オール讀物 2014年 07月号 [雑誌]

 

 

 「オール讀物」様は部厚い雑誌でござーますの。今月号は五百十六ページで税込み定価千円ですわ。アテクシ、同じ版元の文藝春秋社から刊行されている「文學界」もときどき読みますけど、こちらはだいたい三百ページで税込み定価九百七十円でござーますわね。オール様の三分の二のページ数で、お値段が三十円しか安くありませんの。お高いわよ、プンプン。それともオール様の方がお・と・くと申し上げた方がよろしいのかしら。

 

 オール様には伊藤理佐先生の「おねいさん道」とやくみつる先生のマンガ二本が連載されていて、「オール談話室」という読者からのお便りコーナー、それに将棋、短歌、俳句のコーナーも連載されておりますの。至れり尽くせりだわぁ。あと足りないのはああた、占いよ、占いっ。編集部の殿方は、女子は占いがだーい好きだってことをお忘れじゃないこと。なんならアテクシが連載して差し上げてもよござんすわ。アテクシ、魔女の末裔だとのたまわっていた怪しいお婆さまに、イギリスでタロット占いを習ったのがひそかな自慢ですの。

 

 アテクシ、純粋読者の一人としてオール様を贔屓にさせていただいておりますけど、古本屋さんのワゴンなんかに小説雑誌が積まれていると、ついつい買って読んでしまいますの。もちろん小説単行本を買うことも多いのですが、そうねぇ、雑誌で読む方がリアルタイムっぽいのよ。ほら、美術館に通いつめて画家の作品の特徴を覚えちゃったっていうお方がときどきいらっしゃるでしょ。それに近い感覚ね。もしくはまだ売れていないアイドルを応援し始めて、スターになると大喜びするようなファン心理に近いわね。もちろんスターへの道は険しゅうございますから、ハラハラドキドキしながら見守っているのよ。

 

 ホントに作家様の道は厳しいと思いますわぁ。アテクシがいるビジネス界とはまた違う種類の厳しさね。文藝春秋社様の文芸誌は文學界様とオール様が二大巨頭で、それぞれ芥川賞と直木賞の顔といった感じでございます。でも同じ小説雑誌ですから、作家様は文學界にもオール様にもお書きになるの。読者層が違いますから、当然同じタイプの作品ではいけませんことよ。皆様違うタイプの作品をお書きになろうと苦労なさるわけでござーますけど、それによって、自ずから作家様の現在の力量が垣間見えてしまうことがあるのよねぇ。

 

 「兄貴がいないんだ」

 とジョニーは言った。

 「だから?」

 と今日子は言った。どうせ鳩でしょ、と。鳩というのは、この町から電車で二十分下ったところにある鳩温泉で、ささやかな歓楽街がある。

 「でも昨日からいないんだぜ。今まで一晩家を空けたことはないのに」

 「たまには一晩空けたい気分になったんでしょ。子供じゃないんだからだいじょうぶよ」

 「認知症じゃないのかなぁ」(中略)

 「なんで突然そういう話になるわけ?」

 「いや、なんか、おかしかったんだよ。この数日」

 「すねてるのよ。いやがらせよ。ジョニーが行っちゃうから」

 お客さーん、寺島さーん。表から引越業者が呼ぶ声がして、今日子は電話を切った。じゃあね、とも言わなかったので、怒りにまかせて切ったような格好になった」

(井上荒野『ジョニーへの伝言』)

 

 井上荒野(あれの)様は、井上光晴先生のご息女で直木賞作家でございます。『ジョニーへの伝言』は、言うまでもなくペドロ&カプリシャスの一九七三年の大ヒット曲、『ジョニィへの伝言』を下敷きにしておりますの。正直に申しますと、タイトルを見た時、アテクシの中の小悪魔ちゃんが、「ああまた通俗小説の愉楽にひたるのねぇ」と囁きましたの。でも小説って最後まで読んでみなければわからないものだわ。『ジョニーへの伝言』は秀作でございます。久しぶりにハッと目がさめるよう作品を読ませていただきましたことよ。

 

 主人公の今日子は東京から数時間ほど離れた田舎町で、母親の店を継いでスナックのママをしている三十三歳の女性です。常連客で、兄の一郎といっしょに鍼灸院を経営している正男が恋人ですが、今日子は正男をジョニーと呼んでいます。「もちろんキャロル時代のじゃなくて、小太りになってからのほうだ」とあります。ジョニーは五十歳です。今日子は「ジョニーがたったの五十歳だってわかってるのは、あたしだけだもん」と甘えますが、だいぶ年の差のあるカップルです。ロッカーのあだなとは裏腹に、ごく普通の男が恋人です。またジョニーには若い恋人でも、今日子も中年のとば口に差しかかった年齢です。

 

