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第35回「総角」あるいは恋愛という観念

 

 

 八の宮の一周忌。薫は変わらず宇治の姫たちの世話を焼いています。二人の姫は、喪が明ける準備に名香の飾り糸を引き散らしていて、その組紐を結び上げたもの(総角・あげまき)が御簾の端から、几帳の隙間を通してのぞきました。薫は大姫に、

 

あげまきに長き契りを結びこめ

      同じ所に縒りも会わなむ

 

 と書いて見せます。大姫は、

 

ぬきもあへずもろき涙の玉の緒に

      長き契りをいかが結ばむ

 

 と、相手にされません。薫は仕方なく、匂宮と中姫とのことを熱心そうに勧めます。「男女のことなどの判断がおつきにならないともお見受けしませんのに、冷淡に扱われ、こちらが寄せる信頼を違えられたようで恨めしい」と。どこまでが匂宮のことで、どこから薫自身のことか、曖昧ですね。

 

 大姫は、「父の遺志はやはり結婚しないでここで生涯を過ごさせたいというものだったと思うが妹だけはそれで終えることもないと思う、あなたが妹と結婚してくれれば」と言います。がっかりした薫は、例の老女房に長々と愚痴ります。老女房は、二つそれぞれの縁が結ばれればと願ってはいるものの、他のよろしくない女房たちとは違って、我が身の安寧のために姫たちを責めたり、非難したりということはしかねるのです。姫たちの気品の高さに、思うままにも申せません。

 

 薫はその晩、宇治に泊まることにします。大姫は隔てを置いて、話し相手になることを承諾します。女房たちには、側を離れないようにと言いつけていたのですが、皆、薫の真意を察するように退いてしまいます。怖ろしくなった大姫は、奥へ引っ込もうとしますが、薫が屏風を押し開けて入ってきます

 

 「隔てなく接してほしい、というのはこんなことを言うのか」と、非難する大姫はなお魅力的です。薫は乱暴なことはせず、艶麗な大姫の黒髪を撫でて一夜を過ごします。こんな山荘に自分のようでない普通の男が押し入ってきたなら、その男の妻にされてしまうだろうと心配になります。が、喪服姿の大姫に無理強いなどしては、浅薄な男と見られることになるでしょう。

 

 女房たちは二人がそのようになったものと思い込んで、部屋に引っ込んでしまっています。大姫は父宮の言い遺したことを思い出し、保護者に先立たれると、こんな心外な目にあうものかと嘆きます。

 

 夜が明けますと、明るくなった障子を開けます。姫も少しいざり出て、身に沁みるような空を二人で眺めます。優美なお姿の男女なのです

 

 「なんということもなく、ただ同じ心で月や花を愛でて、語り合って過ごしたいものです」と薫が言えば、ようやく怖ろしさも薄れて、「隔てを挟んで話していただけるなら、心の隔てはなくなりましょうに」と姫は答えます。

 

 まるで恋を成就した男であるかのように、得々と朝帰りなどできない、と言う薫を説得して帰すと、大姫は考えます。父宮は、あの人ならと言われたこともあったようだが、やはり自分はここで独身のまま終わろうと思う。薫があれほど気高い様子でなく、普通の男のようであったなら、むしろ結婚してもよいと思ったかもしれないが。ただ、若く美しい盛りの妹姫は自分のように暮らすことはない。薫と妹姫が結婚し、その世話をするのだったら嬉しいことだろう、と。

 

 そのように思い詰めて泣き明かした名残りで気分が悪く、中姫のいる方へ寄り添って寝ます。夜着をかけて差し上げようとしたとき、移り香が紛れようもなくくゆりかかり、薫の強引さに姉が負けたものだろうかと、中姫は気の毒に思います。京へ戻る薫の儀礼的な挨拶にも、また文にも、体調が悪いと取り合わない大姫を、あまりに子供じみていると女房たちは非難するのです。

