ラモーナ・ツァラヌさんの『青い目で観る日本伝統芸能』『No.020 能の復曲と改作の意味をめぐって--観世流による〈綾鼓〉』をアップしましたぁ。今年の2月に横浜能楽堂で行われた観世本家による特別公演です。

 

ラモーナさんは以前、同じ観世流ですが銕之丞家による『恋重荷』を取り上げておられますが、『綾鼓』は『恋重荷』よりも古い形態の能楽のやうです。「〈綾鼓〉は宝生流、金剛流や喜多流の現行曲で、人気の演目である。しかし観世流では江戸時代以前から廃曲になり、正式なレパートリーに入っていない。今回の公演では、天文24年(1555年)の奥書を持つ観世元頼節付本を基にした台本が使用され、観世流〈綾鼓〉の復曲が試みられた」と書いておられます。

 

身分の低い老人が高貴な女御に恋をして、誰もできない無理難題を課され、絶望して自殺してしまふというのは『綾鼓』も『恋重荷』も共通しています。しかし「〈恋重荷〉では鬼になった老人の亡霊は恨みを晴らした後、女御の守護神になるのだが、〈綾鼓〉では最後まで恨みの心を変えず、成仏せずに姿を消す」という点が大きく異なっています。

 

世阿弥は世の中の変化に合わせて演目の内容を変えてゆくべきだと考えていたようですが、ラモーナさんは「〈恋重荷〉の場合、後場の悪鬼が最後に善神に変わることによって、めでたい雰囲気で終わる。・・・一方、〈綾鼓〉は・・・恋心を笑われ、騙された老人の恨みが晴れないままで終わるので、やはり真直ぐで飾り気のない人情がこの演目の中心的なテーマになっていると解釈していい。怒りと恨みで暴れる鬼とそれに憑かれて苦しんでいる高貴な女性の姿を見て、そのドラマを単純に面白いと思う室町初期の観客の好みが目の前に浮ぶ」と批評しておられます。

 

『恋重荷』は仏教的救済、『綾鼓』は現実直視の感性を表現していると思いますが、この救済と救いなしの現実直視の感覚は、今でも日本人の中に異なるベクトルとして共存しているやうに思ひます。時代が変わればどちらかの演目が優勢になる(人気が出る)せうね。ラモーナさんが「今回の公演のような復曲または演目の改作といった試みを見ると、能楽の伝統そのものに十分な再生力があると思えてくる」と書いておられる通りだと思ひます。

 

 

ラモーナ・ツァラヌ 『青い目で観る日本伝統芸能』『『No.020 能の復曲と改作の意味をめぐって--観世流による〈綾鼓〉』 ■