ラモーナ・ツァラヌさんの『青い目で観る日本伝統芸能』『No.011 現代を反映する能―新作能〈無明の井〉』をアップしましたぁ。『無明の井』(むみょうのい)は2012年4月21日に国立能楽堂で上演された作品ですが、ラモーナさんは『上演を観たのは2年前のことだが、新作能の意義と可能性を見せる見事な一例としてここで紹介したい』と書いておられます。作者は免疫学者として有名な多田富雄さんです。
多田先生は学生時代に、詩人の安藤元雄さん、文芸批評家で小説家の江藤淳さんらと同人誌を出しておられたことが知られています。もちろん免疫学の権威であり、不肖・石川も『免疫の意味論』、『免疫の「自己」と「非自己」の科学』などを読みました。しかし『新作能〈無明の井〉は、1991年初演で、それ以来日本や海外で複数回上演された。〈鷹姫〉(W・B・イェイツ作)と同様、新作能としては珍しい例だ』(ラモーナさん)といふことは知りませんでした。文学金魚、勉強になるなぁ(爆)。
『無明の井』は臓器移植を主題にした能です。ラモーナさんは、多田先生は『脳死状態で身体的な死が認められるべきかどうか、また脳死段階で臓器の摘出とその移植が許されるべきかという問題に対して大きな疑問を抱いた。・・・科学の立場では、生死にまつわる論争には答えが出ないはずだという多田氏の考えが、この問題を芸術の手法で扱うきっかけとなった』と書いておられます。多田先生は科学と倫理両方にまたがる問題を能で表現しようとされたやうです。
ただ『無明の井』は臓器移植は是か非かを明らかにするための作品ではありません。ドナーの男も移植を受けた女も苦しむ。『男は魂が冥途に行こうとしても、自分の心臓がまだ生きているから成仏できないと訴える。一方、女は・・・他人の命を奪って永らえた自分が許せないと訴える。救いのない苦しみにさいなまれる二人の霊は、僧に弔いのお祈りを頼み、涸れ井戸の底へ消えてゆく』わけです。このあたりの生臭さはお能独自のものですね。
お能は絶対矛盾や解決不能な問題をテーマにすることが多い芸術です。ただその表現様式は非常に洗練されている。この洗練は悟りの境地によってもたらされたわけではなく、世界を非人間的な冷眼で見た光景のやうな感じです。もしかすると能の動きのなさは、動きたくても動けない、そのテーマの重さゆえかもしれません。
いずれにせよ重く生臭い問題であればあるほど、繊細で夢のような表現に仕上げてしまふ能が、日本独自の芸術表現であることは確かです。ラモーナさんが『能の独特な世界観を援用した〈無明の井〉は、能という芸術が現代人にとってどのような意味を持っているのかを、示唆しているように思う』と論じておられる通りでしょうね。
■ ラモーナ・ツァラヌ 『青い目で観る日本伝統芸能』『No.011 現代を反映する能―新作能〈無明の井〉』 ■