谷輪洋一さんの文芸誌時評『No.006 papyrus(2014年06月号)』をアップしましたぁ。谷輪さんは劇団ひとりと大泉洋さんの対談を取り上げておられます。大泉さんは、劇団ひとりさん監督の映画『青天の霹靂』に主演されています。原作も劇団ひとりさんの同名小説で、『papyrus』の版元・幻冬舎さんから刊行されています。先日、KADOKAWAとニコニコ動画のドワンゴの合併が発表されましたが、幻冬舎さんも活字コンテンツと動画系のデジタルコンテンツとの融合を積極的に進めておられます。
活字メディアとデジタルメディアの融合は、現在、とても大きなビジネス・イシューになっています。ただそれは簡単ではありません。ドラマの脚本家など、最初からデジタルメディアに近い映像畑で仕事をしている作家を除けば、活字メディアが生み出す主要商品は小説などの物語です。その現場はいくらデジタル化が進んでも古色蒼然としています。手書きだろうとワープロだろうと、一人の作家が物語を書くだけです。その配信方法にデジタルメディアが追加されたわけですが、当たり前ですがデジタル配信されたからと言って、その作品が映像化に向いているわけではない。コンテンツの配信方法は多様化しましたが、良質のコンテンツが生まれなければ手も足も出ない。コンテンツの質さえよければ、配信方法は選び放題になっているだけだとも言えます。
ただデジタルメディアの定着によって、新たな才能を発掘しやすくなっているのは確かだと思います。ページ数に限りがある紙メディアの文芸誌は本当に狭き門です。一つの作品を発表するまでに半年や一年かかるのは珍しくありません。しかしその労力に見合ったヒット作がなかなか生まれて来ない。文学金魚が文壇の制度的疲弊と言っているのは、そのような現実も含みます。何がヒットするかわからない以上、様々な作家にどんどん書かせた方が、新たな才能、新たなヒット作を発掘しやすくなるのではないかと思います。
そうは言っても、玉石混淆の投稿サイトを作りファン投票で作品をランク付けしても、たいていは内輪ノリで終わってしまう。活字メディア=文学業界は古色蒼然としていますが、文学作品である以上、この業界の最低限の〝掟〟は踏襲しなければなりません。簡単に言えば、活字とデジタルメディアの長所・短所を知り尽くしたブレーン集団が、〝なぜ今この作品なのか?〟という理由付けをして作品を世に送り出さなければ、社会全体にアピールできる新たなパラダイムは作り出せません。文学には売れればそれで目出度しという資本主義原理から、どうしてもはみ出してしまう部分があるわけです。
谷輪さんは『お笑いやバラエティー番組を構成する「作家」と呼ばれる人々には、だから純文学「作家」や、大衆小説「作家」のような内面はなく、テレビの現場のそのときどきの状況に対する「反応」がある。・・・それは確かに “ 子供 ”たちの有り様に似ている。・・・だから私たちは、あくまで “ 子供 ” で居続けようとする者、あくまで外面的であり続けようとする者たちを、はらはらしながら観ずにはおられない。・・・テレビに見るべきものは、その切羽詰まった危機感以外、おそらくはない』と書いておられます。
これはテレビ業界のいわゆる〝掟〟です。それぞれの業界に掟があるということです。そしてその掟には必ず理由があります。活字メディアとデジタルメディアの融合は、この掟を破ることではなく、むしろそれぞれの業界の掟を理解することから始まると思います。デジタルメディアの都合(掟)を本当に理解できるようになれば、古色蒼然とした文学業界もそれに応じて変わる。つまり新たなタイプの作品を生み出してゆくようになると思います。
■谷輪洋一 文芸誌時評『No.006 papyrus(2014年06月号)』■