鶴山裕司さんの『BOOKレビュー・詩書』『No.006 高橋龍 『句集 飛雪』(不及齋叢書・伍)/『句控 二合半』(同・陸)』をアップしましたぁ。最近、俳句関連のコンテンツが少ないので、けふから3日連続で句集の書評をアップします。高橋龍さんは、鶴山さんがお書きになっているやうに高柳重信門下の前衛系俳人です。ゴリゴリの前衛派といふわけではなく、スラリと句を詠む俳人でもあります。そのせひか鶴山さんの書評も淡々としてますね。鶴山さん、こういふタイプの書評も書けるのねん。器用だなぁ(爆)。
この前、谷輪洋一さんから『石川クンって、詩に対してチョー厳しいよね』と言われてしまひました。んなつもりは全然ないのです。詩は好きですし応援もしています。でもま、俳人、歌人、自由詩詩人はぬるいなーと感じることもしばしばです(爆)。それが詩に対する厳しめの文章になっているやうですが、石川の言葉に反発して詩人の皆さんに奮起していただければ本望でごぢゃる。
ほんで俳句の世界、ようわかりまへん(爆)。外から見ると、俳文学句では芭蕉、蕪村、子規、前衛俳句などが大きな山脈として突出しています。山の下にはいわゆる〝月並俳句〟の平野がどこまでも続いておる。そういう俳人にも優れた句はあります。いつの時代でも数句の代表作を持つ作家はごっちゃりいるのです。しかしそのほとんどが作品と理論の力で俳句文学史に楔を打つような作家ではない。お遊びの習い事として俳句を詠んでいる方々を指導することに、人生の大半の時間を割いている俳句宗匠たちの結社群が現実の俳壇というヤツです。俳句雑誌では堂々と『定年後は俳句だよね。結社に入れば仲間もできるし、句会や吟行旅行なんかもあるから充実した余生が送れます』といふ特集が組まれております。結社広告は俳句雑誌の重要な収入源ですからね。
もちろんお遊びや習い事であれ、俳句を愛好する人たちが多いのは喜ばしいことです。でも水は高い所から低い所に流れる。俳句が文学である以上、俳句とは何かを考え抜きそれを作品としても理論としても外部に提示する一群の俳句賢者たちが必要です。それがぜんぜん見当たらない。俳句を文学として捉えるいわゆる前衛派は存在しますが、これもたいていは体制内反体制に見える。
俳人さんたちとお話すると実に文句が多い(爆)。現状を批判する言葉がポンポン出てきます。しかし退路を断つような形で自己の立場を明確にして、現状を変えようといふ姿勢は見られない。公的な発言になると、現実俳壇内で損をしないように気配りしながら俳壇のオーソリティ(権力者たちっていふ意味ね)にやんわり文句を言うことになる。前衛系俳人のつもりでも大結社が牛耳っている俳句の賞なんかが欲しいんでしょうな。そんじゃあ前衛系俳人が天下を取ったって、伝統派と質的に同じ俳壇ができあがるだけです。
とはいえ現実を見据えた上て俳句界を変えようとすれば、① 優れた作品、② 優れた理論、③ 優れた俳壇政治能力、が必要なのは誰にでもわかることです。どれが欠けても現実の俳句の世界は変えられない。今の俳句界に問題があると考えるなら、少なくとも誰かそういふ試みにトライしたんさいよ、と不肖・石川は思うのであります。文学金魚はそういふ俳人を応援します。でも他力本願はダメです。文学の世界、自助努力が基本です。何かを変えたいなら行動すべしです。
もちろん不満不平を封印して粛々と大結社で働くも道もあります。不肖・石川、大人になりきれていない前衛系俳人は、一度大結社で揉まれた方がいいんぢゃないかなぁと思わんこともないです(爆)。
■ 鶴山裕司 『BOOKレビュー・詩書』 『No.006 高橋龍 『句集 飛雪』(不及齋叢書・伍)/『句控 二合半』(同・陸)』 ■