杉田卓也さんの新連載映画批評『「映画に内在するものを巡る論考」について』と『No.001 死刑執行人の彷徨う先は-『アクト・オブ・キリング』』をアップしましたぁ。たいていの場合、わたしたちは映画をホゲッと見ております。他者の文章を読んだりして、あーそういふことだったのねと思うことも多い。それを杉田さんは『映画は時間制のメディアであるために、我々に対して常に挑戦を要請する』と書いておられます。杉田さんの『映画に内在するものを巡る論考』は、『脚本、演出、そして映画を支える外的要因などを分析し、提示』していくコンテンツです。
初回で取り上げておられるのは、現在上映中のジョシュア・オッペンハイマー監督によるドキュメンタリー作品『アクト・オブ・キリング』です。1960年代に起こったインドネシアでの大量虐殺を追った映画です。特徴的なのは、この映画が被害者ではなく、加害者の視線から事件を追っていることです。それだけでもスリリングな映画です。またこの作品が映画として撮られたことが、杉田さんによって事件と微妙に結び付けられていきます。
映画の主役格になっているのはアンワルという実在の人物で、虐殺を行った当事者の一人です。杉田さんは『共産主義者を拷問するシーンを撮影する際に彼は黒いスーツと帽子を被り、アメリカのギャング映画にあるような暴力表現を目指そうとするが、・・・自分自身が犯してきた殺人を扱っているにも関わらず、緊張感が無く、ともすれば他人事のようである・・・アンワルにとって殺人とは自分が実行するものである前に、ハリウッド・スターが行う芝居の模倣なのだから』と書いておられます。杉田さんはハンナ・アーレントの『イェルサレムのアイヒマン』なども引用して考察しておられますが、大量虐殺の主導者たちが単純な悪魔的人間像に結びつかないことは歴史が教える通りです。むしろ様々な形で仮面化・演技化要素が入り混じってます。
杉田さんは『アンワルは絞殺を実行していた屋上に立ち、良心の呵責からか何度も何度も嘔吐をするが、キャメラはそれを冷徹に捉えるのみだ。幻想は打ち崩され、宙吊りになったままの心情がビルを彷徨い出ていく。死刑執行人は、もはや映画の中で死ぬことすら許されないのかもしれない』と書いておられます。見終わった後に後味の悪さが残る作品でしょうが、それが最も貴重なのかもしれません。芸術では絶対的善悪をはっきり描くことも大事ですが、なんとも割り切れない人間存在の闇を描くのはもっと重要です。自分は善だ、悪だと言い切れる人間は何かを演じている。演技が終われば普通の人間の姿が現れるのです。
■ 杉田卓也 新連載映画批評『「映画に内在するものを巡る論考」について』『No.001 死刑執行人の彷徨う先は-『アクト・オブ・キリング』』 ■