荒木経惟の数ある写真集のうちで最も高い知名度を誇るのは、『センチメンタルな旅・冬の旅』(1991)ではないだろうか。作品の知名度は必ずしも完成度と比例しないのが常であるが、この場合、それが荒木の傑作のひとつでもあることに多くの異論は出まい。
原則として、写真はひとつのフレームの単位で作品として存在する。決して長くないこの芸術の歴史において、多くの写真家が自信作を雑誌に投稿し、新聞に売り込み、一夜にして名声を得ている。しかし、写真は流動的な表現形式でもある。個展や写真集という形で、多くの写真があらためてひとつの作品を構成し、世に問われることもある。そして現代においては、写真家が定期的に写真集を発表するという形で活動することが、むしろ普通になっている。四百冊以上とも言われる写真集を送り出した荒木経惟は、そのような現代写真家の代表格といってもよいだろう。
写真は芸術である以上、その対象に制限がない。荒木はその対象のひとつに「死」を選んでいる。それはよくも悪くも『センチメンタルな旅・冬の旅』を有名にしている理由の一端であるが、身近な死者の姿を写真に収め、それを商業的な場で発表することの是非を問うなどということは、それこそあまりに「センチメンタル」な反応であり、ここで掘り下げる必要はない。問題は『センチメンタルな旅・冬の旅』が提出する「死」が、あらゆる解釈に開かれているということである。
ここで「死」の当事者の位置にあるのは写真家の妻である。だがこの死者を陽子夫人と捉えるか、それともひとりの女と捉えるかは、まったく観る者の自由に任されている。さらにその「死」こそがこの写真集という一冊の「物語」の中心であると考えるのか、あるいは『センチメンタルな旅』の21葉、『冬の旅』の91葉のなかで、それぞれの場面と並列されたひとつの出来事と考えるのかによっても、意味は大きく変わって来るだろう。「私写真」を標榜する写真家の作品たればこそ、まさに「私小説」の場合がそうであるように、「死」さえもが虚構に縁取られている。それは遺影が黒い縁取りに囲まれることで、初めて遺影としての意味を獲得することと似ている。
「死」へのまなざしがこれほど生々しく表現のなかに定着することに、私たちは不慣れであるかもしれない。しかし前例はいくらもある。例えばここにある一枚の家族の肖像がそれだ。デ・グランジェの「サルトンストール家の肖像」である。このイギリス系フランス人の画家については多くはわかっておらず、作品のほうが遥かに著名である。
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この十七世紀の英国の絵画は、一見したところ、これといって変わったところのない平凡な家族の肖像であるように思われる。夫婦と三人の子供たち、そしてもう一人の女性は親類であろう。しかし視覚イメージに現れる社会構造を研究しているジョナサン・ゴールドバーグによれば、これはとんでもない誤解なのである。
実は、中央に立つリチャード・サルトンストール卿が手をさしのべている横臥した婦人は、産褥に斃れた妻エリザベスそのひとである。当主と手をつないでいる子供たち(当時の習慣に則りドレスを着ているが、大きいほうの子は長男である)の生母は、つまりすでにこの世にない。そして赤子を抱いて座っているのが、その子を産んだ新しい妻なのである。このように、没した者と生きた者とが同じ場面に描かれることが、当時の家族の肖像画においてはしばしば行われていたという。
画中の人物たちの視線を追ってみると、死んだ妻は夫を見ているが、夫の方は後添えを見ている。だがこれは夫の冷酷さを意味しない。前妻の夫と子供たちへの愛情は繋がれた手を伝わって流れてゆく。夫はその愛を受けて、これから一家を支えてゆく後妻に、決意に溢れた信頼のまなざしを送っているように見える。そもそも肖像画の制作を依頼したのが当のサルトンストール卿であることを思えば、それはこの画中の人物の総体こそがわが一族であるという、亡妻への何よりの愛情表現でもあろう。
このような死者の記憶という作業は、写真術が登場すると、ほとんど自然に、その新しい媒体に依拠するようになった。つまり、死んだ家族の姿が写真に収められるようになったのである。その習慣がことに顕著だったのは、「サルトンストール家の肖像」が描かれたのとおなじ英国においてである。
