菜穂実さんの連載小説『ケータイ小説!』(第29回)をアップしましたぁ。ジェットコースター小説、進行中でありまふ。こういふ書き方ってあるのねぇと、不肖・石川、単純に感心してしまひました。『「歯よりも大事なもんがあるんだ。タニマチだよ」/谷、町って。どこだよ。/「場所じゃないよ。ツテと資金ってこと。それを持ってる人脈だって」』というような、省略と的確な描写が『ケータイ小説』の醍醐味です。またそれが作品に素晴らしいスピード感を与えています。
詩や小説は〝人間存在とはなにか?〟を探究するために生まれた芸術形式です。詩が人間を人間たらしめている言葉との関係探究に労力を注ぐのに対して、小説は多くの場合、人間関係そのものを中心に据えてその探究を行います。もちろん小説文学での探究は様々なサブジャンルを生み出しています。人間存在の得体の知れなさを表現するときはホラーや幻想小説になりますし、人間存在の悪の側面を描きたいときはサスペンスやバイオレンス小説になります。また人間存在の純粋さが恋愛小説を生み出したりするわけです。
ただどの場合でも小説文学の中心にあるのが〝物語〟であるのは間違いありません。物語は人間の心理に基づく行動を極度に抽象化して描く方法ですが、行動を制限すればするほどいわゆる純文学に近づきます。人間心理を掘り下げることが可能になるからです。行動中心に描くといわゆる大衆文学に近づきます。人間の行動がダイナミックな事件を起こし、その衝撃が読者を釘付けにするわけです。行動(事件)の連鎖によって、自ずから主人公の心理が露わになる形式だと言ってもいいかと思います。
これらはもちろん杓子定規な定義、あるいは現在の文壇制度に基づく定義です。現実に書かれている純文学作品のほとんどは、現代人の心理の〝核〟を描き出せていません。純文学的な〝形式〟ばかりが目立つようになっている。むしろ行動(事件)中心の大衆文学的試行の方にこそ、不透明な現代に肉薄できる可能性があるかもしれません。限られた作家の個の能力に頼り切った純文学スタイルでは、大きく変容しつつある社会を捉えきれないのです。行動する人間たちによって織りなすされる関係性そのものが、社会の変化を鏡のように映し出す可能性があります。
ケータイ小説を含むライトノベルは、携帯電話の普及と同時に1990年代に生まれました。文学業界全体として捉えれば、もはや無視できないほどの大きな市場に成長しています。しかしこのジャンルの本質を的確に表現する作品も批評も、まだ現れていないように感じます。乱暴なことを言えば多くの既成の文学者たちは、漱石も鷗外も戦後文学も読んだことのない若者たちが小説のようなものを書いている、幼稚で未熟なジャンルとしてラノベを認識していると思います。いわゆる〝大文字の文学〟とは切り離された市場としてラノベを捉えている。
しかしそのような蔑視が覆る瞬間はやってくるだろうと思います。不肖・石川は菜穂実さんの『ケータイ小説』にその可能性を感じます。この小説はケータイ小説・ラノベの形式を取っていますが、メタ=ケータイ小説・ラノベ作品だと思います。行動中心の物語のダイナミズムはもちろん、改行の多さに必然性が感じ取れますし、最少限度に抑制されている心理描写なども確信的です。つまりケータイ小説やラノベの形式が相対化されている。新たな小説文学の可能性を感じます。