 

 一周忌が過ぎ、薫が宇治を訪ねても、大姫は会おうとしません。薫は仕方なく、またあの老女房に訴えます。他の女房たちはその話を聞いて、自分たちの生活の安定のため、なんとしても大姫のところへ薫を手引きしようと画策します。

 

 そんなことを詳しくは知らない大姫ですが、もしまた薫が迫ってきたら、妹を与えようと考えています。自分より見劣りするどころか、見る目を喜ばしくさせるばかりの中姫と結婚してしまえば、きっと満足するであろう、と。女房たちの思惑を理由に中姫を説得しますが、中姫は情けながるばかりで、可哀想で強くは言えません。

 

 日が暮れても薫は帰ろうとしないので、大姫は困り果てます。誰もが大姫を薫に娶せようとしているのです。それは薫の望むところではなく、大姫の気持ちが傾くまではこのままでよいと思っているのですが、老女房の弁が耄碌しているのか、あちこちに言い回ったため、そんなことになっているのでした。

 

 大姫は、老女房の弁が参ったので、薫にこのように伝えるようにと言います。「華やかな人生を望むのならご意向に背くことはないが、自分は現世を思い捨てているので、辛いばかりである。妹姫が無為に盛りを過ごしてしまうのも残念であるし、父の八の宮を追慕してくださるなら、妹姫を、という気持ちをわかっていただきたい」。

 

 しかし逆に弁に説得され、この老女房を憎く思いながら、大姫はうつ伏せになってしまいます。大姫のその言葉を聞いた薫もまた世の無常を強く感じるところから、自分に似た考えを理解もできるのです。ただ「それならばもう物越しに話もしてくれないであろうから、最後に一度だけ手引きしてほしい」と頼みます。

 

 物思いで眠れない大姫は、この近づいてくる足音を察知します。よく寝入っている中姫を可哀想に思いながらも、残して逃げ去ります

 

 薫は、相手が中姫とわかると、何も知らなかった様子を気の毒に思います。美しく可愛らしいのはむしろ姉より勝っていて、この人も他人に渡したくはない。しかし自分の本意が軽く見られるのが嫌なので、やはり話をするだけで夜を明かし、「冷たい大姫の真似をせず、私を愛してください」と、後々に機会があろうことを示して帰ります。

 

 中姫は、もはや姉すら信じられないと思い乱れます。そのことを薫から聞かされた老女房の弁もまた、驚き呆れます。薫はいつもより早く帰ってしまい、大姫本人もいったいどうなったのかと気を揉んでいます。そのため薫から届いた文を嬉しく感じるというのも妙なことです。

 

おなじ枝を分きて染めける山姫に

      いづれか深き色と問はばや

 

 言葉少なに書かれていて、真意はわかりません。女房たちに返事を急かされた大姫は、

 

山姫の染むる心はわかねども

      移ろふ方や深きなるらむ

 

 さりげなく書かれた字の美しさに、やはりこの人を忘れられない、と薫は思います

 

 あれこれ思い悩みつつ夜を明かし、匂宮のもとへ参上します。三条宮邸が焼けてからは母宮とともに六条院に移ってきた薫は、近くおられる匂宮をしょっちゅうお訪ねするのです。薫の特別な香りに、それと気づかれた匂宮は外へお出ましになり、階の高欄に寄りかかって世間話をします。

 

 匂宮はまた、中姫への取次ぎをしてくれないと恨みがましく言われます。その中姫の容姿をあの夜、はっきりと見た薫は、いまや自信をもって匂宮にお薦めできるやはり中姫は匂宮にお譲りしよう、と決意してやってきたのでした

 

 秋の彼岸の終わりの日に、薫は匂宮をこっそり宇治へお連れします。先に一人で山荘に入り、老女房の弁に「大姫に一言、申し上げることがあります。その後、夜が更けてから中姫のところへ今一度、手引きしてもらえまいか」と頼みます。弁は、どちらの姫が薫と結婚しようと同じことだと、引き受けます。

