大野露井さんの連作詩篇『空白』『第 011 回 Ⅹ 音』をアップしましたぁ。詩篇は『雨を降らせてみたいなら/雨だったらと言うだけでいい』で始まり、この主題が最後の『塹壕を掘れ/退路を染め出すためではなく/その場しのぎを締め出すために/(中略)/雨が手助けをしてくれるだろう/雨だったらと言いさえすれば』まで言語的な旅を続けてゆきます。甘美な抒情と強い意志が、言葉が書かれることで次々に展開してゆくとても大野さんらしひ作品であります。大野さんの作品には〝一つの書き方〟が感じられますね。
不肖・石川、自由詩の評価はとっても難しいと思います。実も蓋もない言い方ですが、大半の小説には物語があるので、技術的に一定レベルを超えていればそれなりに読める。それに長いので読者も時間を割いて読む。たいていの読者は善人ですから、わざわざ時間を費やして読んだ物語をあまり悪し様にけなしたりしない。〝それなりに面白かった〟と言ってくださる場合が多い。ベストセラーは普段小説を読まない人が本を買った場合に起こりますが、物語があるので誰でもそこそこ楽しめるわけです。
しかし自由詩は違います。自由詩の世界、死屍累々です。明治維新以降で記憶に残る作品を書いた詩人を挙げよと求められた場合、文学が好きな人でも10人ほどしか列挙できないと思います。小説家や俳人に比べても、優れた詩人として一般社会的で認知された作家は恐ろしく少ない。また実際、けっこう名前が知られた詩人の作でも、これは人様に読んでいただく作品レベルか、と感じることがしばしばあります。だいたい日本の現代詩人って、処女詩集はそれなりのレベルで第二詩集はその横ばい、第三詩集で翳りが見えて、第四詩集以降はあら、詩集出してたのって感じでせう(爆)。詩のレベルが上がっていく詩人は稀で、たいていは初期がピークです。
自由詩の世界では〝プロの詩人〟が存在しにくいんぢゃないかなぁ。自由詩には技法や思想的制約が一切ありませんから、詩人ごとに詩の〝型〟を作り出さなければならない。でなきゃ作品は量産できない。ほんで新たな型は新鮮だから初期作は高く評価される。でも型を維持するのはそう簡単ではない。一定の時期、あるいは数冊の詩集にしか型が存在していないケースがしばしば見受けられます。過去にいい詩を書いていても、今は素人同然の詩しか書けない詩人が多いのは、型を喪失しているからでせうね。自由詩の型を作家の〝表現本質〟と言い換えれば、その喪失は小説や俳句・短歌の世界でも起こり得る。しかし小説・俳句・短歌では物語や定型という外形的枠組みがあるので、作家の衰弱がわかりにくいのではないかと思います。
詩人の型は作家ごとに異なりますから、その意義は個々の詩人論によってしか明らかにできないと思います。また表現本質としての自由詩人の型は技法と思想の二つを含みます。思想的冒険や言語的実験、あるいはその混交であっても良いわけです。様々な形態で表されるこの型=表現本質の質やレベルを評価するのは難しいわけですが、厳密に書かれた文字だけから読者が圧力を感じる詩人は優れた作家でしょうね。大野さんの作品は抒情的であり、かつ前衛・実験的です。大野さんの作品には強い言語的な圧を感じます。
■ 大野露井 連作詩篇 『空白』『第 011 回 Ⅹ 音』』 PDF版 ■
■ 大野露井 連作詩篇 『空白』『第 011 回 Ⅹ 音』 テキスト版 ■