『金魚詩壇 討議&インタビュー』 『No.003 【大岡頌司 没後十年記念】 高橋龍、前衛俳句の時代を語る』をアップしましたぁ。本当は去年やっておかなければならなかったのですが、大岡頌司さん没後十年記念のインタビューを継続して行いました。今回は俳人の高橋龍さんにお話をおうかがいしました。高橋さんは高梨花人門下で、高柳重信の『俳句評論』に参加され、その編集にも携わりました。インタビュアーは金魚屋詩部門アドバイザーの鶴山裕司さんです。
金魚屋は総合文学サイトですから、短歌、俳句、自由詩も取り上げます。こりは詩人さんたちのお話をお聞きした上での不肖・石川の感想ですが、短歌は既に死んでいるやうな気がします。比較的最近大きな話題になった歌集-といふより一般読書界で広く読まれた唯一の歌集は俵万智さんの『サラダ記念日』だけです。ほんで現在一世を風靡している口語短歌はその延長上にある。つまりそこにわずかに短歌の新たな可能性があったわけです。〝口語〟が問題なのではなく、あえて短歌伝統を無視した女性的掟破り表現が、短い期間であるにせよ、短歌に新たな生を与えた。
この女性的掟破り表現が必ずしも生物学的性差に基づいていないことは、現在の口語短歌を見ればよくわかります。むしろ男性作家が参入してくることでその特徴が先鋭化する。こりは平安短歌と同じ構造ですね。歌人も年齢を重ねるにつれ多かれ少なかれ伝統回帰を始めますが、口語であろうと文語体であろうと、かつての短歌伝統に近接できないことははっきりしている。乱暴に言えば短歌の新たな可能性は、短歌のわずかな生の側面に注目してはしゃぐのか、完全にその死を受け入れて同化する(擬く)のか、二つの方法しかないやうに思います。歌人も若いうちははしゃぎたいですよね(爆)。
俳句は生きた芸術だと言えますが、これも乱暴に言えば、短歌寂滅の鎌倉初期以降の日本的精神を表現の基盤としているからだと思われます。しかし俳句の世界、ひじょ~に面倒くさい。俳句は実体として習い事芸ですが、その頂点にたくさんの先生がおられる。この先生たちが文学としての俳句を代表していれば問題ないのですが、そーとも言えない。ミイラ取りがミイラになるやうに、習い事芸のレベルに同化してしまっている。
今回のインタビューでも〝俳壇モノポリーゲーム〟といふ言葉が飛び出していますが、新聞テレビなどの大メディアの投稿欄や賞の選考委員などは、見事に大結社の先生方に割り振られております。つまり俳壇の対社会的アウトプットは、文学的評価序列ではなく、政権与党のやうな大結社序列で占められている。しがらみなく賞を授与されるのは俳人が若い内だけで、そのご褒美として大結社や協会に滅私奉公する姿勢を見せなければ、いずれ賞とは無縁になっていきます。ほんで詩壇では賞の受賞くらいしか一般社会にアピールできる場がない。詩壇では本の売上げの多寡で文学的価値をはかることも難しいので、八方ふさがりのつらい世界ですな。俳壇での出世って、能力ではなく忠誠心や年功序列で出世が決まる、古い日本の会社組織みたいです(爆)。
ほんで文学金魚が短歌や俳句の実体をどー考えているかですが、なんも考えておりまへん(爆)。現実の短歌や俳句界をどー動かしていくのかは歌人や俳人さんたちの問題です。どーぞお好きになすってくらはい。ただ文学金魚では、なぜ現在のやうな短歌・俳句文学になっているのか、どうして実体としての歌壇・俳壇ができあがっているのかを、できるだけ原理的に考察したいと思います。文学金魚が興味を抱いているのはそういう点だけでごぢゃります。
現実を見ると既存の俳壇メディアは、俳句を文学として捉えるいわゆる前衛俳句が理解できないやうです。それは文学金魚も同じです。習い事芸を中心に据えて俳句文学を考えることがどーしてもできない。子規、蕪村、芭蕉と歴史を遡れば明らかですが、たまさか生まれた一句や二句の秀句がこの文学の基盤になることはない。作品と理論が一体化している必要がある。それが俳句をいわゆる国民文学にしている理由です。文学金魚では今後も前衛系の俳句を取り上げることが多くなると思いますが、それでバランスが取れるやうになれば良いと思っております。また短歌や俳句界で起こったことは、必ず自由詩や小説の世界にも影響を与えるやうになりまふ。
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