金井純さんのBOOKレビュー『絵のある本のはなし』『No.017 京都御所 大宮・仙洞御所』をアップしましたぁ。京都新聞出版センター刊の『京都御所 大宮・仙洞御所』を取り上げておられます。大宮御所は皇太后(大宮)の御所で、仙洞御所は上皇や法皇の御所です。小堀遠州作の池泉回遊式庭園があることでも有名です。仙洞御所は慶応三年の火事で焼失しましたが、大宮御所は大正時代に改築された建物が残っており、皇室の方々が京都に行幸される際の宿泊所として使用されています。もちろん普段は非公開です。
天皇制は日本文化の根幹に関わるテーマです。しばしば政治問題として議論されますが、たいていの場合、現代民主主義の中でどう位置付けるのか、整合性を取るかといふ問題になります。しかし天皇制は現代民主主義よりもずっと古い。どうしても現代とは折り合わない面を持っているので議論になるのだとも言えます。ただ古代から平安時代の国風文化、つまり日本文化の基盤成立期までを考察する時、天皇制と日本文化は相即不離の関係にあります。
明治維新以降、日本に限らず世界はヨーロッパ式の用語定義と論理で物事を考えるようになりました。思考パラダイムがヨーロッパ式に統一されたわけです。この共通思考パラダイムは当面の間変わりそうにありません。そしてこの思考方法で日本(あるいは東洋)文化を考察する時、中心は不在だと言わざるを得ない面があります。世界を統御する神的極点思想が存在しないのです。日本では神道、仏教、儒教が各時代の規範的思想として存在してきましたが、どれも中心だとは言えない。変わっていないのは、ほとんどの時代を静謐な負の焦点として過ごしてきた天皇制だけだとも言えます。不思議なことに平安時代末期以降、日本では天皇が強権を持つた時に、国が乱れがちになる傾向があります。
そのあたりの機微を金井さんは、『「聴雪」のページに、「美しい名の茶室ではないか」とある。・・・気がつくことは、美しいのは茶室の名ではなく、日本語そのものだということだ。・・・その言葉が茶室を象徴するのではなく、それを感じる感性が茶室をそのようにあらしめようとしているということである』と書いておられます。聴雪といふ茶室名は記号に過ぎません。しかし『記号の中に生きることが幸福なのは、そのすべてが中心そのものだからだ。夾雑物はなく、透明である。それ以上のものはなく、ただそこにあり続ければよい。すなわちそれは空虚であるとも見える。空虚でありながら満ち足りているものこそが、「日本」なるものの中心である』とも金井さんは批評しておられます。
ソシュール以降のシニフィエ、シニフィアン概念にわたしたちは慣れ親しんでいます。しかし漢字文化圏では、どーもその定義と論理だけでは不十分なやうです。言葉をそう簡単に記号表現と記号内容に分別することができない。金井さんが『日本なるものの中心が実在し、しかも空虚であることによって、我々の意識と無意識はそこに集まり、留まって、なおかつ満ち足りることができる。それは我々が日本人であることの証左ではない。我々がまさしく「日本語で出来ている」ことの証左なのだ』と書いておられる通りかもしれません。
■ 金井純 BOOKレビュー『絵のある本のはなし』『No.017 京都御所 大宮・仙洞御所』 ■