 今日子たちが住む町の近くの温泉で、オーディション形式の、テレビの歌唱歌番組が開催されます。ジョニーに勧められて出場した今日子は、あれよあれよというまに東京のスタジオで開催される決勝にまで進みます。惜しくも準決勝で敗退しましたが、ある音楽プロダクションにスカウトされます。今日子は母親から受け継いだスナックを売り、東京に小さな家を買って移り住むことを決意します。もちろんジョニーもいっしょです。しかしジョニーの兄の一郎は、今日子とジョニーが付き合うことにも、ジョニーが東京に行くことにも反対です。そして今日子が荷物を送り出し、あとは夕方に、元の今日子のスナックで開かれる送別会に出席して、東京行きの電車に乗るという日に事件は起こるのです。

 

 それでもここへ来ることは度々あった。そこから何が見えるかにかかわらず、きっと人には展望台というものが必要なのだ。東京で一緒に暮らす話をジョニーとしたのもここだった。変化といえば寂れるしかない町を見下ろしているときのほうが、ジョニーは意欲が出るようだった。そうだね、東京でも鍼灸院は開けるよね。ここにいるよりずっと繁盛するかもしれない。今日子と離れて暮らすなんて耐えられないよ。ひとりでなんて行かせられない。一緒に行くよ。一緒に暮らそう。お互いに仕事が軌道に乗ったら、結婚しよう――そのとき今日子が、俺みたいなオヤジをまだ好きでいてくれたら。俺の気持ちは変わりはしないよ。ぜったいに。そうだ、一緒に行こう。うちの鍼灸院は兄貴ひとりいればじゅうぶんだ。今夜にも兄貴に話すよ。

(同)

 

 ジョニーから「兄貴がいないんだ」という電話をもらった今日子は、一郎を探しに町に出ます。ジョニーと東京に行くと決まっているとはいえ、やはり一郎と話しておく必要があると感じたからです。しかし一郎は見つかりません。今日子は子供の頃から通っていた町の展望台に登ります。「そこから何が見えるかにかかわらず、きっと人には展望台というものが必要なのだ」とあるように、今日子は一人高みに登って今までの人生を見下ろしています。恋人のジョニーも今日子に寄り添って、それまでの人生を見下ろしているのを感じます。

 

 『ジョニーへの伝言』の井上様の文章は素晴らしゅうござーますわ。なにが素晴らしいのかを説明するのはアテクシには難しゅうございますけど、そうね、〝圧〟がかっておりますの。純文学と違って大衆小説は、サラリと読めて、「ああ面白かった」と読者に思わせなければいけません。でも作家様が読者のレベルはこんなものという感じで作品をお書きになると、やっぱりそれは読者に伝わってしまいますのよ。作家様がお持ちの最良の部分を表現しながら、なおかつ大衆小説の様式を踏まえていないと、星の数ほどいる大衆作家の一人にはなれても、たとえばオール様の看板を背負うようなスター作家にはなれませんことよ。

 

 二本目のビールを自分で出して、席に戻った。自分に注いで陽ちゃんにも注ぐと、「あ、サンキュ」と言ったが、目を合わせようとしない。(中略)今日子のほうは今朝からずっと雲の中を歩いている心地だったのが、次第に視界が明瞭になっていくようだった。あきらかにおかしいのにそう感じまいとしていたことがあらためてはっきりしたかたちになって、カチリ、カチリとパズルのピースのように景色の中にはまっていく。(中略)

 つまりこういうことなのかもしれない。(中略)今日子が何と言おうとも、たったの五十歳だとは、ジョニーはどうしても思えなかったのかもしれない。たったの三十三歳だとも、言えなかっただけでなく思っていなかったのかもしれない。(中略)この町にずっといる今日子が好きだったのかもしれない。ジョニーも、ほかのみんなも。

(同)

 

 今日子は夜七時の電車で東京に向かう予定ですが、六時から開かれる送別会にスナックの常連客は一人も現れません。今日子と彼女の店を受け継いだマスターの陽ちゃん二人きりです。もちろんジョニーも来ないのです。そこに一郎がやってきます。「何しに来たの?」「見送りに来たんだよ」「なんで?」「そうしたかったからだよ」という会話を今日子と一郎は交わします。今日子はすべてを悟ります。ジョニーへの伝言を一郎にたくして、一人東京に向かうことになるわけです。

 

 柄にもないことを言えば、井上様の『ジョニーへの伝言』は小説とはなにかを考えさせますわねぇ。小説ではプロットが重要よ。特に大衆小説の場合はプロット命と言ってもようござんす。でもプロットが面白ければいいのかと申しますと、ダメよ~ダメダメなのでござーます。『ジョニーへの伝言』は久しぶりに、純文学と大衆小説といった区分を超えた、良質の文を読む楽しみをアテクシに与えてくださいましたことよ。

佐藤知恵子

 

 

 

 

 

 

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