谷輪洋一さんの文芸誌時評『No.009 文藝 2014年(夏号)』をアップしましたぁ。『人文書入門』といふ特集を取り上げておられます。谷輪さんには珍しく、『不思議と古めかしくは映らなかったのだ。・・・ポストモダンを起点にすべてを遡るやり方は、我々には飽き飽きするものだが、若い人たちにとってはそれもまた「へぇー」と言うべき、初めてのめずらしい考えに相違あるまい。その視線の前にそれらを紹介しながら、もしこちらがリフレッシュするならば、これほどよいことはあるまい』と誉めておられます(爆)。
不肖・石川も人間が古くなってきておりますので、リフレッシュしたいですぅ。編集者のたしなみとしてサルトルからドゥルーズあたりまで読み、知恵熱で盛り上がった時期もあったのですが、む~、もぉいいかぁといふモードになりつつあります。日本は島国のせひかほっとくと文化や思想が固着しがちで、歴史的事実としても常に外部(外国)からの刺激を求めている国です。石川くらいの世代はそれがポスト・モダニズム思想だったわけで、ちやうど高度情報化社会に重なっていたので一時期ものすごく説得力がござんした。しかし時間が経つと、異和を感じるポイントが徐々に増えてくるのですなぁ。
思想って最後のところ、人間の肉体に根ざした確信が問われるやうなところがあります。サルトルを読めばはっきりわかりますが、ポスト・モダニズム哲学までの流れの基底には、文化・経済両面でのヨーロッパの没落が深く影響しています。思考の基礎になっているのは言うまでもなくキリスト教神学から生み出された認識哲学です。それを解体していくと奇妙に東洋哲学に近似してくるわけですが、そこに注がれる情熱はヨーロッパ人固有のものだなぁ。しかし両者が統合されることは絶対にありまへん。デリダの『シボレート』などが示唆的ですが、ヨーロッパ人はたとえ陥没点であれ聖なる求心点を新たに作り出しますよ。
人間、生まれる場所と時代は選べないわけで、たとえ日本に生まれたとしても、日本文化を理解する日本人になれるとは限りません。ヨーロッパを始めとする外国文化・思想の刺激は大切ですが、日本文化をもそっと論理的に説明して欲しいなぁ。いつまでも侘び寂び幽玄、五七五に季語だと言っていてもしょーがない。言うまでもないことですが、思想は論理の形でなくても存在します。例えば『断腸亭日乗』で死去直前の永井荷風が、なぜ天気のことばかり書いているのかは思想問題として探究することができます。ただ二十世紀ではそれをヨーロッパ的論理で説明しなければならない。日本人はまだその論理化ができていないですね。
■ 谷輪洋一 文芸誌時評 『No.009 文藝 2014年(夏号)』 ■