第二回 鞭もて駒を進めよ

オルフェの鏡_02_01

 

 

 読書の効用は何か? それは大陸の典籍に定義された詩の効用––––優れた心を涵養し、荒ぶる情勢を平らげ、ひいては国家の安泰に資するような––––と似たようなものと思えばよいのだろうか。馬鹿もやすみやすみ言うがいい。少なくとも青年にとって読書の効用はただひとつ、「親の歓心」に尽きる。

 

 想像してみたまえ。居間の机を挟んであなたは母親と向かい合い、それぞれにものうげな昼下がりを過ごしている。母親はひさしぶりに編み物をしてみようと思ったのだが、すぐに飽きてくだらない雑誌など読んでいる。一方あなたはそんな俗っぽい母堂を尻目に、高級な文学を貪っているのである。それも母親でもちゃんと知っている有名な作家の、ちょっと派手な色使いで装われた文庫本で、なかなかエロティックなものだ。

 

 「じゃあ己を馬にしてくれ、いつかのように己の背中へ乗っかってくれ、どうしても否ならそれだけでもいい!」

 私はそう云って、そこへ四つン這いになりました。

 一瞬間、ナオミは私が事実発狂したかと思ったようでした。彼女の顔はその時一層、どす黒いまでに真っ青になり、瞳を据えて私を見ている眼の中には、殆ど恐怖に近いものがありました。が、忽ち彼女は猛然として、図太い、大胆な表情を湛え、どしんと私の背中の上へ跨がりながら、……

(谷崎潤一郎『痴人の愛』)

 

 こんな具合である。あなたはだんだん目眩がしてくる。そしていつも学校の往き帰りにすれ違う、違う学校の制服を着た髪の綺麗な女の子に、ぜひ馬乗りになってほしいと考える。

 

 ところがあなたのぎらついた目に、母親はずいぶん独自の解釈を加えて、こんな風に声をかけるのである。

 

 「あんたもずいぶん難しい本を読むようになったのね」

 

 母親だって、谷崎文学においてエロティシズムがその中枢を担っていることは知っているのだ。だがそこに息子が野卑な悦びを感じているなどとは思いたくもないし、そんな邪推は自分の未熟をひけらかすような気がして表に出せないのである。あなたはいい母親を持ったものだとうれしくなる。すべてを見抜いて、「この助平」などとにやつく親でなくてよかったと思う。そして自分が親になって、いつか子供のそんな姿を見たら間違いなくそう言ってにやつくだろうから、子供は持つまいと私かに決心する。

 

 さてこの青年のような人物が長じて何をするかと言えば、もちろん、図に乗るのである。もはや関心は海を越え、彼の書庫には美しい函入りの選集などが並ぶようになる。近頃はデ・ゼッサントなる風流人の存在を知り、生活の端々にこの魔導師の美学を取り入れようと必死である。

 

 デ・ゼッサントと言えば、彼が登場する小説を訳したTasso S.なる希代の好事家も、彼に多くの言葉を教えたのだった。

 

 四人の遣手婆が各室を監督していて、登楼する者の手から切符を受け取り、それぞれの趣味を訊き質し、ただちに満足の行くように手配をするのでした。そこはまたいつも、ひとりの外科医と、ひとりの産婆と、二人の鞭打人と、ひとりの死刑執行人とが控えておりました。

(サド侯爵『悪徳の栄え』澁澤龍彦訳)

 

 生涯を囹圄の人として過ごすことでまだしも自由に近づいたこの侯爵の作品によって、彼は気づけばこれ以外にも腎水、菊座、千鳥などなど、少なくとも知的には艶福家でありたいと願う青年にふさわしいだけの語彙を身につけていった。

 

 しかもそれはただの線条的な知識の吸収とは違っていた。何しろ彼の目前で繰り広げられていたのはフランスの閨房の宴だったのに、彼が新たに覚えたのは大方が江戸の花街で狂い咲いたらしい言葉だったのである!

