外賀伊織さんの連載恋愛小説『ぐるぐる』(第11回)をアップしましたぁ。『ぐるぐる』、いよいよ大詰めですが、どんでん返しと言いますか、サプライズ展開が待っておりました。不肖・石川もこの展開は予想しておりませなんだ。でも小説はこうぢゃなくっちゃね、とも思います。愛の物語であると同時に家族の物語でもあります。外賀さん、やるなぁ。
メディアにはそれぞれ癖のやうなものがあるといふことは、このブログで繰り返し書いてきたことです。文学金魚掲載の作品を読んでくださる方はおわかりだと思いますが、文学金魚、いわゆる〝純文学〟を必ずしも重視しておりません。この場合の純文学とは、心理描写を中心とした私小説系の短・中篇小説、といふことです。もっと俗な言葉で言えば、プロットがなく、その上、言語実験的身振りだけが目につく心理描写系純文学作品を高く評価しない傾向があるといふことです。
これも何度もブログで書いておりますが、文学金魚は総合文学を謳っています。総合文学とは文学をジャンル別にではなく総体として捉えることです。小説だけが文学であるわけでなく、詩や評論だけが文学であるわけではない。こういふことを書くと、『当たり前だよ』とお答えになる作家が多いですが、実際にマルチジャンル的な視点を持っている作家はほとんどいない。自己が関わる文学ジャンルを〝文学〟だと捉えている作家が大半です。
文学を総合的に捉える必要があるのは、現在、文学の状況が極めて不安定で流動的だからです。本が売れない原因は様々ですが、社会や読者にその要因を転化しなければ、作家が社会全体の変化を捉え切れていないからだといふことになると思います。社会が大きく変化しようとしている時には、作家もメディアもそれを敏感に感受して変わっていかなければならない。しかし作家もメディアも、むしろ既存の文学的価値観や利権にしがみつこうとする姿勢が目立ちます。
総合文学的な視点は、作家が表現の場として選んだジャンルを相対化してくれるはずです。またそのジャンルの本質とは何かを考えることを作家に促すと思います。純文学を文学の中の最も〝純〟なるもの、つまりその〝本質〟と捉えれば、各ジャンルの本質のようなものが自ずから露わになってくるのではないかと思ふのです。
小説の場合、それはやはり物語でしょうね。もちろん現代詩やポスト・モダニズム哲学を小説文学に持ち込むのは大いにけっこう。しかし小説文学の本質を把握しなければ、単なる迷走になってしまひます。物語を手放せば小説文学はその本質を失う。単純かつ奥の深いこのテーマを突き詰める必要があります。簡単に言ってしまふと、文学金魚では大衆小説やエンターテイメント小説の体裁を持った〝純文学〟を高く評価するといふことであります。
■ 外賀伊織 連載恋愛小説『ぐるぐる』(第11回) pdf版 ■
■ 外賀伊織 連載恋愛小説『ぐるぐる』(第11回) テキスト版 ■