疎ましく思っていたはずなのに、どうして今の父を見ていると切なくなるのだろう。

 父も父で、どこか気まずそうにラーメンをすすっていた。いつもより肩がだらりと下がっていて、それもなんだか弱々しい。おじいちゃんみたいだ。

 「新一、まだ帰らんでええんか?」

 不意に父が訊ねてきた。気持ち悪いほど穏やかな口調だった。

 「え、ああ。……そろそろ帰るけど」

 「そうか、仕事は順調か?」

 「うん、まあ」

 背中がかゆくなった。父はいったいどうしたというのだ。僕の仕事のことなんて、今まで話題にしたことすらなかったじゃないか。熱でもあるのか。

 父は再び黙り込んだ。実際はほんの数秒間の沈黙だったのかもしれないが、僕にとっては人生でもっとも長く、そして重く感じた。

 ほどなくして、父は宙を見つめながら言った。

 「新一、あれや。……大阪に戻ってこうへんか?」

 「え?」まさかの展開だった。思わず父を凝視してしまう。

 「お父さん、最近しんどうてな。お母さんがああなった以上、元のあれに戻るんはもう無理や。せやから、あれや。おまえが戻ってきたら……あれや」

 「あれって?」生まれて初めて父の「あれ」に言及した。

 「あれっちゅうことは、あれや」

 「だから、あれってなに?」

 「……ありがたいっちゅうことや」

 その瞬間、僕の全身がやけに熱くなった。「お父さん、俺に大阪に帰ってきてほしいと思ってるん?」なぜかしつこく確認してしまう。

 「そうせんと、この家のあれはどうなんねん。おまえの曾じいちゃんが建てた家や。うちが代々守ってきたあれは、この先どうなんねん」

 「えっと……それはつまり、俺にも引き継いでほしいってこと?」

 「まあ、あれや。……お父さんの気持ちや」

 父の気持ち――。その言葉は僕の胸に重くのしかかった。

 典子に言われたときのように、勢い任せで「売る」と言えない自分がいる。情緒的なことを理由に、今の時代や生活環境にそぐわない選択をするのはナンセンスだと思っていながら、その情緒に翻弄されている自分がいる。

 「ちょ、ちょっと考えさせて」とりあえず返事を保留した。

 「わかった。急がんでええ。ゆっくり考えたらええ」

またも優しい言葉だった。柔和な表情だった。

 「そろそろ帰るわ」

 僕はあわてて踵を返した。なんだよ、やめろよ。そういう顔すんなよ。

(第04回 了)

 

 

* 『家を看取る日』は毎月22日に更新されます。

 

 

 

 

 

 

 

 

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