小説新潮 2015年 03 月号 [雑誌]

 

 

 「空き室あります」という特集である。小説誌の特集としてはめずらしく、なるほどと思った。表紙に描かれた賃貸マンションの階層も効いている。各短編には部屋番号が振ってあり、それぞれの部屋での出来事が物語になっている、という設えである。小説誌の特集そのものが単行本のようにすっきりしたコンセプトに仕上がって、なかなか洒落ている。

 

 そしてもちろん、そこには我々の暮らし方、人間関係の変化を考えさせるものもある。一昔前ならば、「空き部屋あります」の張り紙から始まる物語とは、大家と店子の、あるいは下宿人同士の関わり合いから生まれるものだった。今は物語は各壁に隔てられ、その室内で完結する。

 

 それは必ずしも物語が小さくなっている、ということではない。小さな箱が並んでいるだけのような、その中で何が起きているか。存外に深い穴に落ち込んだかのように、陰惨な事件やら、異次元やらが展開している可能性もある。人は他人と関わらないでいると、どこまでも自我を肥大化させる。コンパートメントの中では、非常識が非常識でなくなるのだ。

 

 大家や他の下宿人たちの、 安定した常識に支えられ、そこから少しだけはみ出した出来事や、それにまつわる人情を描いているかぎりは、それは社会の中での人のあり様を描く、いわゆる小説の枠組みから外れることはない。我々の暮らしの雛型の組み合わせ、そのバリエーションであるとも言える。

 

 そしてコンパートメントの中の物語には、たいてい事件が必要である。中心になるのは事件である。人間のあり様は、その事件によって照らし返されるのであり、最初に人間がいる、というわけではないようだ。それはそのコンパートメントに収まっている人間として定義されるしかないからである。個々のコンパートメントは、起きる事件の分類に使われているようでもあるのだ。

 

 人間のあり様が、事件によって知れる、少なくとも知らなかった面をそれによって初めて知った気になることも事実だ。一方で、そのような出来事で分類することのできない、不定形で暴力的な存在としての人間もまた、我々には馴染み深い。事件で知った気になるのは距離のある他人だが、不定形の存在はより身近で、ときに我々自身でもある。

 

 特集の(賃貸マンションの)外部に、西村賢太の「微笑崩壊」が置かれている。そこにあるのは分類可能な出来事ではなく、暴力的で定義不能な存在そのものだ。それを描いたからといって、どうなるものでもない。が、確かにそれが存在することを、我々の誰もが知っている、そういうものだ。

 

結局のところ、純文学とそれ以外のものを隔てるのは、対象への、あるいは対象化された我々自身への距離感しかないのだろう。その双方は補完的にと言うよりも、必然的にある。距離というものがあるかぎり、我々はどうしたところで距離をとったり縮めたりを繰り返すからだ。

池田浩