 

 こうして彼はゆくりなくも、言葉には常に七つの大海が内在しており、たとえ七つの大罪をことごとく反故にすることを目的とする地中海での船旅に参加している最中でも、それとまったく同時に、江戸の大川を下る舟にも乗り込むことできると知ったのである。その軽業はまるで難しくないどころか、むしろ考えれば考えるほど、私たちはそのようにしてしか言葉の海に溺れることができないのだいうことも、彼は悟ったのであった。

 

 ところが、あろうことか、世間にはこの認識を共有しない人が大勢いることを知って、彼はたいそう驚くことになる。

 

 あるときなどは、そのとき彼がよく会っていたある女が、Tasso氏の訳文についてこんな吝をつけたのである。

 

 「あれはもう、完全なTasso節で、感覚で訳しているようなものだから、不正確なことは間違いないのよ」

 

 そして女は、おなじく侯爵の作品を訳している某氏の名を挙げるのだが、それは誰ということもない、女が学生時代に師事した学者なのである。

 

 女が自信たっぷりなので、彼は騙されたつもりで、その学者先生の手になる版を、何軒かまわった先の書店で開いてみた。そして、ややあって閉じると、そのまま買わないで書肆をあとにした。見事に騙されたのである。なるほどその訳文は正確なのかもしれなかった。だが正確な訳など、軽妙と絢爛の結婚から生れた文体に比して何であろう? 彼は家に戻ってから、その退屈な訳文の一行なりを思い起こしてみようとしたが無駄だった。すでにきれいさっぱり忘れていた。

 

 つまりそんなものは、本当には正確ではないのである。正確というのは、あらゆる時代を横断する辞書にかけたときに、目的とする言語として弾き出されるものと、ぴたりと一致するということだろうか。だがそんな辞書が、すでに幻想の産物であり、緻密と甘美とが同居するという夢に裏打ちされた妄執である。その辞書はおよそすべての言葉の成立とすべての用例と、最小単位の単語で組み上げられたほとんど無数の成句と警句とを網羅し、さらに俗語・隠語の類までを、その文化的な成立過程までをも含む形でインデックス化せねばならない。おまけに、その辞書を手に取る読者の大方がそれに納得しなければならないのである。なるほどそれができるのならば翻訳の議論に正確さの観念を持ち出すのも致し方あるまい。だがそんなことは到底無理だ。オックスフォード英語辞典が、ひょっとしたらその蜃気楼に最も近づいた事業であるかもしれない。そしてこの辞典の完成に誰よりも寄与した人物が精神病院でその任に当たっていたことも、よく知られた事実である。

 

 われらが主人公はデ・ザッサントをふと思い出し、嘘つき女の皮を剥いで、そいつでお気に入りの本を装幀してやろうかと思った。だが獄舎にあって言葉を解き放ちつづけた人々のことを思ってとりやめにした。彼はもはや後ろを振り向くのはやめて、ひたすら前進することにしたのである。

 

 彼は顕微鏡の下にいるサドよりも、花柳界の顔なじみのサドに親しむことを選んだ。(酒席だったら、彼は間違いなく「サド奴」という洒落を飛ばしたことだろう!)江戸にいるサドのほうが、いや、より正確に言えば、江戸にいるサドの通詞を、メメント・モリの符丁に彩られた書斎でやすやすとやってのける Tasso 氏の言葉のほうが、やはり彼には本物らしく思われるのだった。サドにしたって、およそ彼の母国語が孕んでいる不義の子、つまり自然の解釈を捻じ曲げて文明人とやらをでっち上げてしまうあの信仰というやつを遠ざけるためなら、よろこんで東洋の黄金郷まで弥次喜多道中に出てくれるだろう。

 

 彼は馬にまたがった。目指すは豊饒の森。出会ったばかりの愛馬にひと鞭くれようとして、ドストエフスキーの「鰐」に登場するエレーナ・イワーノヴナの絶叫を思い出した。彼女は夫が鰐に呑み込まれたので、きわめて自然なことに、こう叫び出すのである。

 

 「フスパローチ! フスパローチ!」

 

 それは鞭で打ちすえることでもあるし、切開することでもあるのだった。彼はフスパローチ、フスパローチとがなりながら、自分の咽喉が四方八方から切り開かれてゆくのを感じた。

(第02回 了)

大野ロベルト

 

 

【画像キャプション】

  「いざ死の陰の谷へ……」

  サルヴァドール・ダリ「死の騎手」1935年