 

 大姫は、薫が中姫に心変わりをして、それを自分に告げたいのだろうと嬉しく思います。しかし話を始めると、薫は障子の隙間から大姫の袖を捕らえ、恨み言を言われます。大姫は、このように会うのを許したことを後悔しながら、自分と同じなのだから中姫にしてほしい、と繰り返します。

 

 その中姫のところには、匂宮が向かったのでした。薫に教わった通りに戸口で扇を鳴らすと、老女房の弁が薫と思い込んで手引きします。匂宮は、この物馴れた女房がいつも薫を大姫の寝所へ案内しているのだろう、と面白く思われます。薫がいまだに想いを遂げられてないなどとは、考えもおよばないのです。

 

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 薫からそのことを聞いた大姫は憤慨し、嘆きます。薫はあれこれかき口説きつつ、またしても何もせぬまま隣りで夜を明かします。中姫のもとで寝過ごしてしまいそうな匂宮を気遣い、咳払いなどするはめになったのも損な役回りです。

 

 六条院に戻った匂宮は、すぐに中姫に後朝の文を送ります。人に知られないようにと、普段通りの殿上童に持たせたのです。大姫の方では、結婚の儀としてそれに禄を贈りますが、童が固辞しますので包んで供の者に渡します。正式な結婚とは考えてない匂宮は、きっとあの老女房の出しゃばりだろうと不快に思われます。

 

 結婚第二夜である翌晩、冷泉院の御用があるからと来ようとしない薫を置いて、匂宮がやってきます。足りないながらもどうにか風流に飾り付けを済ませ、新婿を待っていた大姫は、望まないことだったのに嬉しく感じるのも不思議です。結婚第三夜には、勝手がわからないながらも儀式に使う餅を一生懸命に拵えます。薫からは恨み言とともに、さまざまに行き届いた贈り物があります。

 

 しかし匂宮の連日の外出に、母の明石中宮からの厳しいお叱りがあります。どうやら本心から困っているらしい匂宮に同情した薫は、内裏のことは自分が引き受けることにして、明石中宮に対面します。中宮の周りは素晴らしい女房ばかりで、なかには薫の気を惹こうとする者もいますが、世の無常を思っている薫は相手にはしません。一方で明石中宮に、長年の憧れである女一の宮の面影を探ったりもします。

 

 夜更けになって荒い風が吹くなか、匂宮がやっと到着しますと、大姫はやはり喜びを禁じ得ません。中姫は大変美しく装い、美女を見慣れた匂宮の目にもこれ以上の人があろうかと思われます。

 

 一方で、山荘の女房たちが似合いもしない盛装で色めきたっているのを見るにつけ、大姫は自分もまた盛りを過ぎた女で、あれらほどは醜くないと自惚れているだけかもしれない薫にはやはり似つかわしくないのだと考えます。

 

 匂宮は中姫の美しさと可愛らしさに、内親王もこれほどではあるまい、今帝の身内であるからといって自分の方がこちらの血筋よりも上というのは間違いである、とまで思われます。二人で出て、夜明けの空を見ます。荒々しい宇治川の眺めに、なぜ長いことこんなところに、と匂宮は涙ぐまれます。中姫も今では、取り澄まして気高い薫よりも匂宮に親しみを覚えています

 

 もっとも「愛していても身分柄、なかなか来られない。不安に思わないように」という匂宮の言葉は嘘ではなくとも、心細いものです。別れ際の中姫の悲しそうだった様子に深い愛を覚えられた匂宮は、文を毎日書かれますが、途絶えはどうしても長くなり、大姫は不安で煩悶されます。

 

