小原眞紀子さんの『Ongaku & Bungaku by Kingyo』『No.014 卒業-尾崎豊』をアップしましたぁ。久しぶりのOngaku & Bungaku by Kingyoです。尾崎豊さんは不肖・石川が説明するまでもなく、1992年に27歳でお亡くなりになったカリスマシンガーソングライターです。さういえば尾崎さんの自筆ノートが発表され、それを機に『小説新潮 2012年04月号』で特集が組まれたことがありました。時評者の水野さんは『今回の肉筆ノートの掲載は、純文学誌の新潮に譲った方が、まだしもしっくりきたんじゃないか』と書いておられました。小原さんも同意見のようですが、そのお考えは、水野さんよりもそっと突っ込んだものであるやうです。
小原さんは『尾崎豊はすでに「純文学」であるらしい。それはいわゆる純文学作品よりも純文学らしさを身にまとっている、という意味で「純文学」なのだ。・・・尾崎豊を「純文学」にしたのは、テレビのドキュメンタリーでも小説新潮の特集でもなく、彼の死である』と書いておられます。石川を含め文学業界にいる人間にとって、純文学とはまず、どうしようもなく矛盾し混乱した人間存在を描き出す小説作品のことです。しかし尾崎さんの人生と作品は、そのような矛盾や混乱に頭から突っ込んでいく手前で終わってしまった。
小原さんは尾崎さんの代表曲『卒業』について、『「この支配からの卒業」の支配とは、大人たちの支配であるらしい。それはしかし極めて安全な「支配」で、行き届いた「管理」だ』と書いておられます。簡単に言えば人間にとっての本当の戦いは、そのような安全で行き届いた支配や管理の時期を終えたところから始まる。そういう状況に立たされれば、誰かを、何かを〝純粋に〟批判することはできなくなる。人間はいずれの段階かで自らの意志で支配や管理を受け入れ、また自分自身がそれを行使する存在にならざるを得ないからです。
もちろん尾崎さんはそれに気づいていたんでしょうね。尾崎さんの『卒業』という曲には、息苦しい学生生活からの文字どおりの卒業という意味と、臆面もなく純粋さを振りかざせる幼い自分からの卒業という意味の、二つが重ね合わされていると思います。だから『卒業』という曲には尽きない魅力があるのだと思いますぅ。
■ 小原眞紀子 『Ongaku & Bungaku by Kingyo』『No.014 卒業-尾崎豊』 ■