長岡しおりさんの文芸誌時評『No.017 すばる 2014年07月号』をアップしましたぁ。『特集 有吉佐和子 没後30年 〝不朽〟ということ』を取り上げておられます。いつの時代でも過去の作家の仕事を検討するのは有益です。芭蕉の用語を使えば〝不易〟と〝流行〟を同時に検討できるからです。ジャンルによって質は異なりますが、文学には揺さぶりをかけてもどうしても変えられない基盤のようなものがあります。流行は〝現代性〟と言い換えても良いですが、これは相対的なものです。今現在新しく感じられる表現や内容が、将来もそうであり続ける可能性は低い。不易的な文学の基盤をおさえた現代性でなければ、たとえセンセーショナルなものであってもその寿命はあっけないほど短いのが常です。
有吉佐和子さんは昭和6年(1931年)生まれの戦中派で、戦後文学の巨匠の一人です。しかしちょっと前にこの編集後記で書きましたが、その評価は十分に定まっていないと思います。『すばる』さんには申し訳ないですが、誰もが〝不朽〟と認知するほど有吉文学は読み込まれていない。戦後文学からはみ出してしまう部分が大きいわけです。それが有吉文学の可能性として感じられるわけですが、それを長岡さんは特集に抄録された『花ならば赤く』を手がかりに読み解いておられます。
長岡さんは『有吉佐和子は他の作品でも、女性の化粧を「武装」と述べている。化粧の美しさは猛々しさであり、化粧を落とせば女は醜くなるのではなく、無防備になるのだ。男たちが考えるように、男の気を惹くために「化ける」のではない。化粧をいくら厚くしても、それはその女の本質をくっきりと露わにするものである。ならば確かに、それは社会に対する女の宣戦布告だ』と書いておられます。
まったくその通りだと思います。女性の化粧は基本的に自己のためのものです。女子高生のミニスカートなども同質だと思います。社会に対する〝武装〟で〝宣戦布告〟だと捉えないと、こっけいな男根主義的視点で女性を捉えてしまうことになる。常に男性を前提に女性の化粧やオシャレを捉えていいのは、ステレオタイプな登場人物たちを楽しむハードボイルドなどの大衆小説だけです。有吉さんは大衆作家として捉えられがちですが、大衆文学にありがちなステレオタイプとはまったく無縁であったわけです。
それを長岡さんは、『有吉文学には幻想はない。それが最大の特徴かもしれない。だからこそ戦後社会のあり様を端的に捉え得た。高度経済成長の勢いに熱くなった男たちの幻想から距離をおくことができるのは、これも当然のことだが、女だけであった。幻想の代わりに、そこにあるものは古びようのないある原理だ。女が女であるかぎり持っている強さ、生命感が結局はすべてを呑み込んでゆく』と書いておられます。有吉文学の良質のレジュメですね。男性作家や男性作家が作り出した文学史を仮想敵とするのではなく、正面から女性作家をとらえた評論はもっと書かれていいと思いますですぅ。
■ 長岡しおりさんの文芸誌時評 『No.017 すばる 2014年07月号』 ■