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これらの写真に写った子供たちは、すでに息をしていない。しかし家族と写真技師は、棺に横たわって瞑目した姿ではなく、あたかも生きているかのような姿で、子供たちの最後の肖像写真を撮影することを選んだ。つまり生を演じた状態で写真に撮られることで、子供たちは永遠に、しかも生きているときと寸分たがわぬ姿で、記憶されつづけることができるのである。それは愛情に溢れた供養であり、服喪であり、死への抵抗でもあったろう。ヴィクトリア朝を特徴づける死への一種異様な拒絶反応は、産業革命期という機械化する時代の副作用でもあった。その副作用を和らげるのに、産業革命によってもたらされた写真術が珍重されるとは、どことなく皮肉な話でもある。
また、子供のものほど数は多くないが、死んだ大人たちも、しばしば写真によって家族史に焼きつけられている。死んだ大人を生きているように見せるためには、人形のように小さな子供たちとは違って、複雑な形をした鉄製のフレームを用いて立たせるなどの工夫が行われていた。おそらく加速する同業者との競争に勝ち残るためなのだろうが、「死後二年も経つ某氏の遺体を、見事いきいきと撮影!」などというような宣伝文句が巷間に出回るようになった。ここまで来ると、もはや「死」が商売道具に成り下がっているのは明らかである。
とまれ、このような撮影が流行したことが示すのは、単に「記録」にとどまらない「記憶」という写真の根源的な機能が人々に共有され、大きな意味を持つようになった、ということである。例えばマルセル・プルーストの小説『失われた時を求めて』にも、主人公の祖母が、この認識をきっかけに撮影に臨む場面がある。古きよき時代を懐かしむ祖母は、本来なら写真のような文明の利器は断固拒否する立場にある。しかし自らの死期が近いことを覚った彼女は、そのときの孫の悲しみをすこしでも緩和しようと、精一杯の若づくりをして写真に収まるのである。そうすることによって、その元気な自分の姿が孫の記憶に残る最後のものになることを、彼女は知っていたのである。
ところでロンドンへゆくと観光客向けの幽霊ツアーなるものがあるくらい、イギリスは幽霊の多い国である。日本人なら「だからどうした」と言いかねないが、実は幽霊話というのはどこの国にでも豊富にあるわけではない。どうやら日本やイギリスのように、湿気があったり寒かったりする時期のある国のほうが幽霊には快適らしく、南欧のような陽気のよいところにはお化けもあまり顔を出さないのである。思えば日本と西洋を怪談でつないだヘルンさんことラフカディオ・ハーン、後の小泉八雲も、出身こそギリシャだが、父方の血統はアイルランド人であった。
この期に及んで幽霊話などを引き合いに出すのは、「死」の尊厳への冒涜だと思われるだろうか。しかし事実はまったくの逆である。幽霊や化物への偏愛は生をいつくしむことの裏返しであるし、これら人外の魑魅は決して悪ではない。江戸の黄表紙に登場するお化け連中を見れば一目瞭然だが、彼らは滑稽なほど可愛らしく、また憐れなほど哀愁に満ちている。このような物怪が跋扈する日本とイギリスが、宗教的背景こそ違えど、どちらもひときわ葬礼や服喪を重んじる国であることも、決して偶然とは思われない。だから、まるでヴィクトリア朝の写真師のように写真に「死」を焦点化しようとした荒木が日本人であることも、どうやら自然なことではないか。
「写真を撮るということは、写真に撮られるものを自分のものにするということである」とスーザン・ソンタグは『写真論』のなかで述べている。つまり荒木経惟ほど多くを所有した人は稀であって、彼の所有物を納めた無限とも見える陳列棚には「死」さえもが整然と並んでいる。彼の写真を観るということはしたがって、私たちにもまた、豊かな所有の機会が与えられるということなのである。
大野ロベルト
【キャプション】
*1 伝デ・グランジェ「サルトンストール家の肖像」1636年頃、テート・ブリテン蔵。
*2 カナダ、モントリオールの写真館で撮影。1870年頃。
*3 イギリスで撮影。撮影年月不詳。
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