 九月になって、匂宮と薫が連れ立ってやってきます。大姫は嬉しい反面、薫が来たのを面倒に思います。ただ、中姫をいきなり妻にしてしまった匂宮と違い、手出しをしない薫の思いやりには感謝するのです。婿扱いされる匂宮に比べ、さすがに気の毒な立場の薫と物越しに話すことだけはします。

 

 薫は言葉を尽くして口説きますが、中姫と匂宮とのことで心労が増した大姫には、結婚というものがいっそう疎ましく思われます。薫の真心を理解すればするほど、いずれは互いに幻滅を感じるだろう結婚などせず、気持ちを保ち続けたいと願います。容貌が衰えていますから、がっかりされるのでは、と微かに笑っておられるらしい様子が、不思議なまでに慕わしいのです。そんな薫が、すっかり主人方で大きな顔をしている、と匂宮は相変わらず勘違いしています。

 

 匂宮は中姫を、いつかは誰よりも高い地位につけたいものだと考えており、簡単に京に呼んで宮仕えさせるつもりもないのです。これほど愛していながら、なかなか逢えずに悩んでおられるのが気の毒で、薫は自分が兄代わりとなって中宮にも認められるよう、はからおうと心を砕きます。

 

 十月、匂宮は紅葉狩りを催すことにします。きっとお立ち寄りになるはずと、薫がこまごまと言ってやったので、宇治では掃除などに余念がありません。しかしながら一行は仰々しく、宴では人の出入りが多くて、結局はお忍びで宇治へ向かうことはできませんでした

 

 派手な遊びを見せつけられただけで、無視して通り過ぎられたかたちになってしまいました。中姫はそれでも匂宮の愛を信じるところがあるのですが、失望した大姫は健康を損ねます

 

 匂宮が顧みようとしない左大臣(夕霧)の姫である六の君の兄が、中姫のことを明石中宮の耳に入れて中傷したので、匂宮への監視はますます厳しくなり、無理にでも六の君と結婚させる運びとなります。匂宮は姉の女一の宮を訪ねますが、そのご様子からも中姫のことが思い出されます。しかし気の多い匂宮は、かつてから惹かれている冷泉院の内親王のことや、姉宮がもしこれほど近しい血筋でなければとあらぬことなどを考えたり、新顔の女房に引っかかったりしつつ、あえて宇治へ赴くこともなく日を過ごしておられます。

 

 大姫の病気を聞き、薫が見舞いに訪れます。匂宮と中姫のことを慰めて言って聞かせ、世話を焼いて看病します。しかし薫の従者で、宇治の女房と恋仲になった男が匂宮の禁足のこと、六の君との婚約のこと、それが意に染まずに内裏で放埒に暮らしていることなどをしゃべってしまいます。それが耳に入ると、大姫はもはや生き永らえようとは思わなくなります。中姫が夢に父宮の姿を見た、と言われるのを聞き、二人で泣くのです。

 

 十月の末に匂宮から文が届き、中姫は促されて返事を書きます。もう一ヶ月も逢わないので匂宮も気が急いているのですが、いちいち障りが生じて出かけられません。母の中宮も少し譲歩して、そんなに好きな人がいるならば、六の君と結婚した後に重々しく迎えたらよい、と言っています。

 

 薫は、匂宮の心を期待していたよりも軽いと考えて、あまり近寄らなくなります。一方で大姫の容態を気にかけていますが、見舞いに訪れると、知らされていたよりも重篤です。どこが悪いということでもなく、ただもう物を召し上がろうとされないのでした。

 

 もはや会えないまま死ぬのかと思っていた、と言う大姫の手を取り、薫は泣きます。阿闍梨が、夢に見た八の宮がまだ冥府への道に迷っている、と言うのを聞き、大姫はその父と同じところに参りたいと願います。いくら祈祷をしても、本人に生きる意志がないのですから効き目はないのです。出家を望まれますが、皆に止められて残念に思われます。

 

 薫に付き添われるなか、大姫はものに隠れるように静かに亡くなります。人目もはばからず悲しみ、京へ出ようともしない薫に、その愛情の深さがうかがわれて多くのお見舞いが寄せられます。匂宮からも御慰問の品々が届きますが、最後まで姉を失望させたままだった方だと思うと、中姫には嬉しく思えません

 

 雪の降る日に、女房たちを集めて話などさせますと、皆口々に、中姫に結婚させたことを胸の内で深く後悔され、独りひそかに煩悶されて、ちょっとした果物すら口にされなくなった、と言います。自分の計らいのせいで、そんな物思いをさせていたかと思うと、取り返しのつかない思いで安眠もできません。

 

 と、夜明け頃、雪のなかを誰かがやってきます。悪天候をおして匂宮がやってきたのでしたが、中姫は逢おうとしません。そのまま姉の後を追って消え入ってしまいそうで、匂宮は帰らずに泊まってゆきます。中姫に冷たくされることの辛さから、自らのしてきた仕打ちを顧みられるのでした。そのようであるならば、中姫はきっと薫に心を移すだろう、などとも心配されます。

 

 暮れになって、薫は京に帰ります。薫の悲しみが深い有り様を見て、明石中宮も宇治の姫たちをいずれも軽々しく扱うべきではないものであったとお思いになります。その意を受けて、中姫を二条院の西の方に迎えよう、と匂宮は考えるのでした。

 

 総角の巻は、大姫の死という宇治物語最大のクライマックスを含むもので、以上、詳しく追いました。

 

 大姫は死の床で、薫を待っていました。会えずにこのまま死ぬのかと思った、という言葉から、それがうかがえます。相愛の男女でありながら、ついに結ばれずに亡くなります。その場面は、あの紫上の死と匹敵するほどに心を動かされ、涙を誘うものです。

 

 この大姫の死を薫が看取る場面を、「源氏物語中で最もエロティック」であると評する言葉が見られます。エロティックという言葉の定義にもよりますし、正直、そうかなあ、と思いますが、そのような評言で主張したいことは、なんとなくわかります。つまりは男女の仲にとってすら、肉体的な結びつきは絶対的なものではない、と強調したいのでしょう。それはその通りです。

 

 大姫の死が私たちの涙を誘うのは、相愛の男女が結ばれなかったからではありません。大姫は、薫との結びつきが幻滅に終わることなく、永遠なれと願っていた。それがある意味で成就したことが感動を呼ぶ、ということではないか。永遠の関係であろうとするがゆえに肉体的に結ばれることを拒み続けるという、それは普通の人々には理解しがたいことであり、女房たちは非難していました。しかし当の薫は、わかる気がする、と思ってしまうのですから、口説き手としてはそもそも難しい。つまりは肉体的に結ばれるまでもなく、二人はすでに通じ合っていたのです。それは薫が私淑していた大姫の父・八の宮の思想を通して、であるに違いありません。

 

 これまでに繰り返してきた通り、源氏物語は「理想から幻滅へ」という流れに沿って進んできました。理想のプリンスが現実の男に、理想の貴女が単なる母に、理想のカップルが夫婦喧嘩の果てに破綻し、という身も蓋もない現実化が「物語」を「小説」へと変容させてきた。

 

 すなわち大姫とは、この「幻滅」への流れにほぼ唯一、抗し得た女性です。あえてもう一人を挙げるなら、著者最愛の姫である紫上がそうでしょう。大姫の死が紫上のそれに匹敵し、重なり響き合うというのは、そういうことです。

 

 「大姫の死」には、ここまでの多くのエピソードが背景として流れ込んでもいます相手を拒むことで永遠に相手のなかに残ろうとして、若い人を残して逃げ去る、というのは物語の最初に出てくる空蝉がそうでした。また、愛する妹(または娘)が男に軽くあしらわれたと誤解し、煩悶して死んでしまうという成り行きは、夕霧と柏木未亡人の落葉の宮、その母のエピソードを思い出させます。煩悶させたのは匂宮ですが、夕霧同様にいつまでも女性に手出しをしなかった薫は源氏の子ということになっていながら柏木の子なのですから、源氏と葵上(柏木の叔母)との間の子である夕霧とは、その出自も重なります。源氏と左大臣(かつての源氏の親友の頭中将)家との間のハーフという意味で、ですが。

 

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 しかし大姫の死には、これらのエピソードにあった批判的な、あるいは戯画的なところは一切ありません。それらを踏襲したものではなく、ましてやパロディなどではないのです。大姫の死こそが、まさに源氏物語のテーマに肉薄する本歌である。これまでのエピソードの方がむしろ、そのテーマに我知らず袖すり合った瞬間の、哀れな浮世の人々の姿に過ぎません。

 

 では、「大姫の死」とは何なのでしょうか。そもそも大姫は、なぜ亡くなったのか。もちろんここでは、中姫と匂宮との結婚の行方に煩悶されて、と説明されています。それは落葉の宮とその母のエピソードと酷似していますが、ただ、そこには落葉の宮の母が陥っていた戯画的な「誤解」はありません。大姫はそのような俗世の愚かしさによってではなく、もとより宿命的に抱えた「絶望感」によって絶望している。大姫が徐々に何も口にされなくなるのは、どこか高僧の寂滅を思わせます。もちろん、それが煩悩による煩悶と紙一重である、ということこそ真実に近い

 

 そしてそのような深い「絶望」こそ、薫が抱え、彼を宇治に導いてきたものです。薫と大姫との恋愛とは、この絶対的な絶望感を共有し、それゆえに求め合うという極めて観念的なものです。

 

 このような観念的な恋愛小説こそが究極的な恋愛小説である、という価値観は今日でも生きています。それはセックスや風俗や、ちょっとした心理を描くものではなく、恋愛を通した世界認識そのものを示しています。

 

 現代の人気作家、江國香織さんの描く恋愛も、紛れもなくこの系譜に属します。そこに登場する男は、主人公の女性にとってはすでに生身の男ではなく、彼女が世界を把握するための「核」のようなものです。すなわち神的な様相を帯び、彼を中心として彼女は世界を観念的に認識してゆきます。

 

 このような江國香織作品が直木賞を受賞し、いわゆる大衆作家として位置づけられているのは驚くべき(呆れるべき?)ことです。そういった現世の制度を取り仕切っているのが多く男性であることを考えると、もしかすると彼らは江國作品で描かれている男性にリアリティがない、自分たちとかけ離れている、すなわちただの人気作家だ、と考えているのかもしれません。しかし男性の作品に出てくる女性もまた、たいていは現実の女性たちそのものでなく、彼らのテーマを表現するための媒体に過ぎない。そこからすれば、男たちが自分たちそのものを描いてもらっていないから、それを文学として解釈できない、というのは能力がなさすぎる。「100パーセントの女の子」なーんて書いちゃうような男性作家が、いったい何の冗談なのかノーベル賞候補だなんて取り沙汰される世の中だというのに、何のことはない。

 

 そしてもしかすると、このことの方がむしろ江國作品を制度に取り込むことを難しくしているのかもしれませんが、そこでの女性たちは自分の世界の「核」である男性が神様なんかじゃないこと、単なるくだらない浮気男であることをとっくに知っているのです。彼女たちはだから最初から、本当は大姫のごとく絶望している薫もまた、関係を結んでしまえば男として例外ではないと思い知らされると、よくわかっている大姫のように。

 

 『ウエハースの椅子』は、38歳の画家である「私」が、妻子ある「恋人」のときたまの訪れを受けながら暮らす日々を綴ったもので、プロットらしいプロットもありません。ただ、読みはじめると目が離せない。彼女が「恋人」を核として自分の世界を形作っている、その危うさと美しさ、緊張感。ときおり部屋には「絶望」が訪れます。「絶望」は観念であり、彼女に子供の頃のことを思い出させる。あるとき彼女は、「絶望」が「恋人」に似ていることに気づきます。少しずつ不安定になっていった彼女は、恋人との別れを決意し、物を食べるのをやめて(大姫のように)自然に死んでしまおうとします。

 

 『落下する夕方』の梨果は、八年間を一緒に暮らした健吾から別れを告げられます。華子という女性に恋をしたというのが理由でしたが、その華子はなぜか健吾のいなくなった、梨果の部屋に転がり込んできます。

 

 これらの作品を「不倫のなれの果てのアラフォーの姿」とか「新たなる三角関係」といった社会的な風俗で読み解こうとするのは無意味です。『ウエハースの椅子』の「妻子ある恋人」が家庭でどのような状況にあり、その社会的立場がどうなのかはここでは関心の外。問題は「私」という(正しく一人称である)主人公と世界との関係のみに集約される。彼女の世界には、恋人と妹、妹の恋人、猫、そして「絶望」という、世界との関係を構築する最小限のものしか入ってきません。しかし、その世界にもちょっとずつひび割れが生じて、「恋人」にも美しい観念そのものでない、現実を背負っている存在感が微かによぎり、そして主人公にもそれを担保するような「希望」がちらついてくる。それこそが危機であり、彼女を不安定にさせ、世界という観念の破綻を見まいとさせる

 

 『落下する夕方』の華子は、あの『ティファニーで朝食を』のホリー・ゴライトリーを思わせるように奔放で勝手ですが、少女のように頼りなくて無垢です。華子に男を奪われた女たちが皆、腹を立てつつ気にかけるのは、彼女がまるで子供そのものだからでしょう。とりわけ梨果は、華子がいなくなって激しく取り乱します。実際、華子が本当になついた他人は梨果だけのようなのです。それをまた、レズビアンといった社会的なコードに当てはめようとすれば、ただの的外れになる。

 

 「かつて、私は子供で、子供というものがおそらくみんなそうであるように、絶望していた。」(『ウエハースの椅子』)

 

 世界と対峙しようとするとき、恋愛はひとつの方便に過ぎません。あらゆる制度とも社会的なコードとも無縁に、ただ永遠で絶対的な観念で世界を捉えようとするなら、〈子供〉の自分が世界と対峙した、そのときと同じ光景が喚起されるのは必然です。

 

 江國香織が児童文学からデビューし、魅力的な童話をも書き続けていることも必然であるように思えます。そのことが社会的な文学の制度においては、いわゆる「女子供の文学」としてさらに判別評価を難しくしているのだとしても、この系譜は本当のところは文学の純粋な観念をめぐっている。(それに、文学で解決される社会問題などすでにない今日、女子供以外にいまやいったい誰が小説を読むというのでしょう?)

 

 私はたまたま江國香織さんと近い世代ですが、この系譜の作品のプレテキストとして金井美恵子という先輩作家を尊敬し、忘れることはできません。私個人はちょうど十代後半から二十歳ぐらいにかけて、金井さんの長編『岸辺のない海』や「愛の生活」、「海の果実」といった短編小説を繰り返し読みました。小説として正統的なテクニックによって完成されていたかどうかはともかく、まだ子供に近かった自分の、そのままの感性で直接的に世界と対峙すること、それが〈文学〉そのものだということに非常な驚きと新鮮な感動を覚えました。

 

 女の子たちは恋愛のことばかり考えています。それはけれども、男のことばかり考えているのではないのです。恋愛を通して〈世界〉を把握しようとしている。そうでなければ他人に夢中になどなれるわけがない。そしていつしか、あるいは賢い娘なら最初から、〈恋人〉とは観念に過ぎないことを理解する。その深い絶望ゆえに、ときには死をもって〈世界〉という観念を守ろうとするのです。大姫のように。

(第35回・了)

小原眞紀子